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日記「あいまいさを許容すること」




第72回東京藝術大学卒業修了作品展にて。

nisaiにも時々遊びに来てくれるCOCORO KAWAKAMIの作品を鑑賞。


「お店の前の道を竹箒で掃除するおばあちゃん」というエピソードから着想を得た、プライベートとパブリックとの間を追求した研究。

感覚的な発見や「なんだか嬉しい」と思ったエピソードや出会いからはじまる考察と実験。
そこから導く分析。自分と他人との境界、思いやりと義務感、利他と利己、公共と私有。

「人の心の動き」とか「やさしいせかい」っていう一見感情的でふわっとしたものを、執念と理屈で分析して体系化して「じゃあどんなものがあるといいか」を作り、それを地域に無償提供して、またフィードバックを得て、再び分析して、という一連の研究結果は、「研究」ってこういうことかと、レベルの高さに驚きつつ、日常や時代につながる部分があって、かなり面白かった。

率直な感想で、先日見た高畑勲の展示と近いところを感じた。
子供向けだったアニメ、楽しくしたり気を紛らわすだけで十分だった「アニメーション」にどうすれば「思想」を込められるかを、分析してプロセス化して共有して、アニメの進化を底上げさせた、監督でありつつ研究者に近い彼のワークフローと少し重なった。

自分は1970年代から25年に渡って作られた映画「男はつらいよ」の初期作品が大好きだ。
物語やキャラクターの魅力はもちろん、明確に描写されている時代背景がうつす、人と人との交流の様が好きだからだ。

すれちがった者同士が声をかけあう、商店街の人は全員声をかけあい、ドアを常にあけている、知らない相手だろうが、バス停で待ってるもの同士は話しかける、落ち込んでるものや困ってるものがいれば話しかける。お金を恵むわけじゃない。できないことはしない。ただ、話を聞く。誰も完璧な人間じゃないし、完璧になろうともしない。不便だったからこそ、一人になんかなれないからこそ、声をかけあい、別の人間同士、あわなければ怒り合い、許し合って過ごした。公共と私有が曖昧だった時代が描写された映画だから、好きな映画だ。フィクションならではの短絡的な描写・誇張された描写がきっと沢山あることを差し引いても。

一方その頃松田直己、2024年1月渋谷にて。

──喧嘩してるカップルを見かける。喧嘩、というより、泣いている彼女に、彼氏がひたすら詰めてる、みたいな感じだった。「喧嘩してるの?」と話しかけた。彼氏の方が振り向いて「こいつ、浮気したんすよ」と言ってきた。「仲良くやんなよ、一度好きになった同士だろ。ちょっと、君もなんか言ってやんなよ」と、そばに立っていた、スケボーを小脇にスマホに目を落とす少年に声をかけた。「興味ないっす」と言われた。「つめてえ町だな、おい」と言いながら、ステップを踏みながら井の頭線へ向かった──

誰もがスマホににらめっこしてる、関係のある人にしか関心がない、自分がいたい場所、自分が関心を持つ場所は全部自分で選択する。
「一人になることが容易になった時代」と「関わる人間を容易に取捨選択できる時代」だ。
それは、他人と私有だけじゃなく、味方と味方以外、好きと嫌い、良いと悪いを、誰もが極端に二分化して、曖昧さを失っていく時代だ。
極端な話じゃなく、あらゆる不幸や、孤独や、争いには、「曖昧さを許容すること」が肝要すぎる。それは時に「他人に声をかけられるか/興味をもてるか」だったりする。
そんなことを自分は日々思い、時に小さく抗って、のれんに腕押しを繰り返し、時に笑えてたりする。

だからこそ、より、この研究が、いいな、と思った。
曖昧さの分析と体系化と実践を行う姿に、時代への反骨心を感じて、いつかまた作品を見れたらいいなと思った。
そして、自分もそんな作品を作っていこうと、そう思ったのだ。

日記終

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