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終 電 ガ ー ル 【2/7】

初回【1/7】はこちら

 精液まみれであの駅のホームにへたり込み、駅員に声を掛けられるのは、さらに2年後のことだ。
 
 幸か不幸か、満はその密かな悦びを誰にも知られることなく、小学校を卒業して中学に進学。

 バスケ部に所属し、男子生徒の友達も沢山できた。

 必然的に猥談が中心となる彼らとの会話も、傍目にはなんら支障無くやり過ごすことも出来た。

 しかし、満は大変な美少年であったのにも関わらず、女生徒たちと仲良くなることはなかった。
 女生徒たちの方では、少なからず満に好意を抱いている者が何人かは居たかも知れない。

 しかし満自身は、どうしても女子生徒たちと距離を置かざるを得ない。

 非常に屈折したことであるのは判っていたが、身の周りに居る現実の少女たちはあまりにも現実的過ぎたからだ。

 笑い、喋り、弁当を食べ、走り回る現実の少女達。

 普通の健康な男子としては、そうした現実に対してそれ相応の魅力を感じなければならないことは、満も頭の中では判っている。

 しかし、満にとっての少女とは、毎夜鏡の中に立つ、あの姉のセーラー服を着た少女だった。

 中学1年生になり、少しだけ躰は逞しくなったが、もともと華奢な骨格のおかげで、姉のセーラー服はまだ着ることができた。

 去年の夏は少し大きめだったセーラー服が、今はちょうど良い寸法になっている。
 鏡の前に立つときは、いつも姉からくすねた、あのピン留めで前髪を留めた。

 どんな少女より魅力的だった。

 そして満は毎夜のように、その格好で鏡の前に立ち、自慰をする。

 熱くなった自分の性器を激しく扱くことによって、鏡の中の少女を犯した。そしていつも、鏡の前で果てた。

 しかし、いつかはそれを終わりにしなければならない。
 終わりにしなければならないことは判っていたが、止めるきっかけは見つからない。

 姉のセーラー服は、日に日に自分のと、精液と、欲望そのものの匂いに汚されていくような気がした。

 何度かこっそり、姉のセーラー服を自宅の最寄り駅から2駅手前のクリーニングに出したこともある。

 その度にセーラー服は見た目にきれいになって返ってきたが、汗と精液の匂いは消えても、欲望の匂いだけは消えないばかりか、ますます強くなるように思えた。
 
 そのまま満は2年生になる。

 そして、厳しいことで有名なある進学塾に通い始めた。
 母と姉たちの薦めで、大学へエスカレーター式に進むことができる、有名な私立附属高校に入学するためだった。

 それははっきり言って満の意思でもなんでもない。
 ある意味、満の人生を大きく左右する決定だったが、その頃の満は自分の意志というものをすっかり無くしていた。

 毎夜、鏡の前で空しく自分を慰める日々の中、それ以外のすべてから現実感が薄らいでいたからだ。

 以降週4回、学校の帰りに塾に寄り、終電で帰宅する日々が続くことになる。

 同じ年頃の少年にしてみると、それだけの時間を勉強だけに注ぐのは苦痛だろうが、満は淡々とそんな日々を過ごしていた。

 逆に一人で部屋に居る時間が少なくなる分だけ、楽になれる。
 かといって鏡の前で行うあの空しい自慰の儀式が、絶たれる訳ではなかったが。

 雨の降らない梅雨で、夏ももうすぐ、というある日のことだった。

 満はいつもと同じように、塾帰りの最終電車に居た。
 ビジネス街と繁華街を経由するその路線は最終でもかなり込み合う。

 その日は金曜日ということもあって、酒臭いサラリーマンやOLたちに囲まれ、満は電車のドアに押しつけられていた。

 肉体的にも、精神的にも、特に苦痛は感じない。
 逆に沢山の人いきれの中に居ることが、満の心をすこしだけ和ませた。

 ハードな受験勉強をこなす日々の果てに、この電車を満たしている、酔っぱらったサラリーマンやOLたちの姿がある。

 少し斜に構えて見れば、そんな風に考えることも出来た。

 しかし現実感覚をすっかり失っていた満の心には、そんな皮肉を受け入れる余裕はない。

 ただぼんやりと窓の外の暗い景色を眺め、心はものを考えることを拒否していた。
 電車が真っ暗な田園地帯に入る。

 電車の窓は満の顔を、そしてその後ろの車内の景色を鏡のようにくっきりと映し出す。

 満の背後、2、3人を隔てて、その少女の顔があった。

 少女は、あの姉のものと同じセーラー服を着ている。
 肩までの髪にうすい顔立ちの、大人しそうな少女。

 満の身長は160センチほどあったが、その少女も満と同じくらいの背丈だった。

 窓鏡に映る少女の様子は、さして目を引くものでもなかった。
 ただの最終電車の風景のひとつに過ぎない。

 満がその少女の姿を意識の外に追いやろうとした時、鏡に映る少女の顔が歪む。

 きつく目を閉じ、唇を結び、小さく震えている。

 すべてに対して閉じられていた満の関心が、ゆっくりとその少女に集中していった。

 そうだ。そんなはずはない。
 
 あのセーラー服を着ている女子高生など、存在するはずがない。
 
 何故なら姉の母校は姉の卒業2年後、あのセーラー服を廃止してブレザーの制服を取り入れていたからだ。

 そして満は、その高校に入るために塾に通っている。

 満の鼓動が高まっていった。

 ここ2年ほど、霞がかかっていたような頭の中に、血液が充満していくのが判る。

 電車の窓鏡の中で、悩ましげな表情を浮かべている少女。
 肩までの髪はつややかで、頭頂で二つに分けられている。

 切れ長の瞳と小作りな顔。
 白いうなじ。
 細い肩の線。

 反射する窓ではそこまでしか確認することができない。

 少女は時々、びくっと肩をすくめ、ちらちらと周囲に神経質な視線を向ける。
 鏡を通して一瞬、少女と目を合わせそうになった。満は慌てて視線を逸らせる。

 それまで感じなかった人いきれの熱気が妙に生々しくなり、全身から汗が滲み出した。

 少女の肩がまたびくっと引きつり、頭を左に傾けたその時、少女の後ろに立っている男の顔が見えた。

 見たところ30代半ば…丸顔に銀縁の眼鏡を掛けた、暗そうな中年男。

 その男とも鏡を介して目が合い、満は背筋にゾクッとした寒気を感じた。

 “痴漢……?”

 まず頭に浮かんだのはその言葉だった。

 電車が田園地帯を抜けて明るい街に入り、車内アナウンスが次の停車駅を告げる。
 次の停車駅は地下鉄へのターミナル駅で、人の乗り降りも多い。

 満は何気なさを装いながら、そっと背後を覗いた。

 少女は俯き、黒髪を垂らして震えている。真後ろに立っている小太りの男が、鼻に汗を浮かべて目を見開いていた。

 明らかに尋常ではない。
 周りの乗客は気づかないのだろうか?

 助けようなんて積極的な対処は思い浮かばなかったが、いずれにしても、次の駅では多くの人が乗り降りして乗客が入れ替わる。

 その隙にあの少女も男から逃げることが出来るだろう……。

 そう思いながらも、視線の端で、少女の様子を盗み見ずにおれなかった。

 電車が停車し、満の目の前のドアが開いた。降りる人並みに押し出されて、満もホームに出る。

 満は電車から溢れ出てくる人の群に目を凝らした。やがてあの少女と、その後に立っていた男がぴったり躰をくっつけた形でホームに出てきた。
 少女は俯いたまま。男は少女の背中にぴったりと付き、相変わらず目を見開いている。

 満は目を疑った。

 セーラー服の少女は、男から離れようとしない。

 そればかりか、乗り込んでくる人の波に紛れ、またも電車の中に男と歩調を合わせて入っていく。

 満も慌てて後を追った。

 背後から詰め込まれてくる人々に押されて、躰が反転した。
 一瞬少女と男を見失ったかと思ったが、その心配はなかった。

 気が付くと満は、少女の真正面に立っていた。

 さらに人が乗り込んできて、満の躰が少女の躰に密着する。

 思いがけない急接近だった。
 これでは目線を合わせないどころの話ではない。

 少女の後に立った男は、少女の左肩に顎を乗せるように彼女の背中に張り付いている。

 少女の右の肩に乗っているのが、満の顎だった。
 満とその男は、少女の躰をサンドイッチにして向かい合う格好になっている。
 少女の匂いを嗅いだ。

 金木犀きんもくせいの匂いがした。
 同年代の少女からは香らない、貴重で静かな香りだった。

 自分の胸に、少女の胸が押し当てられているのを感じた。
 思ったより豊かな胸。
 いや、少し豊か過ぎるかも知れない。

 大きな胸の脂肪が、満と少女の間で押しつぶされている。
 満は自分の鼓動が少女に伝わっていやしないか、気が気ではなかった。

「……うんっ……」

 電車が動き出すと同時に、少女が小さく唸った。

 満の頭に自分の頭を押しつけるように、窮屈な中で少女が身じろぎする。
 少女の熱くなった吐息が満の頬に触れる。

 満は自分の鼓動とは半白遅れの少女の鼓動を感じた。
 そしてその背後に立つ、男の鼻息も感じた。

 風通しの悪い男の両の鼻からは、まるで笛でも吹いているかのような間抜けな音がした。

 スピ―……スピ―……スピ―……スピ―……スピ―……
 
 「……やっ」

 少女は小さく声を上げると、満の方に腰を逃がしてきた。
 制服のズボンを通して、少女の下半身の体温が伝わってくる。

 少女が満に全体重を任せてきた。
 少女の鼓動が、さらに間近になる。

 あまりにも近すぎたので、満の位置からは少女が男に何をされているのかは見えない。

 しかし、少女の躰は男の動きに反応して、満の躰の上でくねった。

 まるで豊かな胸を満に擦り付けるように、そして下半身をなでつけるように、少女の躰が満の躰を這い回る。

 いつしか満も、鼻で荒い息をしていた。

 少女の背後の男は自分の行為に夢中になっていて、満の存在などまるで眼中にない様子だった。

 男の手が少女のスカートの中に入っていることは明らかだった。
 その手が与える振動から逃れようとして、少女の躰が踊る。 

 満は胸一杯に少女の匂いを嗅いだ。

 少女の躰の感触と匂いが、満から理性と善悪の判断、そして時間の感覚をいっぺんに奪い取った。

「……あ……いっ……」

 時折かすかに、少女から甘い吐息が漏れる。

 満の息と少女の息、そして男の息がそれぞれバラバラのリズムを奏でていた。
 車内アナウンスも、周りの人の気配も、全てが意識の外に追いやられた。
 列車が次の停車駅に向かって速度をゆっくりと落としていく。

 電車の中に満たされた無数の人々の体重が、比重の重い液体のようにゆっくりと傾く。
 と、少女が突然、満のシャツの裾を掴んだ。

 その確かな力の感覚に、満は我に返った。

 少女がこれ以上ないほど首をすくめて、息を止めているのがわかる。

 背中に張り付いた男はだらしなく口を開け、天井を虚ろに見上げている。
 男の頬の肉が揺れた。
 男が全身を震わせて少女に振動を与えている。

 さらに強い力で引っ張られる満のシャツ。

 少女は自分のことを意識して、こんなことをしているのだろうか? 
 それとも物理的に自分がここに立っているから?

 満の頭が激しく混乱する中、電車は満の最寄駅である、ベッドタウンに到着した。
 
 少女の手が、満のシャツから離れる。降りる人の群が、満と少女を引き離した。

 投げ出されるようにホームに出る。

 足早に改札へ急ぐ人の群の中で、満は必死に少女と、あの丸顔の男の行方を探した。
 電車のドアが閉じる一瞬、車内にも素早く目を走らせる。車内に二人の姿はなかった。
 と、階段へ向かってそそくさと掛けてゆく、少女と男の後ろ姿を視線の端で捉える。

 満は急いでその後を追った。

 気づかれぬようにわざと感覚を開けて二人を追う。

 後ろから少女とその男を見ていると、とても奇妙だった。
 二人はまったく、痴漢とその被害者には見えない。

 恋人同士とまでは行かないが、まるで親娘か兄妹のようにも見える。

 二人は横一列に並び、歩調を合わせて階段を駆け下りていた。

 何の理由もなく、満は先ほどあれほどまでに近づいた少女との距離が、また開いたような気がした。

 改札を出てゆく二人。

 一目散にタクシー乗り場を目指す人の群から離れて、二人はもう最終のバスがとうに出てしまった後の、バス乗り場の方へ向かう。

 さすがにそこまで尾けると怪しまれることは明らかだった。

 満は早々に駅を閉める準備を始める駅員たちを後目に、出口前の柱の影から、二人の様子を伺う。
 
 少女と男は、向かい合って何か話をしている。
 二人の間には、笑顔さえ見て取れた。

 男は少女の肩に手をやると、その耳元で何やら囁き、財布を取りだすと紙幣を2、3枚彼女に渡した。

 少女はそれを受け取って、にっこりと笑った。

 ふたりはさよならの挨拶をして、男だけがタクシー乗り場の方へ歩き出した。

 少女はその背中をずっと見送っている。

 男がタクシーの列の中に収まると、少女は肩を落として、踵を返すと、ゆっくりと歩き出した。

 満の足が独りでに動いて、少女を追った。
 胸がさらに激しく動悸し、額に汗が滲んだ。頭の中はどこまでも混乱していた。

 手を伸ばせばすぐに届きそうなところに、未だ自分の知らない深い闇がある。
 その闇はずっと満の心の中にあり、はっきりとした形を持たないが故に、満を苦しめ続けてきた。
 
 その正体に、ようやく自分は手を触れようとしている……
 やはり、不安と恐怖があった。
 しかしそれを払拭するに足る、亢奮と期待が満を動かしている。

 少女は駅前の公衆便所に向かっていた。

 満は少女に悟られないように彼女と距離を保つことを心がけたが、逸る心はいつのまにかその距離を縮めていた。少女が公衆便所に着くまであと三歩、というときだった。

 ぴたり、と少女が歩くのを止めた。

 はっとして満も足を止める。

 その時には満と少女の距離は、5歩ほどしか離れていなかった。

 しばらくの沈黙。

 まるで世界中の時間が停まってしまったかのように、少女は動かないし、満も動くことが出来ない。

 やがて少女は、満の方を振り向かずにこう呟いた。

「……なんか用?」

 びっくりするほど、落ち着いた声だった。

「…………」

 満は左足を一歩前に踏み出した格好のまま、金縛りにあったように凍り付いていた。

 少女がゆっくりと振り向く。

 電車の中で、ほとんど息かかりそうなくらいに接近していたその顔が、今は満の方だけを向いている。
 少女は切れ長な目の奥から、心の底まで凍り付きそうな冷たい視線で満を見た。

「……なによ、あんた」

 少女の……いや、その女の小さな口の端が、うっすらと上がった。
 
 その視線と笑い方に、少女が持つ特有の幼さや初々しさは無かった。
 
 つややかな肌と全身から醸し出される儚さは少女のそれに似ていたが、その視線と微笑にはまったく少女らしさはない。

 目には隠すことのできない疲れがあり、笑みには彼女自身の存在をも嘲笑うような、つめたい皮肉があった。

「…………」

 満は凍り付いたまま、この場に相応しい言葉を見つけられない。

「なんか、文句でもあるわけ?」女は冷たい声で言う。「……なかったら、消えてよ」

「……あの……」満はカラカラになった声で言った。「……ぼくを……覚えてますか……?」

「…………?」

 女が一歩満に近づき、目を細めて眉間に皺を寄せ、満の顔を見る。

「…………あの……」

 思わず満は一歩後じさっていた。

 女はボストンバッグの中から、赤いセルロイドフレームの眼鏡を取りだして掛けた。
 そしてさらに一歩近づき(満はまた一歩後じさった)満の顔を凝視した。

「……ぜーんぜん。悪いけど。あたしがしがみついてたの、あんた?」

 女はそう言うと、また口の端で笑う。

「さっき、電車の中で、あなたの正面に居ました………覚えてませんか?」

「…………あたし、眼が悪いから……」女は腕を組んで空を見上げる。「………で、なに? 全部見てたってこと? 服引っ張って悪かったけど、それで、文句言いに来たの?」

「………あの………」満は自分に何も言うべきことが無いことに気づいた。しかしもう後には退けない。「……その制服、もう今は、どこの学校でも使用されてないでしょ?」

 女はそれを聞くと大げさに自分の制服を見下ろすような格好をした後、ほんもののバカを見るような眼とバカに言って聞かすような口調で、満に言った。

「だからって何? あたしみたいなババアがこんな服着ちゃいけないって言いたいの?」

「……そんな……ババアって……」

 満は困り果てて下を向いた。
 女はそんな満の様子を面白がるように見ている。

「あんた、いくつ?」女が言った。「14? 15? そのへん?」

「…ことしで14。まだ13歳です。」

 問われるままに答える。

「……あたしは28。じゃあ、あんたのの年ってことだよねえ……まあ、だからババァはホントか。気にしないでいいよ」

「………」

 驚くべきなのだろうか。
 どうすべきなのだろうか。
 満は下を向くしか無かった。

 下を向いていながら、満は女の視線を頭頂あたりに感じた。凝視されている。

 どんな顔で凝視されているのか気になって、少しだけ頭を上げて伺った。
 女は笑みを浮かべていた。まったく優しそうではない、何かを企んでいる顔で。

「……あんた、時間ある?」

 女の声に、満は思わず顔を上げた。
 顔を上げた先には、相変わらずの冷たい嘲笑の顔が待ち受けていた。

「知りたいんでしょ? ……なんで28にもなる女が、こんな格好で、こんなヘンなことをしてるのか。……そうでしょ?」

 満には返す言葉も、それを断る理由もなかった。

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