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Takerにはなりたくない

スリランカでは本当に色んなものを現地の人から貰っている。ご飯やアクセサリーだけでなく、一緒に買い物に付いてきてくれたり、出先で飲むティーをご馳走してくれたり…本当に色んな面で現地の人に助けてもらっていて、日々有難さと申し訳なさを感じるばかりだ。

特にここ最近はお昼ご飯を職場の同年代の子と食べる機会が多く、いつもその子が2人分作ってきてくれるものを頂いている。国際協力のはずが、現地人にお昼ご飯を貰っている日本人って何なんだろう、と何度も思ったけど、断る理由もないので、いつも貰ってしまう。
こうして常々周囲の人からアクセサリーやご飯やら色んなことを助けてもらっている中で、自分は受け取ってばっかりだなと感じることが増えた。ああ、受け取ってばっかりじゃ良くないなぁ、と。でもスリランカのこと何も知らない大きな子ども状態の私に何が出来るんだろう?ちょっとでも何か「ありがとう」って言って返せたらいいのに…と思っていると、滋賀の農村集落にいたときも同じようなこと考えた気がした。

久しぶりに自分のnoteを見返してたら、たぶん考えていたのだろうけど、今以上には悩んでいなかったことを思い出した。
そうそう、いつも大量に野菜をくれる隣のおばあちゃん。庭先で野菜を育てていて、いつも「手伝いましょうか?」と声をかけても「大丈夫大丈夫」と言われて、その次には野菜が出てくる。いつもそんな調子だから、私には何も出来なくて、でも何も出来ないなりに、遠くにお出かけした時はお土産を渡したりしてた。
ああ、あの世界は豊かだったなぁと思うと、ちょっと日本に帰りたくなる。早くお漬物を上手く作れる人になりたいし、「今日は寒いですね~」なんて言いながら無意味に空を見つめていたい。

感傷に浸りつつシャワーを浴びながら、一緒に涙も流したら、やっぱり過去って美化されがちだな、と感じる。あの時も何だかんだ大変だったんだよ。むちゃくちゃ寒いし、動物はいっぱい出るし(後にサルと格闘する)、草刈り機が使えなかった時は雑草取りしかしてなかった。まぁ、そんなもんだから、きっとスリランカの豊かさも見つけれるはずだし、2~3年後に私はスリランカのことを思って涙しているはず。(そうあって欲しい)

しかし、私にだって何も出来ないなりに、出来ることはある。農村集落での経験からそう考えることができたので、早速、スリランカのお菓子を誰かにあげる用としてストックすることにした。
次の日、いつもご飯を持ってきてくれる子とランチを食べた後に「甘いものでも食べようよ」とその子が言った。これはチャンスだ、と思って食後のロールを2人分支払った。けっこう強引に支払ったので、彼女は「なんで?」と聞いてきた。私は素直に「私は貰ってばっかりだから、Takerにはなりたくなかったの」と言うと、彼女は「大丈夫だよ、このご飯はシェアなんだから」と言った。
その時にふと、私はまだ「私とあなた」の概念だけど彼女はきっと「私たち」の世界線にいるのだと思った。これだけ「私たち」について考えたりしてるのに、私なんてまだまだなんだと、この一言で痛感することが出来た。

私は彼女と一緒に食べていたご飯を無意識に「所有」だと思っていた。しかし、彼女は「所有」ではなく「シェア」なんだと言った。彼女の言い方からして明らかに「所有」と「シェア」は違うのだろう。
私は「所有」だと思っていたからこそ、申し訳なさを感じていたのだろうか?いや、そうじゃない気もするんだけど…。じゃあ何なのか?って考えると、全然分からない。

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