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『Killer Queens!』観劇レビュー(22.10.16)

稀に、物語を書く。
書くことは、勇気がいる。
読書家でも、文章の勉強をしたわけでもない。ずぶの素人、下手の横好き。書けば書くほどイメージから遠ざかるのがわかっているから、できるなら書かずに済ませたい。
それでも、何年も頭のすみに居座るひとがいる。書けませんよと何度言っても、頑固に押し黙ってそこにいる。
それで気の毒になって、書く。
だいたい十年にいっぺんくらい。

そんなありさまなので、作家と名乗るひとを尊敬する。
年に、月に、時には週に日に、言葉をもって世界を紡ぎ、あまつさえそれを暮らしのたつきとできる。その技量、熱量。自分以外の誰かが、大切なお金とひきかえにしても得たいと望むほどの何かを、たゆまずに手を動かすことで生み出し続けることのできる力。

今ではもう最初の出会いがいつだったか忘れてしまうくらい、いつのまにか知己を得ていたモスクワカヌ氏は、劇作家だ。
十五年、いやもっとだろうか、こつこつと戯曲を書き続け、一昨年は『It's not a bad thing that people around the world fall into a crevasse.』で第20回AAF戯曲賞の特別賞受賞という快挙まで達成されている。
大尊敬と言うほかない。

そのワカヌ氏の新作を拝見する機会に恵まれた。

タイトルは『Killer Queens!』。切り裂きジャックと並び立つ女性killerを決めるコンテストパーティーが舞台のミュージカルという。
ひとづてに、同い年らしいと伺ったことがあった。ということはつまり、泣く子も黙る「キレる17歳世代」のお仲間であるということ。
その表現とともに語られるいくつかの事件を目の当たりにした当時、自身のうちに眠る昏い部分や当事者に思いをはせ、子どもなりにいろいろなことを考えた。
その気持ちを思い出すような作品だろうか。

期待はあざやかに裏切られた。

重厚な革のソファーが鎮座するステージは、さながら遊技場の隠し部屋、VIPにしか案内されることのない特別室のよう。ライトを浴び、華やかな曲とともに登場するkillerたちは、時代に性格、ひとをあやめるに至った理由まで十人十色。共通点はただひとつ、気の強さ。そして何より個性の強い彼女たちは最初こそぶつかり合うが、互いの内面をかいま見ることをきっかけに徐々に打ち解けていく。
冒頭の触れ込み通り、コンテストは平和的に幕を引くかと思われた刹那、まさかの人物が銃撃とともに乱入し……。

会場を出て、ほっと息をつく。雲間から差す鈍色の光が道路を照らすのを、ぼんやり眺める。
タイトルからは想像もつかない、血にまみれてなお静かに燃える、絆と連帯の物語だった、と思う。
ロビーで、熱く感想を語っている方がいらした。そうすることを必然とさせるくらい、今この時代のある面を見事に切り取った、意欲的な戯曲だった。
良い時間を体験させていただいた。心からそう思ういっぽうで、おなかの奥にもやもやと凝る何かがある。
気づかなかったことにするのは簡単で、しかも書けば書くほど伝えたいことから遠ざかる可能性がある。
それでも、書く。

世界観の説明が、台詞にせよ他の手段にせよ、もう少しほしかった。
というのは、中盤以降何度か銃が持ち出され/誰かに向けられ、緊迫したシーンになだれ込むことがあったのだが、死者が死ぬということがどれほどの大事なのかがわからず、舞台上の空気感についていけなかったのだ。
銃を向ける。引き金を引く。弾が飛ぶ。世界にひとつしかない何よりも大切なものが、奪われる。
それはkillerたちがしてきたことで、されてきたことでもある。
死してなお、みずからが巻き込まれた地獄を再現しなければならないことは、死ぬよりつらいことかもしれない。それでも、そのように順を追って考えてその答えに至る前に「なぜ銃を持ち出すことでコンテストが盛り上がるという発想に至ったのか」「みずからに銃を向ける人にやめてくれと懇願するほどの何かを、彼女はいつ他者と共有し得たのか」を、舞台の上で見せてほしかったという思いが残った。
また、このコンテストは誰が何のために開催したのかも謎のまま終わるのだけれど、それはもしかしたら後述する、この戯曲が書かれた背景にも関係してくる「目的もわからないのにただ搾取されつづけるむなしい現状」を揶揄したものかもしれないのだけれど、もしそうであればなおのこと、何らかの示唆があったほうが、より思考を深められてよかったのではないかと思う。

コンテストの進行にも、気になるところがあった。
コンテスト、すなわち試合というからには何らかの基準やそこで初めてお披露目されるイベントがあるもので、それは資料にもとづいて来歴を説明され、会話の中でパーソナリティを披露されること以外で示されるべきものではないだろうか。たとえば、といって面白くもない例しか思いつかないのがお恥ずかしいかぎりだけれど、たとえばナイフでどのくらい速く正確に獲物を仕留められるかとか、それぞれの「命」「奪う」といったお題に対する哲学を、制限時間内で語って(表現して)もらうとか。
とくにこのご時世、ひとが寄り集まって何かをするには相応の理由が必要とされる。戯曲が「このご時世」の一面を鋭く描写していたと感じるだけに、「Webサイトを作りそこにプロフィールを掲載し、あとはそれを読んだオーディエンスの感受性にゆだねる」という状況でも成立しかねない初期設定ではないだろうか、と感じられてしまったことが残念だった。
これもたとえば、切り裂きジャックと並び立つと自負する女性killerたちが、集められた会場の楽屋で本番前に繰り広げるドタバタが意外な方向に発展し……、というような作品紹介からの観劇であれば、心から楽しめたのではないかと思う。
それは、目撃したものとのズレがないと感じるからだ。

ただしこれは、作品への批判とはすこし違う。
自分の中では、ワカヌ氏の物語の作り方、生の叫びの反映ゆえんなのだということで納得している。

今年のはじめ、春が来る少し前に一本の映画の公開中止が決まった。
それをきっかけとして次々に明るみに出た、創作現場での性暴力を含む全てのハラスメントを把握しているわけでは、もちろんない。
むしろ、できるだけ耳に入れないようにしてきたふしがある。知るたびに涙が止まらなくなって、暮らしに支障が出てしまうから。勇気を振り絞って声を上げてくださった方には、大変に申し訳ないことと思う。ごめんなさい。
それでもいくつかの事例を知るたび、同じ業界で働く知己のことを思った。
このような、自分の身に置き換えて考えるにはあまりにおぞましいことがあった、そして自分はそれに気づけなかった、と明確に示された場所で働き続けることは、どれだけ辛いだろう。
そこが自身の能力を存分に発揮できる、無二の場であればこそ。
そうしてワカヌ氏は、わたしがただ泣いて耳を塞ぐ状況に対して、きちんとレスポンスをしたのだと思う。『Killer Queens!』という作品を世に出すことで。

大尊敬と、言うほかない。

過去にご縁あって、ワカヌ氏の戯曲をいくつか読ませていただいたことがある。ほんとうにいくつかしかなく、それだけをもって何かを論じることなどとうていできないのだが、執筆された年代ごとになんとなく3つの分類ができるのでは、と思ったことがあった。仮に「初期ぬ(初期モスクワカヌ)」「メタモぬ(メタモルフォーゼモスクワカヌ)」「今ぬ(現在のモスクワカヌ)」とする。
「初期ぬ」は、『この世の終わりの美しい窓』『The Girls next door』など、ファンタジー色のにじむフィクション世界に、呪詛と叫びをこめているのが印象的な作品群を指す。昔、川上弘美さんだったか、「デビュー当時は人間を描くのに気恥ずかしさがあり、人間でないものを通して描くしかできなかった」という趣旨のご発言を読んだ記憶があるのだが、それに近いものを感じる。内奥にあるものを差し出すことにためらいがあり、けれどどうしてもそうせざるを得ないという、衝動。
「メタモぬ」の一例として挙げさせていただきたいのは、『だるまかれし』『今すぐ現金、そんな時、(中略)テアトルエス!』。『だるまかれし』はご自身の経験をかなりストレートに反映させており、それが好評を得たと記憶している。自身をさらけ出すことでブレイクスルーした、というと永田カビさんの『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』や、フジファブリックの前ボーカル・志村正彦氏が詞曲を担った4thアルバム『Chronicle』を思い出す、というと共感していただける方がいるだろうか。
『今すぐ~』をはじめて読んだときは、あのワカヌさんがコメディを! とずいぶん驚いたものだったが、それも個人ブログや、今や恒例となったバレンタイン企画などで文字通り体現しているコメディエンヌぶりを執筆に反映させればむべなるかな、というわけでこちらも作者の個性を素直に出していくアプローチが戯曲の魅力につながっている、と思う。
そうして「今ぬ」は、冒頭でも触れた『It's not a bad thing that people around the world fall into a crevasse.』、かながわ短編演劇アワード2022の戯曲コンペティション部門で最終候補作となった『A home at the end of this world.』など。ノンフィクションを見つめ抜くことでフィクションに昇華させる「メタモぬ」の進化形として、他者が他者として生き生きと動いているという印象がある。それ以前の作品について、もちろん登場人物は個々のキャラクターにもとづいて喋り、動き、思考するのだけれど、作者の個性と思考の影響がやや強いというか、「描きたい世界」が先に立ち、人物はその枠からなかなか出られずにいるのではないか、と感じることがあった。「メタモぬ」を経てその壁が破られ、あたらしい地平をすすんでいるのが現在のワカヌ氏、すなわち「今ぬ」なのだと思う。

前置きがずいぶん長くなってしまったが、『Killer Queens!』は、「今ぬ」でありながら「初期ぬ」色が強い作品と感じた。それは、おそらく執筆の動機のひとつとなったであろう、現代日本の女性の人権を取り巻く状況への強い悲しみと憤りの結果であり、もしかしたらあえて、世界観を説明しないという方法論を採用したのかもしれない。すくなくとも、説明せずとも観客に十分そのメッセージ性は伝わる。それは開幕前レビューを書かれた中村みなみ氏が、的確に指摘しているとおりだ。
また、現在のワカヌ氏が過去作品すべてを執筆したあとのワカヌ氏であるように、いまこの国で女性の人権について描こうとしたならば『Killer Queens!』のような表現を一度は通らずにいられないだろう。つまり、まず、怒りを表明する。過ちを糾弾する。奪われたものを奪い返し、高らかに勝利宣言をする。細かいことは、言わない。言うまでもないだろう?

そのアプローチは、きっと必然だった。
そうして、それで、
その先を観たいと願うのは、わがままだろうか?

ワカヌ氏の戯曲に繰り返し表現されるいくつかのこと――自己肯定感の低さ、自分には居場所がないと思う気持ち、ふと見上げた夜空にまたたく星のような救い、理不尽な世界への怒りと悲しみ――は、作品の形で提示されることに大きな意味がある。それは彼女が十年以上の長きにわたり作家として生きてこられた、すなわち彼女の作品を必要とする他者がしっかりと存在しているという事実が証明している。
『Killer Queens!』も、長く愛される作品になるだろう。すくなくとも、女性だって人間なのだということを言いたいがためにシリアルキラーを援用しようとするひとは、ほかにあまり知らない。発想力では他の追随をゆるさない、それがワカヌ氏だ。
なればこそ、この作品を味わうにあたってどうしても気になってしまったことを、あえて書いた。それはたぶん、もっとたくさんのひとにワカヌ氏の作品が届いてほしいという気持ちからだ。
今のままでも、十分に伝わる。観る(読む)人が多いほうがすぐれているだなんて、そんなことはけっしてない。
ただ、ワカヌ氏の戯曲には可能性がある。その戯曲を待っているひとが、きっと今もどこかにいる。
まだ出会っていないそのひとのために、まだまだ進化しつづけてほしい。
えらそうになってしまってすみません。次回作も楽しみにしています。

■公演情報
劇団劇作家10月公演 リーディングミュージカル
『Killer Queens!』
【脚本】モスクワカヌ(劇団劇作家)
【演出】赤澤ムック
【音楽】伊藤靖浩
【会場】TACCS1179
【日時】2022年10月14日(金)~16日(日)
【チケット】全席自由
一般:4,000円 学生U-18:2,000円 障がい者割引:2,000円
配信チケット:1,500円
【CAST】
伊藤 昌子
大田 翔
岡田 あがさ
小見 美幸
角島 美緒
神 由紀子(朱の会)
関森 絵美
竹内 真里
露詰 茉悠
中谷 弥生
(五十音順)

【STAFF】
演奏・音楽監督 三橋 美笛
歌唱指導 三橋 美笛
照明 賀澤 礼子
音響 岡田 悠(One-Space)
音響操作 小町 香織
衣装・美術 わだかよ(NAGOMIDAデザイン)
宣伝 わだかよ(NAGOMIDAデザイン)
映像配信 タナバタカナリア
ドラマターグ オノマ リコ(趣向)
演出助手 大月 リコ(yoowa)
舞台監督 藤田 有紀彦
フライヤー校正 浅見絵梨子
制作 福山 啓子(劇団劇作家)丸山 香織(アナログスイッチ)
主催 劇団劇作家

【協力】
株式会社アプル クィーンズアベニュー 豪勢堂 黒色綺譚カナリア派 青年座映画放送 ブロードウェイ・ライン・カンパニー アナログスイッチ 趣向 青年劇場 劇作家女子会。

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