見出し画像

狂った社会での生き延び方【総集編】

最近、世の中の人々が荒れていていつか世界終わるんじゃない?って気もするので、そうならないように、そもそも論のようなものを書き出してみました。
あ、これまで書いた記事の総集編になっています。

ポリコレってどうなの?って話

ポリコレは正しいことを言っているが、なんだか惹かれないし、一つの意見がそんなに社会的正義になっていいのかな?と、思っているが、それを言うのも怖いし、明確に反論できる気もしない人は割と多いのではなかろうか。
そのもやもやを解消するために「ポリコレは正しいが、正しいことを言っても社会が良くならない理由」を言語化してみました。
(すみません、この記事、ちょっと考えが変わったので消しました)

よく考えてみると、この社会を支えているのは強者にも弱者にもなれない中間層で、彼らの犠牲によって道義的に正しいポリコレ社会が作られているという見方もできる。

どうして人々は先鋭化するのだろう?

中間層が搾取される社会では、いっそのことどうにでもなってしまえ!というような考え方が流行ってしまいがち。

近年、若年層を中心にリスクが高い肉体改造的なものが流行りだしている気配がしていて、これ大丈夫なんかなぁと考えている次第である。
で、これ、よく考えてみると、結果的に至る状況の振れ幅が大きく、強者側に強く振れるか弱者側に強く振れるかのギャンブルなのではなかろうか。

評価経済における「いいひと戦略」も結果的に先鋭化を助長する気がする

いろいろ書いていたら3000字近く達していた、それなりに読み応えのある記事である。
ほとんどの人の努力は認知されないのにも関わらず、いいひと戦略を取り続けていたら全く評価されずに頭がおかしくなる人が出てくるんじゃないかと思われる。

構造を考えると、評価経済社会で大体の人が評価されないということが明らかだと思う。
先にざっくり説明するが、なぜなら、評価経済が成り立つ前提がプロセスが認知されて人々の善行や悪行が明らかになることなのであるが、結果を知ることよりもプロセスを理解することの方が時間がかかるため、時間制約的に認知されるプロセスの数は限定され、だいたいの人の善行は社会的に認知されないからである。

もし友人が陰謀論に走ったらどう対処すればいいかを半分ネタ交じりで考えた

友人の思想が先鋭化したときの対処として、
自分が友人よりも頭のおかしい存在になることで、
その様子を目の当たりにした友人が正気を取り戻すのではないかと思って記事にまとめました。
頭のおかしい人になりきる方法をマスターいただければと思います笑。箸休めにどうぞ。

わけの分からんものにハマりおって、しかも長いぞ話が、、
くそぅ、せっかくの休日で、U-NEXTの見たい映画もたまっているというのに、自分だけ気持ちよさそうに語りおって、
許さんぞキサマ!!キェーーーイ!

『カチッ』と私の中でスイッチが入る音がしたが、
まずは目の前のカフェオレを一口飲み、気分を落ち着け、私はゆっくりと話し始めた。

2045年の日本は平成生まれが運営する無理ゲー社会【オマケで新規公開(リンク無し)】

2045年に平成元年(1989)生まれが56歳になる。
平成最後の31年(2019)生まれは26歳である。
この時期に労働者のほとんどが平成生まれになるが、平成生まれの日本人の総数は3352万8千人だそうである。
いや、少なくないか?
この労働人口で社会を回すのは多分無理なんじゃないか?と思ってしまう。

だから、責任感なんて持たずに、最初から無理なものだと思っといた方が病まないと思う。
恐らく重要なのは、日本の中でもなるようになるエリアとならないエリアが生まれてくると思うので、できるだけなるようになっているエリアに所属しておくこと。だからこそ情報を仕入れて予想して動いておく必要がある。
苛烈な競争に勝ち抜くよりかは、上手く生き延びる方法を模索する方が重要になってくるだろう。

結局横たわる人が増える気もするけど、何かしたいなら旅に出ると良いぞ

無料のコンテンツを消化して横たわり的に生きていくこともできるけど、いろんな場所に行っていろんなものを見た方が人生豊かになるというありふれた話。
話の中身としては、なぜ横たわり的な生き方になるかのメカニズムの方を厚めに書いている。

働き手が少なくITシステムで社会を維持している自由主義の国家ではジャンク化したジュブナイルコンテンツを消化して思春期を脱せずに年を食い子供のまま朽ちる生き方が一定の立場を持ち、それがある程度権利として保障されていて、その結果横たわり的に生きていくことにもなりがちである。

今でも存続している田舎の村ってすごいよね

過疎っても存続できている田舎村の社会が、どうして回り続けているかを考えるのは、これからの時代を生きていくうえで重要な観点かもしれない。

原始的に自然と共に生きる暮らしをしている村が今でも日本に存在しており、資本主義的にもある程度成功しているのである。自然と共に生きる思想は一周回って未来なのかもしれない。

指標のフルスコアを叩き出す偽の賢人を目指して競う人々

特定の科目のスコアのような相対的評価で良し悪しを測るのではなくて、新しい仕組みを考えて自分の人生に生かしていかないと生活が豊かにはならないという話。

英才教育を受けてあらゆるテストで満点を取ったとしても、
君は何ができるのかね?⇒満点を取ることができます
具体的にどういったものを作りたいですか?⇒満点の答案です
それによってどうやって儲かる仕組みを作りますか?⇒儲かる仕組みをマニュアル化してくれたら覚えることができます
となり、新たな仕組みは生み出されず、謎のテストのスコアが上がるだけなのである。
街の教育には罠がある気がする。

色々書いた後で思ったこと

一番重要で言いたかったことは指標に振り回されるとロクなことにならないということ。
指標に振り回されて考えが先鋭化していくのは危険。
ポリコレも言っても特定の尺度で見たときの正しさだから、一つの指標のスコア上げに似通っている。
特定の項目のスコアがより高いから評価されるべきなんだ!という思想がそもそも良くない。
それよりかは、新しい仕組みを考えて自分の人生に生かしていかないと生活が豊かにはならない。
理想や目的を達成するためにどういう手順で進めたらいいか考える能力を身に着けるべき。

あとは、競い合うよりも手近な面白そうなことをやっていった方が良いんじゃなかろうか?
すでに競技的に存在するものに参加するんじゃなくて、自分で新しい遊びを作るのも重要。

[追記]
後から気付いたことですが、量で測ると功利主義的に集団の幸せの総量を最大化しようとする思考になるが、その結果生贄にされる少数がいるのが良くない。だから社会は狂ってるという思想があるのかなぁと思いました。
だからこそ、量的な観点ではなくて、物事には一つ一つ構造があることを理解していかなくてはいけないと思ったのかもしれません。

そんな感じでした。
もし、気に入って下さった方がおりましたら、スキ押していって下さるとうれしいです。
以上です。長々と失礼いたしました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?