作品「人」


人               
 
 
 大学には何も期待せずに入った。文学部だったので本を読んでいれば、それでいいと思っていた。人付き合いは、最小限にしていた。淋しかったが、それでも独りの方がよかった。他人のことは、よく分からなかったし、興味も持てなかった。何より、自分のことが、分からなかった。
 
 ゆいいつ、アルバイト先で他大学の学生と友人になった。お互いのアパートを行き来し、一晩中、出口のない話をしていた。ある日、僕は、安ワインをしこたま飲んで、次の朝、友人のアパートの二階から吐いた。若い頃は、何だってやってしまうものだ。帰る時、彼は雪の中をバス停まで送ってくれた。ずけずけとものを言うが、根は優しい男だった。
 
 その後、しばらく音信不通が続いた。
 
 ある日、電話がかかってきた。彼は、以前と変わらない声で、今、入院しとォ、と言った。数日後、神戸の病院へ見舞いに行った。中庭に赤い花が咲き乱れていた。しかし、病棟には鍵がかけられていた。インターフォンを押して来意を告げると、医者がガチャリと扉を開けた。こんな病院、本当にあるんや、と思った。
 
 久しぶりに会う友人は変わっていなかった。正確にいうと、変わっているように見えなかった。だから、なぜ彼がここにいるのか分からなかった。面会時間と場所は、制限されていたが、最後に友人は、病棟内を案内してくれた。その時、見知らぬ人々のまなざしが、僕を軽く射抜いていった。
 
 それから十年が経ち、僕はあることに気づいた。
 
 それは、こころ病む人と、そんな人に親和する者が、それぞれ存在するということだ。僕は後者のようだ。神戸出身の友人に出会ってから、何人ものこころ病む人と知り合うようになった。ある人が、あなたはボーダーラインにいるのですよ、と教えてくれた。なるほど、と思った。彼らの眼には、僕がよく見えるのだろう。
 
 僕には、こころ病む人が、病んでいる人に見えない。そんな人たちこそ、ふつうに見える。彼らは、目先の利益よりも、自分を支える大切な何かを信じている。僕は、その人たちの持つ、それぞれの気高さに惹かれている。孤立を恐れない強さと、他者にどこまでも愛を求めようとする弱さに魅力を感じている。
 
 そう、いつのまにか、僕は、人が好きになっていたのだ。






『歩きながらはじまること』(七月堂)
『フタを開ける』(書肆山田)

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