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FGOは、「人間は正解を選べない」ことを教えてくれる。

諸君、私はFGOが好きだ。
諸君、私はFGOが好きだ。
諸君、私はFGOが大好きだ。
マシュが好きだ。ジャンヌが好きだ。メルトが好きだ。コルデーが好きだ。ヘクトールが好きだ。オリオンが好きだ。モリアーティが好きだ。ホームズが好きだ。ナイチンゲールが好きだ。
フランスで、ローマで、オケアノスで、ロンドンで、アメリカで、キャメロットで、バビロニアで、新宿で、アガルタで、下総国で、セイレムで、ロシアで、ゲッテルデメルングで、シンで、インドで、オリュンポスで。
このFGO世界で行われるありとあらゆるストーリーが大好きだ。

……という冗談はさておき。
僕はFGOが好きだ。
どれくらい好きかというと今日「東大生が心底オススメするゲーム」という東洋経済オンラインの記事でFGOについて本気で書き、ガチで語り過ぎて若干編集者に引かれたくらい好きだ。(このnoteは拡散しなくていいが、そっちの記事は拡散してくれると嬉しい)

でもなぜ、僕がFGOというゲームが好きなのかといえば、このゲームは「僕らは人生に意味を付与できない」ということを教えてくれるからだ。

昨日、奈須きのこ先生のブログに、2章5部ラスボスのキリシュタリア・ヴォーダイムの敗北ボイスとともに、こんな言葉が書かれた。

そう、人間は正解を選べない。
いつだって大切なのは、「この後、何をするか」なのですから。

……ああ、そうだ。そうだとも。FGOというゲームはいつだって、そのことについて教えてくれる物語なのだ。
人間は正解を選べない
この一見、後ろ向きな言葉こそが、FGOという物語の主題なのだと僕は思う。

今日は、この言葉の解釈について、みなさんに共有したいと思い、筆を取らせていただいた。この言葉の意味を知ると、キリシュタリア・ヴォーダイムという人間のfate(運命)についても、より深く理解できるのではないかと考えているので、その点も含めて、お話ししたい。

がっつり2部5章までのネタバレしてますので、注意です!

・FGOのボスは、人類を愛している。

まず、FGOというゲームのボスは、基本的に一貫した思考をしている。
それは、「人類をもう1段階上のステージに押し上げる」ということをしようとしているということだ。
たとえば1部のラスボス・魔神王ゲーティアは、この惑星をやり直し、生まれ変わり、全ての人が永遠に生きられるようにしようとした。「人は、死を乗り越えるべきだ」「最後には死を迎えるのならば、そこには絶望しかないではないか」と、『限りある命』を否定し、限りのない命としての人間を作り上げようとした。

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《第1部最終章より抜粋 不思議なほどに短く、面白い、「人生」》
そしてその夢は破れた。そしてもう一度、今度は『限りある命』を理解するために戻ってきて、ほんとうの人生を生きた。このゲーティアとの本当の最後の戦いは、演出も合わせてまた記憶を消して遊びたいと強く思う。

また2部5章のボス、キリシュタリア・ヴォーダイムは、世界の全ての人間を神にしようとした。この世の中にある挫折を、差別を、苦痛をなくし、全く新しい人類を作り上げようとした。誰もが神に等しい存在になり、より高い視野・より広い智慧・より深い時間があれば、人類は次のステージへとすすむだろう、と。『不完全な人間』を否定し、完全な生命を作り上げようとした。

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《2部5章より抜粋 「神を撃ち落とす日」の意味を知って度肝を抜かれた》
これは、他のゲーム・他のシナリオではあり得ないことだと思う。このゲームのボスは皆、人類と敵対したいわけではない。むしろその逆で、人類を愛しているからこそ、今の人類を否定し、次の世界を作ろうとしているのだ。
そしてそれは、FGOが続く限りずっとこの先も変わらないだろう。このゲームで敵となるのは基本的に「人類悪」だが、これは「人類を愛するが故に生まれた、人類が滅ぼす悪」であると定義されている。このゲームで悪役が語るのは、形はどうあれ紛れもなく、夢と希望に満ちた理想の世界なのだ。

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《1部最終章より抜粋 ギルガメッシュ王が丁寧に解説してくださっている》

そしてそれを否定するのが、主人公=プレイヤーだ。普通は逆なのだが、このゲームは違う。『限りある』にこそ価値を見出し、『不完全な人間』こそ意味があるとする。
この根本にある考え方が、先程言った「人間は正解を選べない」という言葉なのだ。 

・人生には生きている間に意味を見出すことはできない

みなさんは、自分の行動は正しいと胸を張って言えるだろうか?
今までの行動は、努力は、進歩は、全て正しいものだったのだと高らかにいうことはできるだろうか。
難しい問いに聞こえるかもしれないが、なんてことはない。
今、あなたが何かを努力しているとして、それが後々絶対に報われると言えるだろうか?
恐らくはそんなことはないだろう。もちろん、努力したら努力した分だけ明日に繋がる、短期的には失敗でも意味があると考えることもできるだろう。
でも、それでも、その努力に意味があるかどうかは、事後的にしかわからないのだ。
例えばすごい発明をしたとしても、それが大量殺人のために使われてしまうかもしれない。
例えば頑張っていい大学に合格したいと受験勉強をしたとしても、落ちてしまうこともあるだろう。
例えば何かに心血を注いでいて、あと少しで報われるとなったとしても、交通事故で明日死んでしまうこともあるだろう。
努力は報われないかもしれない。やっていることに意味はないのかもしれない。何が正解で、何が間違いかなんてのは、わからない。
人間はいつも、生きている間に「正解」を選ぶことはできないのだ。だから、生きることに意味を見出すことは無意味だ。今やっていることが正しいか間違っているかなんて、誰にもわからないのだから。
では、生きることに意味はないのか?というと、それも違うとこのFGOでは教えてくれる。

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《1部3章より抜粋 ロマニのこの言葉は、作品全体に通じる》
生きる意味がわかるのは、死ぬ時・あるいは死んだ後だと語るのだ。
終わる時になって初めて、人間は自分の人生に意味を見出せる。
生きたことに、意味を見出すために生きている。 

だからこそ、人間は今をひたすら、全力で走り続けるしかない。それに意味があるかどうかなんてのはわからない。もしかしたら無駄になるかもしれないし、後から悪だと糾弾されるかもしれな。それでも、走り続けていたら、きっと後から何か評価される報酬があるのかもしれない。
それを、fate=運命、と呼ぶのだと。

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《1部最終章 だめだこの画像見るだけで泣く》

例えば、1部のラストで、マシュはその運命に出会った。最期の時に、自分の望みを知った。 この時のオルゴールbgmは、涙無しには聞けない。というか今も流してまた泣いてしまっている。
だが、このシーンが感動的なのは、このシーンがマシュ・キリエライトという人間の最期だからだ。最期だからこそ、みんながこのシーンで号泣した。仮に、彼女が限りのない生命だったとしたら、出会わなかった答えに会った。そのfateにこそ、私たちは涙したのだ。
…そう、それこそがfate出会いと別れ、生と死の物語。
そしてその物語の先にいるのが、英霊という存在だ。善であれ悪であれ、全力で生きた者たちが、後から意味を見出された結果が、「英霊」なのだ。そこに、善か悪か、という違いはない。良いことをしたものも悪行を成したものも、ただ全力で、自分の生命に意味を見出したという一点において、彼ら彼女らは紛れもなく英雄だと認められているのだ。 

・結末を知って動くのは人間ではない

逆に、「正しいこと」を選ぶことに、このゲームは否定的ですらある。 このゲームには、全てを見通す千里眼を持ったキャラクターが何度も登場する。あのグランド糞野郎にして人権サーヴァントにして安室奈美恵に勝った男マーリンとか、過労死王ギルガメッシュとか。しかし彼らは、知っているが故に、その正解に縛られてしまう。正しいことがなんなのかをわかっているからこそ、人間としては生きられないのだと言われている。 だからこそドクターロマンは千里眼を捨て、結果がわからないことを楽しむ「浪漫」という名前を名乗った。 「こうすれば正解だ」という結果を知っていて、そのように動くのは、人間の視点ではない。 結果がわからない中で、どう動くのかを考える。その悩み・その苦しみの中にこそ、人間の本質がある。これについては、ジャンヌ・ダルクの幕間の物語で、その点がバッサリとぶった切られている。ジャンヌ・ダルクという英霊の本質が現れているワンシーンなのでぜひ読んでみて欲しい。

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《ジャンヌダルク 幕間の物語1 ジャンヌの本質は「あしたは明日の風が吹く」だと思う》

結論ありきで行動するのは、もはや人間ではない。
だから人間は、完璧でなくていい。現時点での正しさなんてわからなくていい。
わからない中で、どう動くのかこそが重要なのだと声高に主張するのだ。

では、はじめの言葉に戻ろう。 

そう、人間は正解を選べない。
いつだって大切なのは、「この後、何をするか」なのですから。

人間は、生きている間に正解を選び取ることはできない。正解が何かわからないままで、それでももがき、前に進まなければならないのだ、と。この言葉はそういう意味なのだろうと思う。
命とは終わるもの。生命とは苦しみを積み上げる巡礼だ。
ソロモンはそう言った。しかしそれでも、最後には、愛と希望の物語が待っている、と。
この言葉は、正解を選べない私たちだが、しかしそれでも、「この後」が待っているのだと、そういう解釈もできると思う。

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《1部最終章より抜粋 こちらも合わせてご覧ください

そしてそう考えると、彼の人生についても、より深い考察が可能になると考える。

・キリシュタリア・ヴォーダイムのfate

今回のボスにして、奈須きのこの言葉を借りるなら「クリプター編」のラスボス、キリシュタリア・ヴォーダイムは、非常にまっすぐな人間だった。 先ほどの定義で言うのならば、こんなに人間らしい人間もいないってぐらいに、人間だった

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《2部5章より抜粋》
天才でも、神でもなく、ただの一人の「人間」だった。多分これは、2部5章をクリアした人なら理解してもらえるのではないだろうか。
彼は、自分にできることを必死にやっただけの人間だった。虚勢を張り、ボロボロの体で、仲間から忘れられても、神と相対しても、それでも自分ができることをやり続けた。そして自分の命を賭して、次に繋げようとした。
みんなイキリシュタリアだとかりんご農家だとか言って彼のことを馬鹿にしていたわけだが、蓋を開けてみたらマジで、ただただ、いい人で、自分にできる最良を尽くし続けるノリの良い素晴らしい人だった。
ではそんな彼の、fateはなんだったのだろうか?彼は、自分の人生にどんな意味を見出したのだろうか?
彼は最期に、こう言った。
人間はみんな、頑張っているんだよ」。 

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《2部5章より抜粋》

僕はこのセリフで泣いた。FGOで泣くことは流石にもう、ベディ卿の最期とマシュの最期とアナスタシアの最期と項羽様の最期とガネーシャとの再会以外にはないかなと思っていたのだが(列挙したら意外と多かった、っていうか毎回泣いてないか俺?)、それでもこれは号泣してしまった。
自分は、自分にできることをやった。
それが他の誰かができたかどうかとか、そういうのは関係ない。
ただ、他の誰しもと同じように、頑張ったのだと。 
そしてきっと、そんな自分と同じように、他の人も頑張っているのだ、と。
この、
人という種への全面的な肯定こそが、彼の望みだったのだと感じる。
だからこそ、カイニスは跳んだのだ。跳んで、主人公の前に現れて、
キリシュタリア・ヴォーダイムのサーヴァントとして、エールを送ったのだ。

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《2部5章より抜粋》  
そう、エールだ。僕の解釈は、このカイニスは、キリシュタリアがしたのと同じように、自分ができることをやったのだと考える。
キリシュタリアが少年からバトンを受け取った。
同じように、キリシュタリアはカイニスにバトンを渡した。
そして、カイニスはそのバトンを主人公に渡した。 

彼の選択は、正解ではなかったのかもしれない。主人公とも、ベリル・ガットとも、道を違えた。
それでも彼は、全力で、自分にできることをやった。その生命の輝きは、私たちの中に残り続ける。正解ではなかったけれど、たしかに、次に繋がったのだ。「この後、何をするか」に、たしかに一石が投じられたのだ。

……これこそ、「愛と希望の物語」だろう。道半ばで折れたキリシュタリアの人生は、苦しみを積み上げる巡礼だったのだと思う。でも最後には、愛と希望を得たのではないだろうか。

いや、でもまだわからない。未来は決まってはいない。彼の人生が意味のあるものになるかどうかは、まだ、プレイヤーに託されているのだ。彼の人生が愛と希望の物語になるためには、私たちが、彼のバトンを受け取って、次に繋げなければならないのだ。

いつだって大切なのは、「この後、何をするか」なのですから。

そうだ。この後、何をするか。それにこそ、きっと未来は掛かっている。FGOを遊んで、キリシュタリアの人生を見て、それをどう活かすかは僕ら次第だ。このnoteを読んで、キリシュタリアについて考えて、みなさんがどういう行動をするかは自由だ。何も変えないのなら、それはそれで良いのだと思う。

それでも、僕は思うのだ。キリシュタリアが肯定してくれたように、「頑張って生きて」みないと、胸を張って彼の人生に意味を与えられないのではないか、と。

だからこそ、彼のためにも、もっと頑張らないと、と。

以上で、僕が伝えたかったことは終わりだ。本当はFGOの名場面とかそのキャラクターについてとか語り合いたいのだが、時間もないのでこちらで失礼させていただこうと思う。

ちなみにnoteはサボりがちだったのだが、今週から毎週金曜日投稿しようと思うので、興味があればぜひフォローして欲しい。

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