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奏章Ⅱにおける巌窟王エドモン・ダンテスの不可解な行動を考察したら、とんでもない仮説が生まれた

この記事では「奏章Ⅱ 不可逆廃棄孔イド」のネタバレを含みます。皆さんご注意ください!


ぐああああああああああーーーー!!!!

そ、そんな!!!!!!ペーパームーンの結論は「共存」だったじゃんか!!!!!なんで今回は「お別れ」になるんだよ!!!!!
お前らと一緒に、まだ旅がしたかったんだよ俺は!!!!!!!!!!

……と、泣きそうになりました(実際普通に泣いた)。
いやあ……不意打ちですよ。そう来る?そんなことする?って展開の連続で、本当に先に進む手を止められませんでした。まじで面白かった。

自分がここまでFGOを続けてきたのは、エドモンというキャラに惹かれたからだった。モンテクリスト伯はもともと読んではいたのだが、FGOでこんなに魅力的なキャラとして描いてくれて、そしてFGOでの主人公との「共犯関係」も好きで、だからこそ幕間での不穏な空気を感じて「うーん、、、なんか今回のシナリオも不安だ。。。。」と思っていた矢先、今回のシナリオでぶちのめされてしまった感じだ。

というわけで、心に傷を負ったがとてもとても面白いシナリオだった……というのが、自分の感想だ。

だが、一つだけ。
あれ?これっておかしくない?
と思ったことがあった。
その違和感を探っていくうちに、「あれ?もしかしてこの物語って、俺たちが考えているのとは全然違う物語だったんじゃ!?」と考えるようになった。

今回は、自分なりの奏章Ⅱ 不可逆廃棄孔イドの解釈について、みなさんに伝えたい。

1 本当に巌窟王モンテ・クリストは、あの動機だけで、3人を殺したのか。

さて、この記事を書こうと思ったのは、今回のシナリオを読んでいて、1箇所、どうしても腑に落ちないポイントがあったからだ。その違和感とは、ほかでもない。主人公も聞いていた、「あの問い」だ。

なぜ、巌窟王は、あの3人を殺したのか。

その理由が、どうにも腑に落ちない。

無論、作中でその答えは語られている。
その答えを要約すると、こうだった。

「お前に、復讐の味を味合わせるため」。


巌窟王の答え

そして、その後の問答を見ると、「復讐の味を味合わせた上で、それを選ばないことを信じていた」と考えていたことがわかる。
ネットで調べると、何人かの人が「ワクチンのようなもの」という説明をしていた。経験した上で、克服させる。巌窟王の目的はそこにあったのだろうと解釈できる。

ーーーだが。だが待って欲しい。

なぜ、そこまでする必要があった?

彼は、母と妹とキリエを手に掛けたことに対して、苦しい顔をしていた。
糾弾された際に、主人公に対して「お前は正しい」とも言っている。

彼は、やりたくなかった。これは確かだ。

赤の他人ではなく、「父」という役割を自分に押し込んで、その上で、父として、3人を殺して。そしてそれに対して「なぜ」と問われた際には、「主人公のために」と言っていた。
そう、「主人公のために」。
カリオストロ伯爵を倒すためではなく、純粋に、「主人公に、復讐の味を味合わせるため」という目的のためだけに、3人を殺したことになる。
でも、やっぱり腑に落ちない。

主人公も言っていたが、本当に、そこまでしなければならなかったのだろうか?
これがミステリー小説なら、犯人もわかっているし、殺人の過程も、犯人の動機/目的も語られている。これ以上ないほど詳細に語られていて、文句の付けようがない。
だが、それでも、自分はこう思うのだ。

本当に、「そう」なのだろうか?
本当に巌窟王モンテ・クリストは、そんな動機だけで、3人を殺したのだろうか?

2 巌窟王モンテ・クリスト、主人公に復讐の悦楽ではなく、辛さ・苦しさ・馬鹿らしさを伝えたかった説

自分はここに、1つの仮説を提唱したい。
おそらく多くの人は、あのシナリオを見て、「主人公に復讐の愉悦を味合わせて、その上で、主人公が復讐者にならないようにした」と解釈していると思う。そして、結論の部分は正しいのだと思う。「主人公が復讐者にならないようにすること」が巌窟王の動機だったということは疑う余地がない。

だが、過程の部分は、違うのではないか。
「主人公に復讐の愉悦を味合わせるために」3人を殺したのではないのではないか。
むしろ、「主人公に、復讐の辛さ・苦しさ・馬鹿らしさを伝えるために、3人を殺したのではないのではないか」と。

この仮説に関して、根拠は2つある。
まず第一に、これがメインの根拠でもあるのだが、巌窟王と主人公のやりとりだ。第七の試練で、巌窟王モンテ・クリストは主人公に問いかける。

「恍惚を感じたか?」
「甘美・愉悦・悦楽をその魂で味わったか?」
「否、言わずとも良い」
「ーーーソレは、俺たちが最もよく知っている。」

そして、「復讐とは、地獄に属しながら天上の甘美をさえ思わせる、最強の刃である!」と語る。
その上で、巌窟王はこう聞いた。

「おまえはソレを知った。故に、今こそオレはこう訊こう」
「ーーー復讐、おまえにはどんな味だった?」

それに対して、主人公の選択肢はこうだ。

「わからない」
「そんなことのために」
「そんなものを味わう必要はなかった!」
「知らなくても戦える!」
「オレは!」
「最後の、最後まで……きっと……!」

ここを読んで、はじめはこう思った。

「ああ、復讐をして、主人公はその力を、愉悦を、思い知ったんだな」「その上で、『こんなの知らなくても戦える!』と言ったんだな」

と。話の流れを考えれば当然そういう解釈になる。でもこの文、実はちょっとおかしいのだ。ちょっと整理してみる。

1 主人公に、「甘美・愉悦・悦楽をその魂で味わったか?」と聞く
2 答えを待たず、「否、言わずとも良い」と遮って「その答えは、俺たちが最もよく知っている。」と述べる
3 「復讐は素晴らしい!」と述べる
4 もう一度、「味わってみて、どうだった?」と聞く

この流れ、おかしくないだろうか?
「1」で「悦楽を味わったか?」と聞いて、「2」で「答えなくていい」と言ったのに、その上で「4」で「どうだった?」とまた聞いているのだ。
例えば、「テストどうだった?いや、言わなくていいよ。難しかったもんな。で、テストどうだった?」と言っているようなものだ。

最初は、繰り返しの文なのかなとも思ったが、それでもなんだかやっぱりおかしい気がする。同じ質問を2回繰り返している。
でも、もし「同じ質問」でないのだとしたら?

・「甘美・愉悦・悦楽をその魂で味わったか?」
・「味わってみて、どうだった?」

この2つが、全く別の問いかけだったとしたら、どうだろうか?

・「甘美・愉悦・悦楽をその魂で味わったか?」「……答えなくていい。ソレは、俺たちがよく知っている」
・「復讐、おまえにはどんな味だった?」「……辛くて、苦しくて、馬鹿らしくて、何も感動なんてしなかっただろ?」

もしかしたら、こういう違いがあるのではないか。
いや、もちろん、復讐に快楽があるというのは巌窟王が語っていることだ。だから「何も感動なんてしなかっただろ?」という意味だというのは極論であり曲解だ。でも、「復讐には、なんの意味もないと感じたのではないか?」という意味だったのではないか、というのは否定しにくいはずだ。

「ソレは、俺たちがよく知っている」。
これも、なんだか示唆的だ。
言葉通りであれば、「甘美・愉悦・悦楽をその魂で味わったか?」「ソレは、俺たちがよく知っている」というのは「甘美で愉悦で、悦楽的だったよな」と解釈できる。でも全く逆に、「あんまり楽しくなかったよな」と言っているとも解釈できるはずだ。

第二の根拠は、これに関連して、主人公の復讐に対する姿勢の一貫性だ。

今回のシナリオで、どれくらいの読者諸君が気付いているだろうか。実は主人公は、ただの一度も、「復讐の悦楽」を感じている描写がない。

「ニトクリスオルタを殺して、どんな感じがした?」と自問自答している場面では、主人公の答えがない。「それはーーー」と言って、それ以降が続かない。

マリーに映画館で「復讐すれば、少しくらいは胸がスッとする筈よ」と言われても、肯定も否定もせず、「あなたはそういうひとなのね」と言われていた。そして、「そういう人キライ」とも。ということは、マリーは主人公が、復讐を否定していると受け取ったのだと考えられる。


マリーの言葉

たしかに、「復讐はダメだ!何も生まない!」とは言っていない。本気で3人を殺した犯人を憎んでいる描写もある。
でも、復讐を肯定する描写が、ここまで一貫して描かれていないのだ。
であれば、「主人公に復讐の愉悦を味合わせて、その上で、主人公が復讐者にならないようにした」とは考えにくいのではないだろうか?

3 そこから見えてくるのは、恐ろしい「新たな仮説」

この根拠を持って自分は、「巌窟王モンテ・クリストは、主人公に復讐の辛さ・苦しさ・馬鹿らしさを伝えるために、3人を殺したのではないのではないか」という仮説を提唱する。

おそらく、主人公は復讐者になって、ニトクリスオルタを殺しても、巌窟王と戦っても、何も気持ちが晴れなかったのではないだろうか。
自分の内面が復讐に埋め尽くされて言っても、何も喜びを感じなかったのではないだろうか。
だからこそ、主人公は、「南極に、復讐のためには、行かない」という決断ができたのではないだろうか。

そして、逆に。この仮説がもし正しいのだとすると。
ここに、とてもとても恐ろしい新たな仮説が生まれる。

「主人公は、奏章Ⅱが始まるまでーー
復讐のために、南極に向かっていたのではないか。」

奏章Ⅱのタイトルは「不可逆廃棄孔 イド」だ。「イド」というのは、「個人の無意識の中にひそむ、本能的エネルギーの源泉」のことだ。無意識、ということで、主人公の内面にできた世界のことを表している、と考えるのが妥当だが、もう一つの解釈がある。
主人公の中の、無意識的な、「欲望」のことを指しているのでは、と。
そしてこの「欲望」こそが、「復讐心」だったのではないか、と。

主人公は、勝手に人類最後のマスターという役割を押し付けられた。
自分の故郷も、親しい友人も、家族も白紙化されて、理不尽にも戦いを強要された。
7つの世界を自分のエゴで殺すことを求められる、辛く苦しい戦いをすることを、求められた。

そして、巌窟王モンテ・クリストは言った。

「いいや、おまえには分かる筈だ。本当はわかっているとも。」
「おまえは、望むだけでー 世界最後にして、最大の、復讐者となるだろう!」

そう、主人公は、本当に、わかっていたのではないか。
本当は、「復讐者」になろうと、していたのではないか。

そして、主人公が復讐者に成り果てようとしていたことを巌窟王モンテ・クリストは感じ取って、その上で、そうならないように、彼に道を示したのではないだろうか。
3人を殺し、彼を復讐者にして。一度しっかり、復讐を実際にさせてみて。
その上で、「復讐なんて、辛くて、苦しくて、馬鹿らしいだけだろ?」と、言いたかったのではないだろうか。

巌窟王モンテ・クリストは、アヴェンジャーだ。
絶対に、復讐の愚かさなど口にはできない。自分の口からは、絶対に。それは彼自身のアイデンティティを否定することになるからだ。
でも、彼は同時に、「復讐の炎を、愛によって、終わらせた人物」でもある。
復讐が、愛の前に折れることを、知っている人物だった。

人は誰しも、怒りに身を任せて、それを原動力にしたい瞬間がある。
誰かから危害を加えられたときに、その危害を許すのが聖人であり、道徳ある人の振る舞いだと言える。「右の頬をぶたれたら、右の頰をぶちなさい」とはキリストは言わなかった。「危害を加えるな」「怒るな」そして「復讐するな」ということだ。
そして、そんな風に制限されているからこそ、「復讐」は甘美だ。
その欲望を解放し、自分の心に自由になりたいと思う、そんな瞬間が、人にはある。
主人公も、そうだったのではないか。主人公も実は、「復讐」に身を落として、楽になりたかったんじゃないだろうか
7つの世界を葬った責任を背負いたくなかった。
「自分がこんなことをしなければならなかったのは、お前のせいだ」と、誰かのせいにしたかった。
復讐したくてたまらなかった。
そんな想いを、「廃棄孔」にいたエドモンは感じ取った。「廃棄孔」には、そんな主人公の想いが集まってしまっていたからだ。
それを、「これはまずい」と考えて、エドモンはこんな大掛かりなことをしたのではないか。
無論、主人公にはそんな自覚はない。自分が復讐者になりかけているなんて、気付いてはいなかった。でも、エドモンは気付いた。

だからこそ、エドモンは、3人を殺したのではないのではないか。
ーーー復讐なんて、そんなにいいものではないと、感じてもらうために。

そう考えると、廃棄孔の奥底で悪性情報が形作られたのにも説明がつく。
今回のラスボス、悪性情報はカリオストロの姿をしていた。
ーーー「異星の使徒」である、カリオストロの。
カリオストロは、主人公にとって、「怨敵」だと言っていい。自分をこんな目に合わせた、「復讐対象」だったのだと考えられる。
だからこそ、悪性情報は、カリオストロとなって、戦いを挑んできたのではないか。
それを打ち倒したというのは、ある意味で「復讐心というものと決着を付ける」ということになる。

今回のシナリオは、主人公が、精神的にも、物理的にも、復讐を手放す物語だったと言えるのではないだろうか。

4 エドモン・ダンテスは、ファリア神父になりたかった

さて、もし主人公が復讐者になるかもしれないと巌窟王が感じたのであれば、今回のシナリオは、もう一つ違った見方ができる。

彼は、今回も、ファリア神父になったのではないか、ということだ。

ファリア神父とは、巌窟王をシャトー・ディフから救った人物だ。知識と教養を兼ね備えた敬虔で高潔な人物として描かれており、「人々は愛され、救われるべきである」と心から信じていた人物だ。最後は、ダンテスを息子のように愛し、自身の死体を使って監獄島を出ることを示し、自分の死を使って、巌窟王を監獄から救い出した。

前回のイベント、「監獄塔に復讐鬼は哭く」で、エドモン・ダンテスは自分が試練に組み込まれていることを知っていた。そして、主人公から倒されることによって、主人公が監獄塔から抜けることができるという幕引きになった。

そこで、彼はこの結末を心底喜んでいた。彼はエドモン・ダンテスであり、監獄から誰かを送り出す立場のファリア神父になったことはなかった。でも、このイベントでは、ファリア神父になれたのだ、と。
実は今回も、同じだったのではないか。もちろん、7つの試練の最後が巌窟王だったというのも同じだが、主人公を導く存在として、彼は特異点の最下層で待っていたのではないか。

ちなみに、彼の役割は、主人公の「父」だった。主人公の父というロールプレイングを行って、父として3人を殺した。
巌窟王にとって、父とは特別な存在だ。実父は彼の無罪を信じて餓死した。育ての父ともいうべきファリア神父も、自分の死を持って、彼を監獄から解放した。
巌窟王は、主人公の「父」になりたかったのではないだろうか。

モンテ・クリスト伯の原作において、巌窟王は2人目までの復讐を終えた後で、監獄島に戻ってくる。「このまま復讐を続けていいんだろうか」と感じて、何かファリア神父から言葉が欲しかったからだ。そこで、神父の書いた巻物を見つける。そこにはこう書かれていた。
汝は竜の牙をも引き抜くべし。獅子をも足下に踏みにじるべし。
これを読んで、モンテ・クリスト伯は喜ぶ。「これが答えなのだ!」と。そして、最後の復讐に身を投じるようになる。

が、モンテ・クリスト伯はきっと、止めて欲しかったのだと自分は思うのだ。彼は、自分の凶行を止めて欲しかった。止めてくれる材料を求めて、ファリア神父の影を追ったのではないか、と。そうでなければ、敬虔で高潔なファリア神父の言葉を探すわけが無い。

巌窟王は、主人公の復讐を、止めたかった。
主人公が、自分と同じ復讐者になるのを、辞めさせたかったのではないか。
その役割は、「監獄塔に復讐鬼は哭く」でファリア神父の役割になった、自分の仕事だと感じたのではないか。

ーーーたとえそれが、自分の存在の否定だったとしても

5 しかして彼はもういない

いかがだっただろうか。
まとめると、「この物語は主人公が復讐者になろうとしているのを、巌窟王が止めたというものだったのではないだろうか」、というのが自分の仮説だ。

彼はもういない。自分の命を使って主人公を救い上げたからだ。それはかつてのファリア神父と同じことをしたと言える。

彼は、今度こそ本当に、ファリア神父になった。自分の命を使って、主人公を明日に進ませた。そして、彼は主人公が復讐者になることを止めた。止めて欲しかったかつての自分と重なったのかもしれないし、そうではないのかもしれない。でも、アヴェンジャーであるはずの彼が、主人公がアヴェンジャーになるのを止める、という「彼らしくないこと」をしたのは確かだ。

そういう意味で、彼は主人公の「父」として、主人公にとってのファリア神父になったのではないか。

最後に、彼の残した言葉を記して、終わりとしたいと思う。

さあ、眠れ。目覚めたとき、お前は再び立ち上がり、進むだろう。明日へ。

巌窟王の奏章クリア後のマイルームボイス

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