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僕にとっての「愛するということ」

ドイツの精神分析の研究者エーリッヒ・フロムのベストセラー「愛するということ」を読みした。

哲学心理学系の古典の訳本ってことで非常に読みづらいです。有名な本なので要約も様々なサイトでされているのでそちらを参考にするでも十分かなと思います。 

僕自身、結婚して3年、昨年に長男も産まれて三人家族となりました。家族や妻を「愛する」とはどういうことか?どういうことに気をつければ正しく「愛せる」のか?ということに興味がありこの本を読みました。

内省のためにはフレームワークやツールを用いると効果的ですよね。僕にとっての「愛するということ」とは何か、フロムの主張を読みつつ考えてみます。




「愛する」とはうんこ漏らしてても許すこと

本を読む前の僕にとって「愛する」ということは、「母の愛」を体現することでした。

いわゆる「無償の愛」であり、何かを求めるわけでなく、ただただ相手のために与える愛です。

また、成人した子供が悪事を働いたとしても母親は味方であろうとするのだろうと思うんです。この場合には、子を「信じて」、たとえ悪事が事実だとしてもそこに何かしらの理由があるのだろうと「配慮」して思いを巡らし、納得できる理由がなくともそれでも「味方である」ということを続けると思います。

まとめると、愛するということは無償で、相手を信じて、どのような状況でも相手の状況や心理などに配慮し、許しがたい状況でも味方でいようとする行為のこと。だと考えていました。

恋と愛の違いってよく語られますよね。例えば好きな相手がうんこ漏らしたとして冷めるなら愛じゃないです。どんな状況でも、そうなってしまった経緯に配慮して、配慮したうえでも理解できなかったとしても味方でいるのが愛だろうと思うんです。

日本語から考える愛

もう一つ、愛の性質を考えるうえで日本語も参考になるかなと思っていました。

例えば、「愛想が尽きる」という言葉です。尽きるということは、愛は有限のエネルギーだと想像できます。

「愛情を注ぐ」ということからは液体のようなイメージで、かつ人それぞれに愛を受け入れる器を持っているイメージができます。さらにこれは愛を「与える」行為なので、有限のエネルギーである愛は譲渡可能なものと言えそうです。

「愛する」という行為は、愛を与えるというエネルギー譲渡の役目を果たしていると考えます。

また「愛を育む」という言葉からは、愛という有限のエネルギーは増やすことができそうです。1人では愛を育むことはできず、あくまで複数、多くは2人の間での行為ですよね。

どうやって愛は育まれる=増幅するのかですけど、2人でいれば時間経過で利息がつくというものではないと思います。おそらく愛は譲渡の際に増幅してるのかなと思うんです。

というか譲渡の際に、譲受効率みたいなものがあって、受け取る側次第で相手から譲受した愛以上に増幅して自分の器に注げる人もいれば、何分の1しか注げない人もいるといった感じかなと思います。

つまり、愛を育むには相手がその愛を受け取る素養がないといけないんじゃないかな〜と。

はじめに両親が産まれた子供の器に愛を注ぎ、愛情たっぷりに育てられる事で、別の誰かに愛を注ぐことができ、誰かからの愛をしっかり受け止めて増幅させる素養もでき、愛を育むことができるのかなと想像します。

それではフロムは愛をどう語るのでしょうか。

フロムの「愛するということ」

導入

本書をかなりざっくりと要約すると
「愛の目的は孤立・孤独の克服であり、自立した個人を保ったまま他者と結合する(ふたりがひとりになり、しかもふたりであり続ける)ことである。愛は人間の中にある能動的な力であり技術である。愛の能動的な面とは、①「落ちる」という受動的なものではなく「与える」ことであり、②配慮、責任、尊重、知を含むというものである。愛は意志と決断の行為である。ひとりだけを愛するという行為は真の愛ではない。ひとりを愛するということは全てを愛することである。愛には対象によって友愛、母性愛、恋愛、自己愛、神への愛がある。愛は技術であり、習得には修練が必要である。他の技術の修練同様に愛の技術の修練にも規律、集中、忍耐とその技術の習得に最大の関心を寄せるということが必要である。」というのが要旨です。

この大枠を、宗教やこれまでの哲学、現在の資本主義社会への考察と批判を交えて論を展開していく本になっています。

詳しくは要約してる他の方のnoteなんかを参照してください。

愛の対象について

僕は妻や子供に対する目線で愛を考えていました。

フロムは愛には対象によって友愛、母性愛、恋愛、自己愛、神への愛があり、基本的な姿勢としては誰かひとりを愛するという行為は成立しないと語ります。子供を愛することは、それを通して世界を愛することだと主張します。

キリスト教の「汝のごとく、汝の隣人を愛せ」という教えですね。隣人を愛することは世界中の人を愛し、神を愛することとなると説きます。

漫画「ヴィンランド・サガ」の酒飲みの神父を思い出します。親が子を、夫婦が互いを、兄弟が互いを大切に思う気持ちを「差別です。王にへつらい奴隷に鞭打つこととたいして変わりません。」と説くのです。


愛は「与える」こと

フロムは愛は受動的なものではなく、「与える」ことで、能動的な行為だと説きます。さらに真に「与える」ならば「与えられる」と主徴しています。

これは日本語の「愛を育む」という言葉を考えたところと共通するのかなと思います。

ただ、与えれば与えられると信じるのは僕にとっては「性に合わない」考え方です。

あくまで愛は「無償の愛」であって、与えれば与えらえると「期待」するのはその後の絶望につながる考えです。恋愛でよく破綻する典型ですし、相手に「期待」することは生きていくうえで捨て去るべきマインドセットだと思っています。

ただそういう自分事という枠を外せば、客観的には「与えれば与えられる」という相互作用はもちろんあると思います。「ケアする人は、ケアされている」という状況を医療現場ではよく見かけるので、フロムの「与えることがすなわち与えられることだというのは、別に愛に限った話ではない。」というのには納得はできます。


どういう行為が愛なのか

基本的要素とは、配慮、責任、尊重、知。

配慮とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけること。

責任とは、他者の求めに応答することであるり、応じる用意があることである。

尊重とは、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことで、その人らしく成長発展していくように気づかうことである。

とは、その人のことをまず知ることである。その人に関する知によって導かれなければ、配慮も責任もあてずっぽうに終わってしまう。いっぽう知も、気づかいが動機でなければむなしい。

愛には「配慮、責任、尊重、知」の4つの要素が揃っていることが必要。

その人の生命や成長に積極的な配慮をし、求めがあれば(それが言葉になっていなくても)応じる責任をもち、相手を一人の人間として尊重し、そのために積極的に気遣って相手のことを知ろうとする行為

これらの4要素が欠けたり、気遣いではなく独りよがりだったりするときには要注意ってことですね。

あと「知」についてはやはり「無知の知」が大事だと思います。誰に対しても、自分が知る由もないことや、理解しがたいこともあるからです。相手を気遣うことができれば、知ることできなくとも何かしらの事情をがあることを想像し、その人を信じることができると思います。

自己愛から始める。それにはメタ認知。

「汝のごとく、汝の隣人を愛せ」という言葉は、自分自身を愛することの重要性を示しています。

自分自身を一人の人間として「尊重」し、自身の生命と成長に「配慮」して、そしてそれらに「責任」をもって応じることが必要です。

そしてやはり、自分を真に気遣い「知」ることが必要です。

自分自身が喜び、怒り、悲しむときに、何に喜び、何に怒り、何に悲しんでいるのかを「知る」ことは、いわゆるメタ認知です。


自分自身に目を向け愛することができれば、相手に目を向け気遣うことができるようになる。これはすごく腑に落ちます。


人間の成熟と人類の成熟

本筋には関係ないですが、人間の成熟と人類の成熟(宗教)についての考察もあり、とても面白いなと思ったので記録のため残しておきます。

成熟した人間は、母親的良心と父親的良心を併せもっている。母親的良心は言う、「おまえがどんな過ちや罪をおかしても、私の愛はなくならないし、おまえの人生と幸福にたいする私の願いもなくならない」。父親的良心は言う、「おまえはまちがったことをした。その責任を取らなくてはならない。何よりも、私に好かれたかったら、生き方を変えなくてはならない」。成熟した人間は、自分の外にいる父や母から自由になっており、自分の内部に母親像・父親像をつくりあげている。


人類の歴史においてもこれと同じ発達過程が見られる。つまり神への愛は、はじめは母なる女神への無力な者の依存であり、次に父性的な神への服従となり、成熟した段階になると、人間は神を、人間の外側にある力とみなすことはやめ、愛と正義の原理を自分のなかに取りこみ、神とひとつになる。そして最終的には、詩的に、あるいは象徴的にしか、神について語らないようになる。


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