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マイクロ共同体主義と一所懸命の鎌倉時代の武士

気になる記事(ブログ)を見つけた。

この記事で描かれている「マイクロ共同体主義」について、何かに似てるな~と思ったけれども、それは鎌倉時代の一所懸命の武士の在り方と同じではないかと思った。

鎌倉時代の武士全般に共通するのが「自力救済と一所懸命」。

御家人は御恩と奉公の原理もあるが、御家人でない武士も各地に数多くいたので(男衾三郎みたいな奴ら)、地生えの地方武士団がマイクロ共同体主義の最初の実践者ではないかと考える。

一所懸命とは、この記事を引用すれば

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>この対立構造は「正義vsまた別の正義」として描かれてる。だが主人公の錦木千束はどちらの立場にも与しないところも興味深い。

>千束の願いはささやかだ。父親代わりの訓練教官だったミカとともに「喫茶リコリコ」を運営し、自分の周りで困ってる人たちの助けになること。そこには正義なんて微塵もない。ただただ半径数メートルの幸福に、自分が寄与できたらいい。そういう小さな願いだ。

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鎌倉時代の武士団も同じで、猫の額ほどのチンケな所領(半径数メートルの幸福)であったとしても、そのために死に物狂いで戦い抜きそのチンケな所領(半径数メートルの幸福)を護ることが己の全てであるということ。

それは戦国時代でも同じであり、創作ではあるが「SEKIRO 隻狼」での弦ちゃん(葦名弦一郎)のセリフに端的に表れていて「葦名は、この國は俺の全てだ。そのためなら俺は、人間を辞めよう」と言って変若水を飲んで死人帰りをする。

その後に、黒の不死斬り・開門で、自らの首を刎ねて、自分の命を生贄にして、黄泉の国から剣聖・葦名一心(しかも不死)を特殊召喚するというストーリーであるが、自分の所領が自分の全てというのが武士の基本的な行動原理であったのは現実世界でも同じと考えて間違いない。

だから、所領を持たない足軽雑兵は簡単に逃げるけれども、所領持ちの武士身分の人間は最後まで踏みとどまるという「戦国時代の軍隊の二重構造」が存在する。

ウェストファリア的ネイションステイトという律令体制が崩れて「新しい中世」になってきた現代に一所懸命の鎌倉時代の武士たちのような「マイクロ共同体主義」が生まれてきたのも、時代の必然といえるかもしれない。


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