本がなくなって出てこない・猛暑

別に今、とりたてて必要ではないが「あれ? あのマンガ単行本、どこやったかな?」と思い、探し始めるとまったく出てこない。
三時間くらい、暑い中探したが、出てこない。
どこにしまったかも思い出せない。

これには理由がある。総じて「なかなか家の中で目的の本が見つからない」のは、
「これくらいは読んでおかないと、と思い買った本」
の場合だ。私はね。
「是が非でも読みたい!!」と思っていたわけではないから、扱いもぞんざいになり適当なところにしまいこんで、どこに行ったか分からなくなってしまう。

そして、そんな「絶対に読みたい」本でもないのに、そのことがずっと頭から離れない。
「悩み事があるとき、目の前の仕事がやりたくないとき、突然掃除や探し物がしたくなる」
というアレである。

あとぜんぜん関係ない話だが、三年くらい前に、古い友人に、
「本がぜんぜん読めなくなった」
とぼやいたら、
「なんで本が読めないことをそれほど嘆くのか」
と、喫茶店のドトールで、かなりきつめに追及された。

このことが予想以上に精神にこたえ、ますます本もマンガも読む気がなくなってしまった。
内面的には、トシを取ってからの読書についていろいろと思うことはある。
私は、読書は自分のためになると信じて来た人間だ。
「単に娯楽のために」というのとは、ちょっと違った。
もちろん世の中には荒俣宏みたいなとんでもない読書家がいて、読書の量だけとってみてもとうてい追いつけないが、自分なりにいろいろとがんばってきたつもりではある。

こういう読書態度は、「60歳になってから『大菩薩峠』を読破して、何か意味でもあるのか?」という問題にブチ当たる。
読書を有用か無用かで考えたら、インプットからのアウトプットの時間も機会も少なくなれば、モチベーションが下がるのは当然だろう。

ドトールで突如、私の読書姿勢について詰問してきた友人は「自分は読書にこだわりがないので、あなたのぼやきが理解できない」みたいなことを言ってきたが、確か彼は京大か一ツ橋か、はたまたハーバード大学か、とにかく一流大学を出ていたはずだ。
世代的にも、一流大学を出ていて文化的なことに興味のある人間が「読書にこだわりがない」とはとうてい信じられない。
「もしかして、そらっとぼけておれのことを意地悪く追い詰めているのか?」と本気で考えたが、真意はわからなかった。まあ、私が疑い深いだけだろう。そう思いたい。

しかし話している最中に思っていたのは「おまえのようなやつに、おれの説明責任はない」ということだった。
こういう内面的なことを、他人にわかるように説明するのは労力がいる。
たとえば三十代の頃、「なんとなくもう恋愛はいいやと思っている」と思った場合、「なぜなのか?」を他人に説明するのは非常にむずかしい。
どちらにしろ「気分」に関わるのだから、当然である。

別の人に「紙の本にこだわる人間は、カッコつけている」と言われたこともある。
この発言にもあきれてしまった。ネット上だけの付き合いの人だったが、ブロックした。
紙の本にかぎらず、ガソリンで動く車でもいいし、チェーン店ではない町の定食屋でもいいが、そういうものがなくなっていくことに郷愁を感じて、あれこれ言われる筋合いはない。もちろんカッコつけているわけでもない。

読書の話に戻るが、本を読まなくなったのは「老眼」がいちばんの原因だと後になってわかった。
しかしそれにしても、なんで私がそのことを他人に説明しないといけないのか、サッパリわからないし、年齢的に老眼が原因だと察してくれても良いのではないか。

それにしても暑すぎる。気が狂って死にそうだ。

おしまい
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