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未完の詩(エッセイ+)


未完の詩(エッセイ+)

わたしは、小学生のころに明治時代の誰かの生まれ変わりではないかと強く感じたことがあります。「お国の為に殉じることこそ誉である」という言葉に一人泣きました。誰に知られずとも良い、この日本の国のために殉じることこそが最も尊いことであると、その時命を投げ出してもよいとさえ感じたのです。わたしの家は古く続く家系であり、その長男であることも関係あるのかも知れません。しかし、今も思うのですが、あの頃に生まれたならばきっと、一心に国に尽くそうとしたと思います。特に、わたしの家の教育方針が右寄りだった訳ではありません。むしろ毎日新聞を愛読していたような、父は学生運動の余韻を何時までも忘れられない人でした。しかし、奈良の人であり歴史を愛していましたので、どこかそのようなことはあったのかも知れません。わたしは皇室に特別な思いはありませんが、それでもやはり大和王朝の臣であることに違いありません。それよりもむしろ、勃興しようとしている日本という国の一かけらとして、なにがしかの事を成したいと強く感じていました。

また同じころ、釈尊の教え「命の等しさ」に、震えました。この世は尊さで満ちているのだと、春の光の中で生まれたこと(比喩です。秋生まれです)を感謝したことを覚えています。わたしの生育環境は決して恵まれておりませんでしたが、それでも希望に満ちた光の世からやってきて、この世もまたそこに繋がっていると、或る時までは信じていたのです。
時が経ち、人間の不完全さと闇と、余りに未成熟な大人たちが多いことを知りました。そして、彼らによってこの地球まるごとダメにされようとしていることをも。そしてわたしも年を重ね、決して人に誇れない人生を送って来ました。

わたしは、2017年から言葉を形にして、ネットに投稿を始めました。言葉が届かないことに絶望し、また思い直し、また己の愚かさに落ち込み、真摯さへの無関心と無感動に投げ出しそうになりました。それでも止められない言葉が今もあります。現代は情報が玉石混交なれど、選ぶことで煌めくような奔流が現れます。それらの奔流の中にあって、時に大いなる言葉の断片をしばしば感じることがあります。このことをきっと、大多数の人たちは知らないのです。断片の煌めきを目にしても、日常に紛れて忘れてしまう。わたしは、このことが見過ごせないのです。未来が目の前に開けているのに、それを作為的に流し去ろうとする者たちによって、この世は暗黒であるように見せられています。単なる利己的な利益のために、この先の10年先、100年先に実現されるだろう在りえないほどの革新的技術が隠されています。

今、令和の世になり、さらに世界は不安定です。言葉は偽者だらけになり、操り人形ばかりが世に蔓延っています。科学の論理が歪められ、一部の集団に都合の良いように解釈されてしまっています。しかし、千三百年前から人間の結論は変わっていません。「和を以って尊しと為す」とは、逆説的に欠陥だらけの人類の結論なのです。つまりは、賢者間でこそ話し合いが有効であるということです。この自明を未だ人類は確立出来ません。しかし、ある将来に於いて知能の真の解放(脳の未使用領域の解放)が行われるならば、本来の意味としてこの言葉が意味を成すでしょう。その次元は、わたしには想像出来ません。遥かな高みからこの世を俯瞰し、深遠な宇宙の真理を次々と解明するその時、人類は自らをなんと呼ぶのでしょうか。

しかしながらその時でも、変わらないことがありそうです。この宇宙そのものが未完であり続けるように、その営みの一環として生命に完成は在りえないということです。それ故に、想像の地平を超えるための助走として、きっと我らも遂に試作品で在り続けるだろうと思うのです。そしてこのことが、言葉を生み出す源泉であるのでしょう。つまり詩が遂に完成しない理由は、このようなところにもあると思っています。