見出し画像

均質化或いは平準化の安らぎと暴力について(エッセイ)

功罪ということである。自然界に同じものはない。あればとても珍しい。人間は自然物であるから、同じものはない。あればそれは魔物であろう。つまりは、我らはどのようにしても均質になれない。原野の地面が凸凹であるように、平面にはなれない。この均質や平準というものは、概念である。いくら制服を揃えてみても、そこでは却って個が明らかになる。このことから、どうして制服を揃えるのかは個のための概念ではなく、管理のための概念であることが分かる。所属を明らかにするために、お前たちはこの組織の枠の中にあるのだと、従属の衣として纏わせるためである。しかし、それはしばしば連帯を生む。同じ釜の飯を食うといった、同じ出身であるといったこと、同期の桜というやつである。だからつまり、従属とはどこかで安らぎがあり、一方で暴力を含む。結局は、人間は何かの集団に含まれていなければ生きていけない群れの生きものであるから、好みの集団にあれば安らぐし、そうでない集団に含まれれば踏みつけられたと感じるだろう。束縛が強ければ強いほどに、それぞれの感覚も比例するのだから、結局は行雲流水のように囚われないほうが良いのかもしれない。そう言えば雲水は、墨衣を着ている。これは僧侶の制服であるが、宗派を余り問わないという点で、「僧侶」というラベル程度の意味である。ここにあるのは安らぎというよりも、仮または適当さであると思う。もし道端で一般的な服を着て経を読んでいる人がいれば、相当奇怪な目で見られる。通報されるかも知れない。しかし、墨衣を着て笠を被って数珠を持っていれば、不審がられないだろう。本来、何の身分証明にも成りはしない装束というものが、社会の中で受け入れられるためには必要である場合である。これは、フォーマルな場面でもありえる。冠婚葬祭に、Tシャツ短パンで参列する人は、主催者が許す場合を別にして、ほぼないと思う。ビジネスの場面でも、気の張る商談で、ラフな恰好で許されるのは、一部の人だけだろう。結局のところ、社会が、文化が、制服を求めているのであり、その訓練として、学生服は在るのかもしれない。それは、ある意味で「配役」に成りきるための装束である。役目と言い換えてもいいが、プライベートな場面では、それはない。そんな余裕はない。普段着で、親の役目は果たすのであり、或いは兄弟の上下や、夫婦の役目も果たさなければならない。
 本来「ハレ」(晴れの日)の場面でハレのための装束はあった。祭りや冠婚葬祭、上位者へ拝謁するといった重要な場面である。「ケ」(普段の日、日常)では、普段の着ているもの「普段着」を着ていた。つまり学業の場とは日常ではなく特別な場面であると、いう意味でも制服の意味はあったのだろう。これはカジュアルな軍服として、かつては支配と服従の絶対関係と所属を表していたかも知れない。
 学生服が均質化を求めるゆえに個性と抗うと、いった話を目にすることがあるが、これは歪められているように思う。彼らの不満は、そこにあるのではない。扱いにあるのではないだろうか。社会の中で、文化の中で、特別な場面であるはずの日々が、無為に感じられる。制度と規則が、服従を迫る。本来、どうでもいいことを強制されていることに気づき、抵抗しているのだ。しかし、そうでないものもいる。別に、そんなことは黙って従っていれば楽なので、その他の自分にとって大切なことに注力しようとするものたちもいるのだ。
 見た目に拘りたいのは、本人の自由意志であるから、放っておけばよいと思うが、大抵それにより規則が守られなくなり、集団が崩壊すると考えられてしまうようである。もっと流動的に、個人の個性に合わせて学校という枠を作り直し、入った学校と出る学校が違っていても、当たり前のような社会制度になったならば、こんな議論は消し飛んでしまうだろう。未成年の学生は、親権者の責任のもとにあるから、その同意があるなら、別にどんな恰好をしていてもよい。教師にはそんな責任も権利もない。もしその学校の校風に合わないのなら、異なる校風の学校へ行けばよい。この流動性を阻害する囲い込みこそが、均質化の正体であり、まるで刑務所のように管理作業を行うために、やりすぎて平準化しようとすることこそが本当の問題だと思う。大人という既得権益を守りたいが為に、大きく羽ばたくための翼を縛ってしまうこと。制服などは在ろうがなかろうがどうでもいいことであり、それよりももっと根幹を教えることが重要だと思う。どうして人は他人を傷つけたくないのか。人のこころはなぜ分からないのか。あなたはどうやって生まれてきたのか。そしてこれからどうなりないのか。現代の人類は、太古の人類よりも本当に優れているのか。もし優れているのなら、それはどうしてなのか。それを実現するために、教育があるのだということを、我々大人は、子どもたちへ受け継がなければならない。数多の天才たちが、生み出した発明たちが、我らの目の前に広がっている。当たり前のように身につけている知識たち。知ることで、我らは進む。そうして新たな知を拓くために、まず学校というものがあり、その先にはどこまでも果てしない未知が満ちている。そして、そのことを伝え続けるために、我らはいつもある。


画像はNASA画像およびビデオライブラリより
https://images.nasa.gov/details-GSFC_20171208_Archive_e000719
"すべての銀河の中心にはブラック ホールがあります。"