見出し画像

朧の白月(浮遊する自我)抒情詩+エッセイ


あるふゆのあさにいるよるべなきむちゅうのゆめのおぼろのはくげつ

朧の白月(浮遊する自我)

自分という曖昧は仮想として、多数の人格より目覚めているものであるように思う。それの元は遺伝子であろうし、経験から育った人格プロセスたちであろう。

また、この考えに基づけば、死は仮想人格が肉体という最も下層の基盤のネットワークから、修復不可能に遮断されてしまうことと言える。また意識の喪失は、人格プロセスが仮想人格向けのインターフェースを見失ってしまうことであるとも言える。

わたしにとって無意識とは、精密に構築された生命器械の上にせめぎあう数多の人格たちによって構成された、一つの内的集団のように思えてならない。これらの有力なプロセスたちが、その時々に都合のよい仮想人格としての統合された自我を浮かび上がらせているのではないか。

例えどれ程己の意識を確かに感じていても、それは様々な人格の集合体によるその時における決定であるのではないかとさえ思えてしまう。

なぜ人は己の不確かさを時に痛感するのかという問いのこれは答えとなるかもしれない。

時にその場の空気に抗うことが難しいのは、実は自我こそが人格プロセス集合体のその瞬間の意思に従うというその仕組みと、現実で起こっていることの判別が難しいからではないか。

そして、わたしたち自身という自我が仮想であるならば、故に空想に、形而上に、仮定へ親しくなるのは当然だろう。そして、だからこそここに言葉という最も仮想的な伝達が生まれたのではないか。

わたしは、言葉が生まれたのは必然であると考えている。犬や猫は人に向かって鳴く。彼らの中に言葉の素養があるからだ。鳥たちは歌詞のない歌を囀ずる。或いは信号のように或いは喜びを含む感情を音階として鳴いている。既に言葉の生まれる下地はあって、脳の容量が必要を満たした時に言葉が生まれたと考えている。このことはまるで、人間がそれを満たすために発生したかのようにも思えてしまう。

つまり、鳥も犬も猫も、蜥蜴も魚も、人間の進化へ連なってきたものたちと、人間は遺伝子の中で繋がっている。命たちの声無き声が、肉体を通して、仮想であるわたしという人格へ響いている。

 そして、人類は遂に量子力学に辿りついた。観測による収縮。同時にいづれにもある量子の性質とは。そして観測し得る我らの自我とは。
 今という時間には、確定がない。我らの感情さえもいくつもの矛盾を孕み同時に浮かぶ。そして、ある時その感情(複数の混在かも知れない)が、意識へと表出する(観測される)。全ての可能性が収縮し、確定して過去が生まれる。そして、確定されえぬ事実は一つとして、結局在りえないということ。宇宙の中で、時間という観測者こそが全てを確定させていく。もしかすると、我らはその時間に連なるものではないか。観測しえる自我を持つ我らもまた仮想である。

 この宇宙というものが、一つの仮想現実であるという意見がある。わたしはそれに賛同する。そして、ここに表れてくる問いは一つである。この宇宙という仮想のプラットフォームは何か。それはどのような意思であるのか。ここに失われた言葉が蘇えるだろう。「創造主」たちである。そして、我らが意思を発する前に、動いている無意識の底にあるもの。彼らと我らは繋がっているのではないか。奥底で、生死を超えた向こう側で、仮想でない夕闇の彼岸にて。また、生まれる前に至る夜明け前の眩さにて。

 叶わないことだらけのこの世において、仮想の主たちへの、我らのたった一つの反抗は言葉であるかも知れない。しかし、それは感謝と祈りの裏返しでもある。引き離された半身と半身が呼び合う神話は、量子もつれとどうしてこれ程まで似ているのか。果たして長く語られ続けた内部の空洞。姿のない我らという幻想。自我はまるでホログラムのように宙に浮かんでいる。寄る辺なき夢の中で見る夢。そして夢中の夢は幻想を語る。ある冬の朝にいる寄る辺なき夢中の夢の朧の白月のように。

 かつてアインシュタインが嘘だと言った量子力学は、100年かけて証明された。我らは仮想なのだろうか。宇宙という仮想現実の一部である、人間の脳と身体によってクラスタ化された自我なのだろうか。その答えはやがて得ることが出来るだろう。いや、もしかすると太古に滅びた文明において既に得ていたのかも知れない。そして、それはその答え故に滅びたのかも知れない。この答えもまた、今は量子の性質に等しく、同時に多重に存在している。この答えを観測し得た時、果たして人類はどこにいるのだろうか。


※勿論、わたしには量子力学の難しいことは分かりません。しかし、概要だけを掬ってみてさえも、途方もない情報量が押し寄せてきました。そしてコンピュータテクノロジーとの親和性と、哲学的な深遠を強く感じました。それ故に、この文章を書かざるを得なかったのを、ご承知頂きたく思います。全ては、独りよがりの考えでしかありませんが、もしも何か感じる方があれば幸いに思います。