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夜の夢の中(エッセイ)


うつし世のまことは夜の夢の中 しあわせの世がそれぞれにある

 父の夢はよく見ていたが、母の夢はここ二十年以上見ていなかった。その母に、昨夜夢で会った。

 若い母が、父の悪口ばかりを言い立てるので、
「そんな個人的なこと」ばかり言うなと、
わたしは叱った。それから大人しくなり、近況を語った。
サロンをしているのだそうだ。服飾などのものらしかった。

 夢は、時にわたしを夢でしか見知らぬ場所へ連れていく。そして、夢の中にしかいない人に出会わせる。そこで見る夢の世界は、現実世界とどこか似ているがやはり違っていて、もっとわたしにとって都合が良いように出来ていることもある。思うに、このような並行世界の扉はいつも開いていて、現実世界とレイヤーのように幾重にも見えず気づかずに重なっているのではないか。わたしは眠りの中でその扉の一つを潜り、異なる世界の母に会ったのだろうか。

 その屋敷の二階の座敷には、箪笥がたくさんあった。奇麗に片付いていた。わたしは階段を昇ってくる母を迎えるように、件のように叱ったのだった。確かに、既にわたしは母よりも一回り以上も年上であるのだし、まるで小娘のような母に、あまりな頼りなさと不甲斐なさを勝手に感じてしまったのだった。
 そんなことを言われてもとでも言いたげに、母は少しふくれていたように思う。彼女もまた、夫に不満のある唯の若い妻であった。しかし、子どもはいなかったようだった。その世界では、わたしは生まれていなかったのだろう。彼女は、自分がもうこの世にいないことを知っているような、知らないようなそんな素振りだった。

 もしかすると、脳の未使用領域を解放することで、このような並行世界と目覚めたまま行き来出来るように成れるかもしれないと、想像してみる。そして、この今居る世界は、誰かによって最も都合の良い世界であって、わたしなどはその他大勢の一人でしかなく、それ故に思い通りに行かないことばかりなのかも知れないとも。
 まるで世界の全てがわたしなどに全然関心がなく、価値など認めようもないような、この感覚は正しいのかも知れない。本来のあるべき世界が、今もこの世界と重なってあって、そこでわたしはもっと生き生きと生きているのではないか。わたしにとって都合のよい世界があると想像出来るということは、在りえるということであって、今その世界が感じられないのは、決して存在しないからでなくて、見つけることが出来ていないからではないか。

 しかし、万一そのチャンネルと完全に同期した時、このわたしはどうなってしまうのだろうか。他から見れば、恰も植物状態の病人のように、意識不明のままになってしまうのだろうか。それとも、恰もそれまでと変わらずに振る舞い、周りからもそうは変に思われず、しかしその実抜け殻の魂だけが生き続けるのだろうか。まるでオートモードのNPCのように、当たり障りのない鈍さに満ちて、衆に埋もれることで生きていこうとする、群れの一員となってしまうのだろうか。

 ふと周りを見回すと、NPCのような人が多いように感じてしまう。全く能動的であろうとせず、人に同調することを良しとし、少し考えれば分かることを考えようとしない人たちの群れがいる。どうしてそれ程まで鈍いのか、感性が感じられないような人たちが、今この世に溢れている。彼らは、もしかして生きたNPCなのだろうか。それともわたしが、もうすでに置いて行かれてしまったのだろうか。
 何れにしても、どうしてもわたしはこの今ある世界に違和感を感じてしまう。それぞれの幸せを問えば、それぞれにとって都合の良い世界が生じてしまうことは避けられない。それぞれのしあわせの世が、どこかわたしたちに感じられないところで、今もオープンワールドのように広がっていると仮定してみる。夜の夢の中で、わたしたちはその世界の一つに迷い込む。誰かにとって都合の良い世界に呼ばれた時は戸惑ったり不思議な疎外感を感じ、己にとって都合の良い世界に辿り着いた時には、現実世界よりももっと真に生きているような喜びさえ感じる。これは在りえない事ではなく、むしろこのように考えるほうが自然であるとさえ、わたしには思えてしまうのだ。

 『うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと』江戸川乱歩の有名な言葉がある。わたしは今、この言葉を身に染みるほど真実に感じている。今夜眠るのが少し怖いほどに。