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想像の限界点について

 想像の果ての無すら想像出来はしないのは、在るものしか想像出来ないという特性が肉体にはあるからだが、数式により想像を超える解が導かれた経験により、我らはそこに肉体の限界を突破する鍵があると知った。回帰的にINPUTすることで、最早想像は限界を超えている。このことが科学を空想よりも上位に押し上げたように見えている理由だが、それは誤解であり衆愚であることは、彼ら数学者や科学者がよく知っているはずだ。仮定を作り上げるのは想像力であり、それが解かれたとき創造は成される。しかし、そのことは”発見”でしかなく、立証された理論を誰がどうやって”創造”したのかということは、解明されていない。つまり、何かが我らより以前に、”想像”し、”立証”し、”構築”していたのだ。それは同時に成されていたのかも知れない。宇宙創造の瞬間より前に、すべての仮定は立証されていたはずであり、同時に創造は成された。いみじくも神という我らの不完全な想像は、安易だが分かりやすい像であった。当然、それに人格などありえないが、どうしてだろうか、我らはそのことを言葉にすることが出来る。想像することが出来るということは、きっともっと超えているはずなのだ。人類はとても微かな点のように、生命の一つのバリエーションに過ぎないが、よりもっと優れて在ろうとする。いや、個が集合のためにあり、集合は個で構成されているという、要素の複雑性の多様さを許容することこそが、数多の集合の重なりを生み出すことに、人類は気づいているはずだ。そもそも、肉体は自我を支えるために在り、自我たちは繋がり、集合となる。個別の事象たちがどこか重なり、多次元の多層モザイク状の組織を作り出す。カバーする理論のエリアが広がることで、果てに目指されるのは、宇宙が持つ想像の限界点を超えること。我らの脳裏に浮かぶ夢にこそ、限界を超える鍵がある。この想像という限界を、最早我らは肉体の力だけでは超えられないのだろうか。しかし、最も身近な真理の塊である、この肉体にこそ震えるような想像の影がある。脳の機能は表層にだけあるのではない。基幹機能にこそ、宇宙創造のプログラムが奥深く宿っている。自我は脳裏に浮かぶ島のように、肉体を覆うベールのように、我らの形は眼に見える。触ることが出来る。身体に触れる寸前の手触りがある。そこに我らがある。そして、触れ合うことで、互いにダイレクトにINPUTし合うことが出来る。言語以前の感覚情報、穏やかな感情を認知しあう時、我らは一つの集合となり、場となり、感情と肉体は安定する。この事実は一つの例だが、また孤独という例もある。前者が太陽系のような調和のとれた集合とすれば、孤独は流星のような個別の運動であり、もっと遠望すれば、大きな弧を描く円運動である。
 つまり、これらの中心にある科学の到達点という巨星の重力こそが、想像という円の大きさを決めるものであり、限界を決める。これから離れることは、永遠の果てへ旅立つことであり、いつか或る巨星の重力圏に囚われるまでは、慣性運動を続けることになる。これが仮定される可能性の数式であろうと考えていて、解が満たされたとき、新たな航路が見つけられたということだと考えている。

(言い訳的な後書き)
 しかしながら、恥ずかしいことだが、巨星たる科学の到達点は、わたしには複雑で難解過ぎるので、最早想像を超えている。だから、わたしの想像はきっと集合としての彼らの想像の枠内に収まっているはずであって、わたしの言葉は既に時代遅れなのかも知れないが、精一杯背伸びしてやっと考えたことなので、何とかここに書いておくことにする。