渋谷で私が見てきたもの

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渋谷区で、同性カップルに対して「パートナーシップ証明」を発行する条例が可決されました。

こういう動きがあること自体には、今確かに日本で、セクシャルマイノリティに対する世の中のスタンダードがゆっくりと変化してきていることを感じ、嬉しく思います。

それと同時に、この条例自体のいくつかの問題点や、その裏で渋谷区が行おうとしている野宿者排除の問題が、ただこの変化を喜びたい心を重くしています。

私はセクシャルマイノリティ当事者ですが、LGBT活動家でもないし、野宿者支援に継続的に取り組んできたわけでもなく、どちらも何かアクションが起こった時など、機会があれば協力を示すというだけの立場です。

そんな私でも渋谷で断片的に見てきたいくつかの風景があります。渋谷区の野宿者排除問題を知らなかった人や、東京近郊にいないのでピンとこないという人にとっては、「渋谷」という言葉だけで一気にざわつく人々の姿は不思議に映ったかもしれません。

ここで、私が見てきた風景を、書き留めておこうと思います。

2010年・宮下公園の閉鎖

もともと宮下公園というのは、立地的にも広さ的にも、はっきりいって、そんなにパッとした公園じゃありませんでした。駐輪場上にあり、階段を上らなければならないので子どもにもお年寄りにも使いにくい。線路に並行して細長く続いているので、公園というより遊歩道のような雰囲気。一応横幅ギリギリでフットサルコートが入っていましたが、たくさんの人が広く使って遊べるというほどのスペースはない。

しかし、無料で腰を下ろして休める場所がとても少ない渋谷駅前エリアでは、貴重な休憩場所で、数少ない緑のある場所。通勤通学中に通り抜けする人も多い公園でした。

また、都心に仕事を求めてやってきて、家もお金もないという人たちが夜休める場所もやはり、あの一帯には他には多くありませんでした。

そんな大したことない普通の公園の入り口に、バリケードが張られ、警察車両が何台も近くの道路に止められていました。バリケード前には、警備員や警察官たちが並んでいました。

野宿者支援団体の人たちが、メガホンで抗議していました。

抗議内容の一つに、「せめて寝泊りしていた人の荷物を取りに行かせてくれ」というのがありました。寝泊りしていた人は、2~3人の警備員に取り押さえられて無理やり公園から運び出されてしまったため、荷物が閉鎖された公園内に置き去りになってしまったとのことでした。

公的な権力をもって、意識のある人を押さえつけて無理やり移動させるなんていうことがあるということを、私はその時初めて知り、衝撃を受けました。

たとえどんなに理不尽な理由でその場に座り込んでいたとしても、犯罪者として手錠をかけられない限りは、人間が無理やり移動されるなんてことはないのが、文化的な現代社会なのだと思っていました。ましてや物のように運び出されるなんて。

公演が閉鎖されたのは、渋谷区がナイキに公園のネーミングライツを売却し、ナイキ資金によって公園の改修工事をする計画のためでした。「野宿者が寝泊りしていて活用できなかった公園」に、有料のバスケットコートやスケートボード場を置いてきれいなイメージに塗り替えよう、というものです。区の計画に最初から「野宿者のいない公園を作ろう」という意図があったことは、最近の長谷部健渋谷区議の発言でも明らかになっています。

http://www.ecozzeria.jp/archive/news/2012/11/12/asa_chikyu_dai_1209.html

ホームレスが寝泊まりして児童公園として活用できなかった場所を、ナイキに働きかけてバスケットコートなどを整備してもらった。
次の街づくりのキーワードはダイバーシティで、パラリンピックが日本に来たら、それが普通になるかもしれないですね。LGBTの人なども、うまく活用できないかということも考えています。

長谷部区議は、今回の同性パートナー証明の条例のきっかけを作った人物と言われています。

http://www.huffingtonpost.jp/2015/02/16/shibuyaku-lgbt_n_6692022.html

渋谷区役所地下駐車場の配食

私が渋谷区役所の地下駐車場を訪ねたのは2010年の年末のことでした。そこで食事を配っている支援者の方を取材させてもらったのですが、そこでは数人の野宿者がダンボールを布団代わりに寝泊りしているようでした。

路上生活状態になったばかりの40代くらいの人や、自分は訳あって一時的にこの状態になっているだけ、という自負を強く持っているように見える人もいました。配食を手伝っている人の中に現在は路上から抜け出した元野宿者の人もいました。家のある人とない人の差は、けして恒常的なものでなく、ある日ふと足を踏み外すとか、またある時ふとわずかなチャンスを掴めたとか、そんなものなのだということを、改めて実感しました。

ただのコンクリート打ちっぱなしの駐車場なので、最低限雨風をしのげる程度の場所。冬の寒さも夏の暑さもこたえそうでした。それでも屋根のある場所で身を守れる意味は大きいとのことでした。

ここでの戦いは、2008年に渋谷警察署が野宿している人たちの指紋と顔写真をとった時から始まっています。翌年にはシャッターが設置され、何度も完全閉鎖されそうになっていますが、抗議や反対運動によって何とか免れ、今も一進一退の気を抜けない状態が続いているようです。

宮下公園下の小屋

地下駐車場と同じ支援者の方が、宮下公園閉鎖後、区によって公園下に作られた小屋にも、食事を配りに行っていました。

それは、行政が用意した住まいとしてはあまりにも不十分なものでした。ベニヤのような薄い板で人がギリギリ寝られる程度のスペースが区切られ、ビニールシートがかぶせられて、ずらりと並んでいました。テントだって一応は人が寝泊まりできるように工夫を凝らして作られたものだけれど、この小屋は人が寝る環境として作られたものとは思えませんでした。

区は、野宿の人たちには行政の福祉につながれるように十分対策を行っていると言っていますが、こんな場所を用意しなければならない状態ならば、まだその対策は十分に結実していないということです。きちんと一人一人に声をかけ、全員が生活保護などのまともな福祉政策を受けるようになって、はじめて十分な対策を行ったといえるのではないでしょうか。ましてや、拒否する人を無理やり運び出すような真似が必要だなんてことは、ありえないはずです。

それでもこのベニヤ板の小屋は、行政が用意した住まいであり、ある程度援助の手が届いてしかるべきです。しかし、支援者の方は、ここで亡くなった人がいると話してくれました。苦しくて救急車を呼んだけれど、駆けつけた救急隊員に、「帰りは自費で帰って来なければならないけれど交通費はあるのか」と問われ、無いからと諦めて、そのまま救急車は行ってしまったそうです。その人は数日後、小屋の中で亡くなったとのことでした。

2014年・渋谷区内公園閉鎖

2014年の年末に、渋谷区内の宮下公園・神宮通公園・美竹公園が突然閉鎖されました。閉鎖期間は12月26日から、年が明けて2015年の1月3日まで。

東京・渋谷区:宮下公園など3日まで閉鎖 ホームレス締め出し - 毎日新聞http://mainichi.jp/feature/news/20141226mog00m040041000c.html

区緑と水・公園課は「以前から支援団体に対し、炊き出しや大型テントの設営など安全性に問題がある行為をやめるよう求めていたが、受け入れられなかったため」と説明する。ホームレスの増加などに伴う風紀や治安の乱れを懸念する周辺住民の声も考慮した模様だ。

年末年始に行政の窓口が閉まり、支援の手が届かなくなるからこそ、支援団体が行っていた炊き出しや共同炊事を、渋谷区は強硬手段によって禁止したわけです。

実は私は閉鎖されたちょうどその日、渋谷に出かけていました。夜まで用事を済ませて、帰ろうとした時にツイッターでこのことを知り、宮下公園の入り口まで歩いて行ってみました。

時間は23時を過ぎていて、真冬の冷たい風の中宮下公園前にたどり着くと、階段に座っている人がいました。最初は一般の人かと思い、階段をのぼって行こうとすると、その人は立ち上がり、赤い警棒を目の前に持って見せました。良く見ると警備員らしき黄色いラインが入ったベストを着ています。

「入れないようになってるから」と言われ、そのまま帰りましたが、警備の人を雇ってまで完全閉鎖しようとしているのかという衝撃とともに、全ての公園の全ての入り口に配置しているんだろうかとか、こんな時間までいるなんて一体何時まで警備するのか、その労働条件って一体どうなってるんだろうか、といろいろなことが頭をよぎりました。

一人一人の「人間として正当に扱われない体験」

渋谷区が野宿者排除を行ってきたからといって、それで今回の同性パートナー条例まで批判する根拠にはならない、と言う人もいるかもしれません。たしかにその通りだと思います。(ただし条例自体の数々の問題点についてはセクシャルマイノリティ当事者からも多くの批判が上がっていることは見過ごさないでほしいと思います。)

ただ私は、条例を可決したこと自体をある面で評価することには反対しないけれど、「渋谷区はLGBTに優しい街だ」「渋谷区の姿勢を支持したい」などという言葉はどうしても言えない。他のマイノリティを排除する街がセクシャルマイノリティにだけ優しかったところで何だというのだ、と思ってしまう。

人間の体が人間でない物のように扱われるという現実を目の当たりにし、涙が出るような衝撃を受けた体験が、私にそれを許さないのです。

人間の体として正当に扱われない体験、と聞いて、セクシャルマイノリティの皆さん一人一人にも、思い当たる体験があるのではないでしょうか。


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