セクハラはなぜいけないのか

※この記事は投げ銭スタイルです。全文を公開しています。

先日セクハラだと話題になったルミネの広告動画。現在は、「不快に思われる表現がありました」といういまいち納得いかない謝罪文とともに削除されていますが、「なぜこの動画にそんなに怒るのか」という意見も、ツイッターで散見されました。

動画は削除されましたが、こちらのブログで詳しい内容を説明してくれています。

ルミネの働く女性たちを応援するCMが酷い内容だった―田舎で底辺暮らし

http://pokonan.hatenablog.com/entry/2015/03/20/000637

もう動画が消えたのに今さら何を言うのか?と思うかもしれませんが、「そんなに騒ぐほどの内容じゃない」といった声が、まさにハラスメントのある面を如実に表しているな、と思ったので、これを良い機会にと、なぜセクハラがダメなのかについて書いておこうと思いました。

「軽い気持ちで」「とくに意味もなく」

まず、動画では同僚らしき男性が、主人公の顔を見て、「寝てないの?」と声をかけます。「普通に寝ましたけど」答える主人公の顔がアップで映りますが、特に顔色が悪かったり疲れを残しているようにも見えません。むしろ肌つやはとても良いくらい。

でも、こんなこと言われたら、女性でなくても気になるでしょう。世の多くの男性も、ちゃんと寝てきたのに「寝不足の顔だ」なんて言われたら、生活習慣が乱れてたかなとか、飲みすぎたかなとか、知らないうちに表情が険しくなってたか、などと考えてしまうんじゃないでしょうか。

しかし、おそらくこの同僚は、「軽い気持ちで」「とくに意味もなく」言っています。

たぶんこの手のタイプの人は、化粧ノリの良し悪しどころか、他人の顔色が悪いかどうかも、髪型の変化も、顔の造形のきれいさでさえ、あまり鮮明に判断できないでしょう。

主人公が美容や健康に気を遣ったり、表情を明るくするように気をつけて、「ちょっと最近の私変わったかも」なんて思った頃に、また「気まぐれに」「とくに意味もなく」、彼は「なにその顔、寝てないの?」なんて言う。そんな可能性は十分ありえます。

こういう物言いをされた時、人は、どうしたらいいかわからなくなります。一体どんな顔をしていたらいいんだろうか。自分の顔がどんな顔なのかなんてよくわからない。パニックになり、強いストレスを感じて、会社に来るのが憂鬱になってきます。

このCM動画を見た時に一番に怖いな、と思ったのはそこでした。動画の最後は、主人公が鏡と向き合うシーンですが、そんな風に、気まぐれな評価にも懸命に対応しようと鏡に毎日向かう中で、どんどん自信を失い、自分が分からなくなっていくんじゃないか、と思えました。

気まぐれの評価はストレスを与える

これは、相手の性別に関わらず、またセクハラに限らず、モラハラやパワハラなどでもよく起こるパターンです。

本人にとっては判断基準がよくわからないことや、コントロールしにくいことについて、気まぐれにダメ出しされる。

「顔が生意気だ」とか、「しゃべり方がいらつく」とか、何がだめなのかを明確にせず「仕事ができない」「ダメなやつだ」などと言われたりするのもそうです。毎日同じように仕事をしているのに、理由を示さず気分次第で高評価や低評価をつけられて翻弄される、といったようなこともあります。

動画の批判者に対して投げられた声の中に、「イケメンなら許すんだろ」というものもありましたが、この場合、発言の主が自分にとって好意を抱いている相手であれば、より追い詰める効果は大きくなり、より深刻なハラスメントになるだけです。

「軽い気持ち」でやってしまうからこそ

「セクハラなんて、いちいち目くじらを立てていたら何の会話もできない」と言う人がいます。

ハラスメントをする側の目線で考えればそうでしょう。

言う側にとっては、特別相手を傷つける意図があるわけでも、悪意があるわけでもない、何となく気分で発した言葉なのだから。動画の彼の発言もきっとそうだったのでしょう。

ハラスメントとは、「相手の意思に反して不快や不安な状態に追い込む言動」。「深い意味はない」ちょっとしたからかいやいたずら心でも、相手を追い詰める言葉や行動があるということを、この社会は発見したんですね。

相手を追い詰め、深く傷つけ、精神にダメージを与える言動を、人は「軽い気持ち」でやってしまうことがあると、この人間社会はちゃんと気づいて、ハラスメントの一種として、許されないものとして定義付けるようになったわけです。

相手を人間として誠実に見た時に

よく「ハラスメントは受ける側の感じ方が基準」と言いますが、実際のところ、それだけだろうか、と思います。

お互いに誠実な気持ちを持った人同士の関わりの中でも相手を傷つけてしまうことはあるけれど、人としての自分を見失うほどのダメージを相手に与えることって、やっぱり相手を人として扱わない言動なんじゃないか。

それは「軽い気持ち」からくるものかもしれない。でも、その「軽い気持ち」は、まず最初に相手をみくびり、人間としてまともに見ようとしないことから始まっているんじゃないか。

人をまるで物のように、「女だから」「男だから」と簡単に枠にはめず、その人を、様々な経験や意思を持って生きてきた一人の人間として誠実に見つめた時、自身の中にも、より豊かな言動が生まれてくるかもしれません。

「セクハラと言われたら何も話せない」と言う時に想定する会話以外の、目の前の相手に向ける、新しい言葉や態度が見つかるんじゃないか…と思うのです。

※投げ銭スタイルの記事です。以降の文章はありません。

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?