2022/9/20 老醜を避け、ただの老人になりたい

 昨日は敬老の日。自らの「老醜」について考えた。渡辺一夫「老醜談義」にこんな文章がある。

   若い人でも「己が己が」というような態度をとることは、醜いことですが、年齢・権力・金力を笠に着て、どこへでもしゃしゃり出て、「俺を忘れるな」と言わんばかりの態度で「遺言的説教」をしている老人は、どうも「老醜」そのもののような気がいたします。ですから、齢をとって、いわゆる「功成り名遂げ」たために、いわば「怖いもの」なしになりやすい老人は、傍から見れば、「黙って、言わせて置くに限る。いずれは……」というような慇懃無礼な取り扱いを受けることになるかもしれません。
   敬老はたしかに美風ですが、敬老に甘える老人も、敬老するあまりに「老醜」をのさばらせる人々も、深く反省すべきかもしれません。
(『寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか』所収)

権力にも、金力にも縁がなく、そもそも笠に着るものがないので、それほど心配はしていないが、年齢だけは毎年いやも応もなく重ねていくので、もしかしたら周りの若い人たちに迷惑をかけているとも考えられる。年齢以外、権力も金力もないが、たしかに「怖いもの」なしではある。別に人生を投げているわけではないが、大抵のものはなんとかなるだろうと高をくくっている。そういった態度が、若い人たちに頼もしく見えるか、煩わしく見えるかは分からない。とにかく「謙虚に、謙虚に」生きていこう。
幸いに私の老父母も「功成り名遂げ」たわけではなく、日々を淡々と暮らしており、私たちのライフスタイルについても、内心はどう思っているかは分からないが、口を出さずにいてくれる。モデルとなる老人がいることは幸いだ。孫たちの力をお借りして、私が育ててもらった恩を少しでも返せればと思っている。


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