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自分の手に感謝する──マインドフルネスの12の練習 WEEK4

Photo by Nsey Benajah/unsplash

『「今、ここ」に意識を集中する練習 心を強くやわらかくする「マインドフルネス」入門』(ジャン・チョーズン・ベイズ著)の一部公開4回目。「WEEK4──自分の手に感謝する」です。

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練習の前に、前回に続きマインドフルネスの効能を紹介します。

マインドフルネスの効能 その2

マインドフルネスは、心を鍛えて、やわらかく強くする

ちょっと抽象的ですね。ここは、マインドフルネスの元祖とも言えそうな(?)釈迦が、「心」について語ったという次の言葉で補完しましょう。

「心を育てるのは、森に住む野生のゾウを飼いならすようなものだ」

……。余計わからなくなりましたが、要するに、人の心などというものは野生のゾウのように警戒心が強く、しかしときに「暴君」ともなる、素のままでは他人やモノ、自分さえも傷つけてしまうやっかいなものだ、ということでしょう。

野生のゾウは、人が近づけば逃げ出し、怖がらせれば反撃してきます。落ち着かせるには、まずはなんとかして杭につなぎ、少しずつ人の指示を聞くように訓練しなければなりません。インドでははるか昔から、そうして人とゾウは共存してきました。

人の心も有事には混乱をきたし、冷静に振る舞うことが難しくなります。現実から逃避したり、過度に攻撃的になったり、ときに感情を失ったり。暴れがちな「内なるゾウ」をつなぎとめる杭の役割となるのが、本書で紹介されている「マインドフルネスの練習」なのです。

「今、ここ」の状況や自分の感情に向き合う練習を続けることによって、心がしなやかに強く鍛えられて、さまざまな困難に遭遇しても冷静で安定した状態でいられるようになる。

本書の著者ベイズの解説を大胆に意訳すると、以上のようになります。


ではお待たせしました、WEEK4の練習「自分の手に感謝する」を紹介します。私たちは普段意識しませんが、自分の手が、どれだけ働いているかを気づかせてくれる練習です。

(本書PARTⅡ マインドフルネスを日常で実践する53の練習 より)

どんな練習?

日に何度か、手が忙しく働いているときに、それが誰かほかの人の手であるかのように、観察しましょう。また、手がじっとしているときにもじっくりと眺めてみます。

取り組むコツ

手の甲に「私を見て」と書いた紙を貼りつけます。仕事の関係などで、紙を貼るのが無理な場合は、ふだんはめない指輪をはめます(指輪ができない仕事、たとえば手術室で働く人などの場合は、手を洗ったり手術用手袋をはめたりするときに手を意識しましょう)。ふだんマニキュアをしない人なら、1週間だけマニキュアを塗って、思い出すヒントにすることもできます。

この練習による気づき

私たちの手は、じつにさまざまな仕事を上手にこなします。しかも多くの場合、いちいち脳が指示を出さなくても、ちゃんと仕事ができます。手は、まるで自立して忙しく生きているかのようです。手は本当にいろいろなことができます! 左右の手は協力して何かすることもあれば、同時に違うことをすることもあります。

この練習をしていると、人が独特の手の動かし方をすることに気づくようになります。話をしている人の手は、まるでそれ自体に意志があるかのように動きます。

また、人の手は、時とともに変化することにも気づきます。自分の手を見てください。赤ちゃんのとき、どんなだったでしょう。その手が年を重ねるにつれて、今の手に変化してきた様子をイメージしましょう。さらに今後年老いていき、やがて命のない動かない手になり、土に還(かえ)ることを想像します。

寝ているあいだも、手は私たちの面倒を見てくれています。ずり落ちた毛布を引っぱり上げたり、隣に寝ている人を抱きしめたり、目覚まし時計を勝手に消したりします。

深い教訓

手は、常にその人の面倒を見ています。禅では、意識していなくても体が自分自身の世話をすることは「本性(ほんしょう)」、つまり人間の生来の善性や知恵が果たす機能なのだと説明されています。手は火に近づくと、意識が熱を感じる前に引っ込みます。耳が鋭い音を認識する前に目は瞬(まばた)きします。モノが落ちると脳が認識する前に手が伸びてそれを受け止めます。

右手と左手は協力して、それぞれの仕事を受けもちます。皿を拭くときは、片方の手が皿をもち、もう片方が布巾(ふきん)をもちます。包丁を使うときには、片方が野菜を押さえて、他方の手が切ります。手を洗うときは互いを洗い合います。

禅には、観世音(かんぜおん)という慈悲の菩薩についての「公案(こうあん)」があります。公案とは「心を開いて深い真実を直(じか)に体験させるための質問」です。観世音は、救いを求める人を見逃さないための千の目や、人々を救済するための道具を使う千の手として描かれることが多い菩薩(ぼさつ)です。

それぞれの手のひらに目が描かれることもあります。公案はこんなふうに語られます。

ある日、禅僧の雲巌(うんがん)が道悟(どうご)和尚(おしょう)に尋ねました。
「観世音菩薩はどうやって、あんなにたくさんの手や目を使うのですか?」
道悟は答えました。
「眠っている人がずれた枕を手で探って直すのと同じようにだ」

私が教えている人のなかに、学生で楽器職人をしている人がいるのですが、彼は「この話がよく理解できる」と言いました。ギターの胴のなかの見えない部分の作業をしているとき、彼の手は「目」をもっているのだということが、この話を聞いてわかったそうです。

その目は、手が触れている表面の状態を詳細に見て作業できるので、暗闇のなかでも仕事ができます。彼の心のなかの目と手が、見事に一緒に働いてくれるのです。眠りながら枕の位置を見て、手が自然に伸びてそれを直すのと同じです。

禅のこの公案は、心が邪魔しなければ、人が本来もっている叡智(えいち) と慈悲がともに働くということを教えています。すべての存在が一体になる様子がはっきり見えてくると、あらゆるものが手と目のように助け合って働いていることがわかります。手が目を傷つけることのないように、人の本性は、自分も人も傷つけるようにできていないのです。

自分を変える言葉
左右の手は自然に助け合い、素晴らしい仕事を楽々と成し遂げる。
しかも互いを傷つけ合うことがない。
人と人も、誰もがみなこういうふうにできないものか

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