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「計」の字源と上古音

『説文解字』では「計」字が会意文字とされている。実際には「計」字は形声文字である。

会意文字解釈の誤り

「計」字を会意文字とする解釈では、「十」は数の「10」を表すとされ、したがって「計」字の本義は「計算、合計」の類であったということになる。結局のところ、調べた限りでは、「計」を会意文字とする主張の根拠はこの「計算」~「10」という意味的関連性の心地よさのみに基づいているようである。

しかしこの仮定は、この文字に「言」が含まれている理由を説明できない。

「言」は最も普遍的に見られる分類符の一つであるが、計算に関する文字には使われない。そのような文字に一般的に使われる分類符は「竹」であり、まさに「算」に見られる。「竹」が使われるのは籤籌に由来する。

ではなぜこの文字に「言」が選択されたのだろうか。「計」には「計画、計略」の意味があることに注目されたい。「謨」「謀」など、これに類似した意味を持ち(そして「計算」の意味を持たない)、かつ「言」を含む文字が複数確認できることから、「計」の本義が「計画、計略」であったことがほぼ確実となる。

したがって「計」字の本義を「計算、合計」と考えるのは誤りである。この文字の「十」を数の「10」と関連付けるのは誤りである。「計」字を会意文字とするのは誤りである。

――完――



「計」は形声文字として欠陥なく説明可能である。それを以下に示す。

方法論的前提

その前に、ある文字が形声文字として解釈可能であることはその文字が形声文字であり会意文字でないことを示唆するが、ある文字が会意文字として解釈可能であることはその文字が会意文字であり形声文字でないことを示唆することはない、ということを強調しなければならない。これには2つの理由がある。

まず、漢字は、『広韻』では95%以上、普遍的な漢字に限っても圧倒的多数が形声文字であり、いわゆる会意文字は非常に少ない。さらに、一般に言われている“会意文字”は実態としてはそのほとんどが複合的象形文字であり、「計」に想定されている造字方法、すなわち複数の「意味を連想させるパーツ」を組み合わせるような“真の会意文字”は、『説文』以前に存在する文字としては極めて稀である。この分布の偏りは我々が特定の漢字が形声文字であるか会意文字であるか判断する際の事前確率として割り当てられるべきである。

第二に、ある漢字が形声文字であるかどうかには諧声原則というすぐれたツールがある。これは、表音文字はもともとの単語と同じ調音部位・同じ主母音・同じ韻尾を持つ音節のみを表すという原則である。意味論的に選ばれた書記素が偶然諧声原則を満たすことが稀であることは明らかであるから
(「水」「艸」などの頻出する分類符で統計をとってみよう)、ある文字が形声文字として解釈可能であることは会意文字として解釈可能であるかどうかにかかわらずそれが形声文字であることを示す。

現実に目を移すと、諧声原則は絶対的なものではなく、多くの例外が存在するということがすぐにわかる。とはいえ、諧声原則を破る形声文字の例はあくまで特殊な例外といえるだろう。諧声原則に例外が実在することは、一見、デュエムとクワインの言う通り(そして実際に一部の研究者が実行するように)、「例外的現象が起きた」と仮定することであらゆる文字を形声文字として解釈することを可能にするかもしれない。しかし「例外的現象が起きた」と仮定した場合、それは可視化される。つまり、形声文字としての解釈は、原則に忠実であるか、原則をどのようにどのくらい破っているかが可視化されるから、それはそのまま「形声文字としての解釈が正しい確率」として利用できる。例外的現象をあまりに乱立させているような解釈はその確率を低下させ、その低い確率は逆説的に会意文字としての解釈の優位性を示すことになる。

逆に、ある文字を会意文字であるかどうか判断するのに有用な客観的ツールは無い。特定の会意文字としての解釈がどの程度優れているかどうかも不明である。今回の例で言えば、「計:計算」~「十:10」の意味的関連性の心地よさは、形声文字としての解釈と会意文字としての解釈がそれぞれどの程度優れているかに関する情報を提供していない。

この洞察から、冒頭のテーゼを言い直すことができる。ある文字が形声文字として「どのように・どの程度」解釈可能かについて考察することはその文字が形声文字か会意文字でないかについての情報を与えるが、ある文字が会意文字として「どのように」解釈可能かについて考察することはその文字が形声文字か会意文字でないかについての情報に寄与しない。また、ある文字が会意文字として「どの程度」解釈可能かについて考察することはできないようである。

したがって方法論的には、あらゆる(『説文』以前の)漢字は先験的に形声文字だと仮定されるべきであり、会意文字と仮定することは許されない。形声文字として解釈することの困難性が有意義に指摘されてはじめて、形声文字としての解釈が揺らぐことになる。

それとは逆のアプローチ、すなわち全ての文字をまず会意文字として解釈し、そのうち「異常」な解釈が行われているものを形声文字として再解釈するというアプローチは不可能である。例えば、「計」字の本義は「計画」であるので「十」は「10」と解釈できない、という反論を克服する別の会意文字的解釈が生まれたとする。その解釈がどの程度「異常」かを例えば意味的関連性の心地よさ等から計測できるとは思えない。

言い換えると、作業の第一段階では、ある漢字を形声文字と解釈する主張と会意文字と解釈する主張には非対称性がある。会意文字と解釈するためには、形声文字と解釈することの困難性を指摘しなければならず、文字の部品の意味的関連性(ここでいう「計:計算」~「十:10」)を強調することは何の役割も果たさない。一方で、形声文字と解釈するためには、その利点を強調する必要も、会意文字と解釈することの困難性を指摘する必要もない(その義務は会意文字と解釈する主張が有意義になされた後に初めて発生する)。

そういうわけで、「計」字が会意文字であるか形声文字であるかを判断するために考えるべき唯一の事柄は、表音文字「十」を{計}の音節にあてることが不可能であったかどうかという問題である。

「計」と「十」の音韻的類似性

「十」の中古音は $${\textit{djip}}$$ (常開三緝(侵入))であり、「十」を声符とする「汁」の中古音は $${\textit{tjip}}$$ (章開三緝(侵入))、「針」の中古音は $${\textit{tjim}}$$ (章開三侵(侵平))である。

「計」の中古音は $${\textit{kejh}}$$ (見開四霽(齊去))である。

形声文字解釈への最も単純な反論として、中古音ベースでは明らかに諧声原則に反していると言うことができる。この反論はあまりに浅はかに見えるが、あえて丁寧な手順をとるために、ここでは必要な議論である。

もちろん、これらの文字は漢代以前に存在するので上古音ベースで考えなければならないと容易に再反論できる。これらが諧声原則を満たすような上古音形に再構可能であることを示すのは難しくない。それどころか、そのような再構を支持する証拠があることを紹介しよう(なお、「針」の韻尾の鼻音性については、「計」の議論とは直接関係ないので以下では触れない)。

声母

「十」「汁」「針」の声母は中古音では章組声母を持っているが、かつて何らかの形で牙喉音を持っていたことは疑いない。幸運にも、3つの単語全てに独立した証拠がある。

  • 「針」の異体字「鍼」「箴」は表音文字「咸 Kəm」に従う。

  • 今本《儀禮》中の「湆 $${\textit{khyip}}$$」は武威漢簡では「汁」と書かれている。

  • 「10」の比較語彙:カルビ語「$${\textit{kēp}}$$」、クマン語「$${\textit{kyēp-mù}}$$」等

  • 「針」の比較語彙:チベット文語「ཁབ་ $${\textit{khab}}$$」、四土語(卓克基)「$${\textit{ta-kāp}}$$」等

したがって声母の観点では{計}に表音文字「十」があてられることに障害はない。

韻母

「十」「汁」「針」の中古緝韻(および侵韻) $${\textit{-jip}}$$ は、上古 $${\text{*-[i|ə|u]p}}$$ に由来する。「計」の中古齊韻去声 $${\textit{-ejh}}$$ は、上古 $${\text{*-[i|e]([j|t|p])-s}}$$ に由来する。したがって、両者はともに上古 $${\text{*-ip}}$$ 韻を持っていたと仮定することができる(後置子音$${\text{*-s}}$$ は表音文字に影響しない)。

【注:角括弧と垂線は音素の候補を示す。例えば「$${\text{*-[i|e]-}}$$」 は「$${\text{*-i-}}$$ または $${\text{*-e-}}$$」を意味する。丸括弧は音素の存在または不存在を示す。例えば「$${\text{*-e(j)-}}$$」 は「$${\text{*-e-}}$$ または $${\text{*-ej-}}$$」を意味する。】

「計」の上古韻母について、 $${\text{*-[i|e][t|p]-s}}$$ の可能性を否定して、 $${\text{*-[i|e](j)-s}}$$ を支持するような証拠はないと思われる。それとは逆に、$${\text{*-i[t|p]-s}}$$ の再構を支持する証拠が一つある。

前漢代に書かれた《老子》の3つの写本(馬王堆帛書甲本・馬王堆帛書乙本・北大漢簡)では「計」と「一 $${\textit{qit} ← \text{*ʔit}}$$」が韻を踏んでいる。一般に《老子》の押韻は難解なものが多いためこれは良い証拠ではないかもしれない。しかし、この「計」は今本では「詰」($${\textit{khit} ← \text{*kʰit}}$$)と書かれている。したがって押韻の解釈にかかわらず「$${\text{*-i[t|p]-s}}$$」が支持される(「$${\text{*-ip-s}}$$」は漢代以前に「$${\text{*-it-s}}$$」になっていたので、この例は「$${\text{*-ip-s}}$$」よりも「$${\text{*-it-s}}$$」を支持する証拠ではなく、それに関しては中立である)。

したがって韻母の観点からも{計}に表音文字「十」があてられることに障害はない。

主母音と諧声原則

「針」の主母音に基づく形声文字解釈に対する反論

先述した「針」の上古音に関する証拠を繰り返そう。

  • 「針」の異体字「鍼」「箴」は表音文字「咸 Kəm」に従う。

  • 「針」の比較語彙:チベット文語「ཁབ་ $${\textit{khab}}$$」、四土語(卓克基)「$${\textit{ta-kāp}}$$」等

この2つは、「針」の上古音が「$${\text{*t-kəm}}$$」のようなものであったことを示唆している(通常、チベット文語「$${\text{*a}}$$」は上古漢語の「$${\text{*a}}$$」「$${\text{*ə}}$$」のどちらかに対応する)。

ここから、「十」「汁」「針」の上古主母音は「$${\text{*ə}}$$」だったので「計」の「$${\text{*i}}$$」とは一致せず、したがって「計」字中の「十」を表音文字と解釈することは困難だ、という主張がなされるかもしれない。これは形声文字解釈に対する有意義な反論である。

反論への再反論

実際には、「針」の証拠は、「計」字を形声文字として解釈することを否定するのには不十分である。3つの観点から再反論を行う。

第一に、{針}の上古主母音が「$${\text{*ə}}$$」であることは{十}の上古主母音が「$${\text{*i}}$$」であったことを意味しない。すなわち主母音の不一致は「十」と「針」の間の壁であって、「十」と「計」の間の壁ではないのかもしれない。

{針}については、内的証拠(「咸 Kəm」)と外的証拠(チベット文語等)がともに「$${\text{*ə}}$$」を支持するが、{十}に同様の証拠はない。「10」の比較語彙(とされるもの)は先述のカルビ語とクマン語のほかビルマ文語「ကျိပ် $${\textit{kyip}}$$」や茶堡語「$${\textit{sqi}}$$」など前舌母音を示すものが多く、「針」とは異なる母音対応パターンを持っているため、「$${\text{*ə}}$$」が「十」の上古主母音として特別支持されているわけではない(なお「$${\text{*i}}$$」を支持しているかどうかはここでは関係ないので触れない)。

第二に、そもそも、$${\text{*-əp}}$$ 韻の音価を持つ表音文字が主母音の異なる $${\text{*-ip}}$$ 韻の音節を表すことは不自然ではない。方法論について述べたときに軽く触れたように、表音文字が主母音の異なる音節に当てられることは散発的に見られる現象である。特に韻尾 $${\text{*-p}}$$ の音価を持つ表音文字は少ないため、そのような諧声原則の逸脱はしばしば起こったと思われる。例えば、「捷 $${\textit{dziep} ← \text{*dz[a|e]p}}$$」と「𧚨 $${\textit{tship} ← \text{*tsʰ[i|ə|u]p}}$$」の主母音には複数の選択肢があるが両者を一致させることはできない。

これは諧声原則に対する例外の仮定である。しかしこの例外は「計」をなんとか形声文字として解釈しようという努力のみに動機づけられたその場しのぎの仮定ではない。この例外は客観的に観測可能だとさえ言えるが、これについては後述する。その前に第三の再反論を紹介しよう。

第三に、中古音で「計」の韻に対応する入声音節を持つ「協 $${\textit{ghep}}$$」が「十」に従うという事実がある。私はこれを決定的な証拠だと考えている。もしある書記素が類似した音節に繰り返し現れるとしたら、その主母音がバラバラで諧声原則を乱していたとしても(というより、諧声原則的例外が主母音の差だけであったならば)、それは表音要素であるとしか考えられない。それに対して、「十」は「計」と似たような意味を持つ(かつ形声文字とは到底考えられない)文字に繰り返し現れているだろうか?

「協」には「恊」という類似した文字があることから、この字の「十」は単なる「忄」の訛変であると主張する人がいるかもしれない。「協」と「恊」は《説文》で既に区別されているため、この“訛変”説はほとんどありえないと思われる。「忄」に従う文字が多数存在する中で「恊」だけが「協」という字体を生み、かつ「協」字が「恊」字の訛変であることを《説文》が理解できなかったというのは考え難い。《説文》は「忄」が「心」に由来することを正しく理解しており、篆書の「心/忄」と「十」は全く似ていない。

「協」の上古音

第三の再反論に関連して、「協」の上古音について考えてみよう。ここで同じ声符を持つ「脇」の上古音についても考えてみると、次のようになる。

  • 協 $${\textit{ghep} ← \text{*gˤ[i|e]p}}$$

  • 脇 $${\textit{hyop} ← \text{*x[a|o|e]p}}$$

諧声原則に従うと、両者の上古主母音は「$${\text{*e}}$$」であったということになる。

「協」に主母音の異なる「十」が例外的に当てられたのは、画数の少なさが好まれたのだろう。「協」字における「十」という書記素は、「協」字の根源的な表音文字ではなく、後から追加された注音符であることに注意されたい。「樂」字に追加された注音符「白」のように({樂 $${\text{*rˤawk}}$$}と{白 $${\text{*b-rˤak}}$$}は韻尾が異なる)、注音符は通常の表音文字よりも音節の一致性が緩い代わりに筆写が簡単な文字が好まれることがある。

諧声原則の例外に対する説明

続いて、「協」の属する中古怗韻 $${\textit{-ep} ← \text{*-[i|e]p}}$$ における牙喉音声母を持つ全ての文字を以下に掲載する。ただし、$${\text{*L-}}$$に由来する「枼」を持つ文字は除外した。

  • 見母 $${\textit{k-} ← \text{*k-}}$$ :頰𩠣鋏筴梜莢蛺唊𥞵

  • 溪母 $${\textit{kh-} ← \text{*kʰ-}}$$ :愜㥦悏㾜匧篋㤲㛍

  • 匣母 $${\textit{gh-} ← \text{*g-}}$$ :協叶勰綊挾俠𠗉劦𤙒𢂐

  • 暁母 $${\textit{h-} ← \text{*x-}}$$ :㛍

問題の「協」とその異体字「叶」を除くと、ここに登場する表音文字は、「劦」「夾」の2つしかない。さらに、「劦」と「夾」はともに $${\text{*-ep}}$$ なので、 $${\text{*Kip}}$$ という音価を持つ表音文字は存在しないことがわかる。

すなわち、$${\text{*Kip}}$$ という音価を持つ表音文字は存在しないため、{計 $${\text{*kˤip-s}}$$}を表音文字で表そうとした場合、 原則を破って主母音の異なる表音文字を使わざるを得なかった。したがって、「計」~「十」の例(あるいは第一の再反論を受容すれば「十」~「針」の例)は、表面上は諧声原則の例外だが、事実上例外ではない。

まとめ

将来の議論のため、ここまでの議論から得られる可能性の一つを、時系列的に整理することが有用だろう。

第二・第三の再反論を受容すれば、第一の再反論は不要であるため、説明のためにここでは{十}の上古音が「$${\text{*t-gəp}}$$」のようなものであったと仮定する。{十}の上古音が「$${\text{*t-gip}}$$」のようなものであった場合は以下の3.の説明が2.に繰り上げられる。

  1. {針 $${\text{*t-kəm}}$$}を表す針の象形文字「十」が生まれた。

  2. {十 $${\text{*t-gəp}}$$}を表すために「十」が借用された。

  3. {計 $${\text{*kˤip-s}}$$}の音節を表すためには「Kip」の音価を持つ表音文字が必要だが、そのようなものは存在しないので、異なるが類似した音を持つ「十」が借用された。「計画、計略」の意味論から選択された分類符「言」が加えられ、「計」字として実現された。

  4. {計}の音は $${\text{*kˤip-s} → \text{*kˤit-s}}$$ と変化した。

  5. 「計」字が《老子》のある写本において{詰 $${\text{*kʰit}}$$}を表すのに借用された。その写本は馬王堆帛書甲本・乙本・北大漢簡の底本となった。

  6. {計}の音は $${\text{*kˤit-s} → \text{*kˤij-s} → \textit{kejh}}$$ と変化した。

このタイムラインはあくまで「計」を形声文字として解釈することが可能である(すなわち会意文字として解釈することが不合理である)ことを示す目的で書かれていることに注意されたい。この目的に直接関係のない周辺証拠から、修正される可能性がある。しかし重要なことに、「計算」~「10」をはじめとした意味的関連性の心地よさからの議論では、このようなタイムラインを描くことも、それをさらに洗練させることもできないのである。


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