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『常設展示室』原田マハ を読んだ【ネタバレ感想】

読んだきっかけ

日常的に本を読む知り合いKさん(人が沢山死ぬ物語が大好き)から激推しされ、本人から借していただけることに。Kさん曰く「サスペンスでもないし殺人鬼は現れない」そう。本当にKさんか?

貸してもらうと、コンパクトな文庫本に見たことのある著者名が。本を全然読まないので原田マハ作品を読むのは初めて。

書籍情報

6篇からなる短編集。単行本は2018年に出版されており、読んだのは2021年10月発行の文庫版。文庫版には、上白石萌音による解説が寄せられている。

パリ、NY、東京。世界のどこかに、あなたが出会うべき絵がきっとある。その絵は、いつでもあなたを待っている。人生の岐路に立つ人たちが辿り着いた世界各地の美術館。巡り会う、運命を変える一枚とは――。故郷から遠く離れたNYで憧れの職に就いた美青は、ピカソの画集に夢中になる弱視の少女と出会うが……(「群青 The Color of Life」)ほか。アート小説の第一人者が描く、極上の6篇。

商品解説

感想

 Kさんからの前情報でハードルが上がりすぎた感もあり、手放しで「素晴らしい!!」とはならなかったが、心地よい読後感が感じられるのはもちろん、「久々に家族に連絡しようかな」「美術館へ行こうかな」と思えるような良本。

 6篇それぞれ、主人公となる女性が大なり小なり問題や悩み、言い換えれば「向き合わなければならない事柄」に直面する。そんな中、主人公が思い入れのある絵画に出逢い、あるいは再会し、絵画の持つ魅力や奥深さ、新しい価値観に触れ、自分自身が納得のいく生き方を選択していく。

 以下、バチバチにネタバレのため読後閲覧を推奨。

群青 The Color of Life

あらすじ
故郷の日本から遠く離れたNYのメトロポリタン美術館でアシスタントプログラマーとして働く美青みさおは、ある朝、視界の異変に気付く。仕事を早退して受診した眼科で、分厚い眼鏡を掛け、一心不乱に美術絵本を観る弱視の女の子、パメラと出会う。美青は、近く開催される障がいをもつ子供のための教育プログラムに彼女を誘うが…

登場作品
パブロ・ピカソ<盲人の食事>
  @アメリカ ニューヨーク メトロポリタン美術館

 この1篇目「群青」と最後の「道」は、2009年に執筆されたものだそう(それ以外は2018年執筆)。すべての作品は小説新潮に掲載されているが、始まりと終わりを決めていて、その間を埋めるように後から書いていったのだろうか。
 また、この「群青」は他の短編の多くと違い、作品名がタイトルに用いられておらず、また唯一洋題が邦題の翻訳ではない。
 作品名を用いていないのは、「盲人の食事」から美青が視力を失う未来が想起されることを防ぐ目的があるのだろうか。また、ピカソの「青の時代」全体を短編の主題としたい考えも読み取れる。
 邦題と洋題の意味が異なるのは、これという理由が思いつくわけではないが、「群青 Ultramarine」だと"色"の印象が強すぎる感がある。また、洋題「The Color of Life」には、"障がいがあっても(視力を無くしても)、人生に彩りはある"というメッセージが込められていると感じた。
 以下、印象に残った一文。

「けれど、ピカソが描きたかったのは、目の不自由な男の肖像じゃない。どんな障害があろうと、かすかな光を求めて生きようとする、人間のアビリティ、なんです」

 アビリティ障害ディスアビリティと対比して述べた一言。しびれる。

 作品はパメラと美青が絵画を一緒に鑑賞するシーンで終わる。退職して手術をした美青が、両親の元に帰ってまたアートにかかわる仕事をしているといいなと思う。


デルフトの眺望 A View of Delft

あらすじ
 大手アートギャラリーの営業部長ディレクターとして、海外を飛び回りながら働くなづきは、高齢で軽度の認知症を患う父の介護を、アルバイトをしながら父と同居する弟のナナオに任せきりにしていた。ロンドンに出張したある日、なづきは父が転倒し骨折したことをナナオからのメールで知る。帰国後、手術を終えた父に会いに病院に行くと、父はなづきのことを覚えていなかった。時が過ぎ、父は転院で施設病院の介護病棟に移る。見舞いに行ったなづきは、全身を拘束され廃人のような父を目の当たりにし、父が安らかに余生を過ごせる施設をナナオと共に探すことを決意する。

登場作品

 ヨハネス・フェルメール
  <真珠の耳飾りの少女>
  <デルフトの眺望>
  @オランダ デン・ハーグ マウリッツハイス美術館

 デルフトの眺望も、家族関係で共感するところが少なからずあり、胸に残る作品だった。また、最近家事やジムに行く際の暇つぶしとしてPodcastを聴くようになり、「そろそろ美術の話を…」という番組で、銀座の東京画廊の代表の話を聞いた直後だった。ギャラリーの仕事やアートの世界に興味のアンテナが向いている、タイムリーな時期に読むことができたのも幸運であった。
 また、この作品は特に、時系列の行き来が激しい。作品は、父が亡くなり、あじさいの家の退去手続きに来たなづきが、部屋の窓を開ける"現在"のシーンから始まる。その後、
・あじさいの家への移送
・現在
・ナナオと父の同居〜骨折、入院まで
・現在
・幼少期、真珠の耳飾りの少女との出会い
・介護病棟
・オランダ出張
・あじさいの家発見
・マウリッツハイス美術館での「窓」との出会い
・現在
 書いていて頭がおかしくなりそうだが、読んでいる最中は何の違和感もなく読み進めることができ、著者の技量の高さを感じる。特に、美術館でのシーンを終盤に持ってくるために時系列をいじらなければならないが、「窓」の扱い方が秀逸。
 この話の主題は「家」や「家族」であり、なづきがどのように家族に向き合っていくかが描かれているが、重要なモチーフとして作中幾度となく「窓」が出てくる。介護病棟の小窓にはブラインドが掛けられている一方、あじさいの家の部屋の窓を開ければ商店街を見渡せる。作中では真珠の耳飾りの少女と窓との関係は触れられていないが、幼少期になづきが美術全集で見た"助けを求める"少女も、展示室に気持ちよく開け放たれた"窓"によって救われていたのではないだろうか。
 以下、印象に残った一文。

 それができなければ、自分が父の娘である意味も、ナナオの姉である意味もないのだ。

 父の人間としての尊厳を守ってやれるのは、転院元の主治医でも親切だったソーシャルワーカーでもなく、娘であるなづきの他にいない。また、不本意ながら父を陰鬱な介護病棟にいれるしかなかった弟を引っ張り、救ってやれるのも姉であるなづきの他にいないのだ。

 なづきは、その窓辺にーーフェルメールの描いた絵、〈デルフトの眺望〉という窓の前に佇んで、飽かず眺めた。画家が創り得た奇跡のような風景を。

 初見、本当に窓があるかと思った自分に少し恥ずかしくなった(作品保護の観点で展示室に窓があるはずはない)が、フェルメールで数少ない風景画を窓に見立てて登場させるのは流石。


マドンナ Madonna

あらすじ
 大手ギャラリー「太陽画廊」で働く橘あおいは、スイスのバーゼルで開催されている美術見本市アートフェアでの商談中に掛かってきた母からの間の悪い電話ーとんでもない電話トンデモフォンに辟易していた。母が一人暮らしをする高齢者住宅に、週に一度は顔を出しつつも仕事に精を出す日々。そんなある日、イタリア フィレンツェに出張中のあおいは、兄の電話で母の怪我を知らされる。動揺を隠せないあおいは先輩の七月生に少し休むよう言われ、近くの美術館へと足を運ぶ。

登場作品
ラファエロ・サンツィオ<大公の聖母>
  @イタリア フィレンツェ パラティーナ美術館

 この「マドンナ」も、登場する絵画のタイトルと作品タイトルが一致しない。調べると、聖母マリア、特に聖母マリアの絵画や彫刻をイタリア語でMadonnaというらしい。絵画の原題は<Madonna del Granduca>であるが、単純にマドンナとしたのは、群青と同じように作品タイトルで絵画作品を連想しすぎないようにする意図があるのではないだろうか。また、アートのアの字もみつけられない母が絵画の切り抜きを背景も作者も知らずに飾っていたことから、ある種母にとっての仕事場の「マドンナ」的な存在という意味もかかっているのかもしれない。
 この作品は、自分がおばあちゃん子なこともあり、作中の母が申し訳なさそうに縮こまる場面など「あぁ~…」と切なくなるシーンが多かった。笑 自分で身の回りのことをしたい気持ちと、周りにお世話になることの申し訳なさの葛藤って、なんだかやり切れない気持ちになる。ハーモニカ直す約束なんて、仕事していると忘れちゃうよね。それを言い出せない母も、可哀そうで可愛いというか。
 以下、印象に残った一文。

「なーんだ。じゃあ、どういうときがハーモニカ気分なの?」
 母は、うふふ、と笑ってから、目を細めてあおいの顔をみつめた。
「さびしいとき」
 あおいは、どきりと胸を鳴らした。

 子どもたちの前で悲しみや怒りを見せてこなかった母が、あおいがおらずひとりぼっちの家はさみしいのだとこぼした場面。そりゃ、やることもなく家にずっといて、ひとりだったらさみしいよね。デルフトの眺望でも「さみしさ」に触れる場面が出てきたが、「家族」と「さみしくないこと」は密接に繋がっている気がする。帰国したらハーモニカをきっと直して、さみしくない音色を、あおいに聴かせてあげてほしい。


薔薇色の人生 La vie en rose

あらすじ
 都心から少しはなれた県のパスポート窓口で派遣社員として働く柏原多恵子は、パスポートを申請しに来た御手洗という男に出会う。おだやかなまなざしの御手洗に心惹かれてしまった多恵子。帰りのバス停で御手洗に再び遭遇した多恵子は、御手洗に促されハイヤーに乗り込み、駅まで送ってもらうことに。7日後、パスポートの受取に来る御手洗との再会に期待を寄せながら、多恵子はお洒落に勤しむのだった。
登場作品

 フィンセント・ファン・ゴッホ<ばら>
  @東京 上野 国立西洋美術館

 ここからの2作品は、少々乱暴な表現をすると、男に翻弄される女の話である。どちらも男の誠意がないためあまり好きな話ではないが、ラストは女性が生き生きとして終わるので、後味の悪さはない。ドラマの起きそうなタイトルとは対照的に、ハッピーでもバッドでもない終わり方が、現実味があって良いのかもしれない。
 また、この作品もタイトルと絵画作品名が異なる。La vie en roseとは、ラストに出てくるフランスのシャンソン歌手エディット・ピアフの世界的有名曲。ピアフ本人が、当時の恋人を思って歌詞を書いたという一説もあるそう。歌詞の中に、「その瞳に 思わず目を伏せてしまう その口元には かすかな微笑み それは紛れもない彼の姿 私が身も心も捧げる人 彼に抱きしめられ ささやかれたら 私の人生は薔薇色」という部分がある(和訳)。多恵子の気持ちそのものである。
 以下、印象に残った一文。

ねずみ色のデスクを挟んで、二輪のオールド・ローズが、はらりと笑ってほころびた。

 化粧っ気のないいつもの格好で日常に戻る多恵子。それでも多恵子の胸の中には、一昨日美術館で見た絵画の残像があった。味気のない、凪いだ日常。それでいいのだと思えたことが、ゴッホの〈ばら〉との出会いで得た大きなものだった。


豪奢 Luxe

あらすじ
 下倉紗季は、青山にあるタワーマンションの最上階のエレベーターホールで、階下に向かうためのエレベーターを待っていた。IT起業家、谷地哲郎の密会部屋で情事に耽った後、谷地の機嫌を損ね部屋から出てきたのであった。それからしばらく、連絡もなくぼうっと日々を過ぎさせて行く紗季。そんなある日、谷地から宅配便でミンクのコートとパリ行きの航空チケットが届く。すぐにメールで連絡を取ると、「ごめん」「よかったら一緒にパリに行こう」と谷地。紗季は泣きじゃくって喜び、パリへ向かうのだった。

登場作品

 アンリ・マティス<豪奢>
  @フランス パリ ポンピドー・センター

 この作品は、ドラマで見るようなタワマン、ハイブランド、一流ホテルなど、それこそ"豪奢"な光景がありありと浮かぶ作品である。谷地は金融資産としてアートを買い漁り女に手を挙げる最低な男であるが、アートに特別な思いを持つ紗季が、ポンピドー・センターで活力を取り戻して行く様は見ていて気持ちがいい。
 念願叶ってギャラリーへ就職し、社長にも可愛がられ、これからキャリアを積んでいこうといった恵まれた環境をきっぱり捨てられるというのは、良くも悪くも若さ故の行動力なのであろう。金を持った大人に金品を与えられ、若さを対価に努力なしに豪奢な生活を送る女性は、現代日本において少なくないのだろうと思う。「私と仕事、どっちが大事なの?」という台詞は世の男性を困らせる常套句だが、念願叶い生き生きと働ける仕事と、いつ切られるかわからない金持ちの男、どちらを大事にすべきかは明白であるのに。
 以下、印象に残った一文。

 ーーこの世でもっとも贅沢なこと。それは、豪華なものを身にまとうことではなく、それを脱ぎ捨てることだ。
 そうだ。ーーきっと、そうなのだ。


 谷地に2度も見放され、呆然とする紗季。最初の時はアートに関わる職業を探し、2度目は美術館に向かう。それ程までにアートが好きなのだ。近代美術館で紗季は、敬愛するマティスの作品に出逢い、いつまでも眺めた。与えられたもので着飾る豪奢に違和感を覚えていた紗季は、本当の意味での豪奢を知ったのだ。クロークにミンクのコートを置き去りにする様は、さながら梶井基次郎の檸檬のようで、読んでいるこちらも清々しい気持ちになった。


道 La Strada

あらすじ
 美術評論家の貴田翠は、平面表現作品の登竜門として歴史のある「新表現芸術大賞」の審査会に出席していた。審査の終盤、今回の応募作は不作と思われたころ、エントリーナンバー二十九番の作品に翠の心は奪われた。それは、どこかで見覚えのある風景だった。

登場作品
 東山魁夷 <道>
  @東京 北の丸 国立近代美術館

 この作品にも勿論美術館の常設展と実在の絵画作品が登場するが、翠の心を打つのは東山魁夷の〈道〉ではない。エントリナンバー二十九番、鈴木明人の名もなき作品だ。
 また、洋題の「La Strada」は、イタリア語で「道」という意味である。翠がイタリアに長く住んだということ以外に、何か理由があるのだろうか。同名の、道化師の悲哀をテーマにしたイタリア映画があるそうだが、それは深読みか。
 作中では触れられていない謎がいくつかある。翠たちの父親は何故いないのか。母親は何故いなくなったのか。翠を迎えに来た女は誰なのか。何故明人は翠と同じ家に引き取られなかったのか。そういったところも含めて、長編でしっかりと読んでみたい作品でもある。
 印象的な、緑色の水田の真ん中に白い1本の道が突き抜ける景色。車のリヤウィンドウから見る、白い道に黒い点となってやがて消える兄の姿。そして、近代美術館の帰りに乗り込んだタクシーから見る、黒い道に白いシャツが白い点となり、やがて消える鈴木の姿。それらとは対照的に、最後のシーンでは、白い道には、西川教諭と彩の二人が、笑顔で手を振っている。翠は、リヤウィンドウではなくバックミラーでそれを見る。最後の道は、過去を思い出す道ではなく、これからを進んでいく道として描かれている。
 以下、印象に残った一文。

 そして、ほんとうの感動は作品を観終わったあとについてくる。たとえばその作品を観たのが美術館なら、そこを出て、食事をして、電車に乗り、帰宅し、眠る直前まで、観た人の一日を豊かにし続ける。それが名作というものだ。

 映画や小説もそうだが、観終わったあと、衝撃でしばらく痺れたり、落ち込んだり、とにかくショックを受ける作品が、記憶に残り続ける。鈴木明人の作品は、翠ただひとりに向けて描かれたために翠に深く突き刺さったが、ただひとりに感動を与えた時点で、それはその人にとっての名作なのである。

終わりに

 上白石萌音の解説も含め、本棚に置いておきたい名作。現在東京都美術館でマティス展が会期中なので、是非行ってみようと思う。勿論、常設展も。
 小説を久々に読んだが、小説の良さは、読む人それぞれの想像力を掻き立て、頭に浮かべる情景に無限の可能性があることだと思う。映画やアニメ、漫画作品は、その可能性を狭め、一つに限定する表現とも取れる。
 小説×アートという、現在の興味のドストライクにある領域の作家、原田マハ。この夏、原田マハ作品を読み漁る決意が固まった。

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