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MMTにおける「税が貨幣を動かす」ビューの論理(レイ本の第7章)I

 突発的に、レイ『現代貨幣を理解する:完全雇用と物価安定への鍵』(Understanding Modern Money: The Key to Full Employment and Price Stability)2006年版における、第七章「税が貨幣を動かす」ビューの論理(The Logic of Taxes-Drive-Money View )の個所の私訳版、その前半部分です。

(追記:続きはマガジンにまとめています。どうぞよろしく!)

第七章冒頭部分

 そこまでの六章までにおいて、政府財政のメカニズムや貨幣の歴史、銀行の部分預金制度などについては論じられていたという前提の上での議論ですが、それらを読んでいなくてもほぼ理解可能と思います。

 (ただ第三章の、イネスが論ずる中世タリーの話は頭に入れておいてよいかもしれない。)



第七章「税が貨幣を動かす」ビューの論理

 本章では、これまで本書で述べてきた主張の論理的な基礎を示すために、シンプルな仮説的「モデル」を構築する。これを「モデル」と呼ぶのは大げさかもしれないし、怖れをなす読者もいるかもしれない。高度な数学は使わない!「モデル」とは次のような意味である。つまり、われらが関心のある経済の特徴にのみ焦点を当てるという、高度に様式的なアプローチを用いるという意味だ。最初は政府も貨幣も市場もない自給自足の人々がいる最もシンプルな経済から始める。次に一番シンプルな方法で政府、貨幣、税を導入する。さらに現代経済の主な特徴、すなわち中央銀行、必要外貨準備、政府の財政および金融の運営、そしてほとんどの取引が行われる民間銀行システムを得るまで、徐々に議論を構築してゆく。最終的には、労働緩衝ストックの創出を通じて完全雇用を創り出し、物価の安定を高めるという政策提案で終わる。 本章は、原始時代から現在に至るまでの進化の「歴史」を紹介することを意図しているわけではないが、この展開は、実際の歴史的証拠と一般的に一致しているように思われる。

単純な経済(THE SIMPLE ECONOMY)

 市場も貨幣も使われておらず、家計が自給自足しているごく単純な経済を想定する。政府が発足し、国民のために必要なプロジェクトをいくつか実施することになった。(注1:もちろんプロジェクトが国民の利益につながるものとは限らない。外国との戦争のために軍を増強するためかもしれない。)そのためには、政府は労働サービスや原材料を国民から調達する必要があるため、国民一人当たり週1ドルの税を課す。もちろん政府は、国民が税を支払うためのドルを持っていないことを認識している。したがって、ドルを得るために何をすべきかを定義すると同時に、ドルが利用できるようにしなければならない。政府は不換紙幣(ドル)を印刷し、国民から商品やサービスを購入するために使用する。国民は税金を支払うために政府から提供される資金を必要とするが、政府は支出するために税収を必要としない。したがって、政府の購買は税収に制約されない。政府は、財やサービスの供給を引き出すためだけに税を使うのである。

 仮に最初の1年間、政府は「均衡財政」を計画し、100人の国民それぞれに毎週1ドルの税金を課し、各週に100ドルを支出し、1年間の総計(そして均衡した)予算が5200ドルであったとしよう。しかし間もなく、政府は毎週の税収が支出を下回ることに気づき始める。調査してみると、個人納税額を上回る政府支出を受けた個人の一部が、余分なドルをため込んでいることがわかった。また、ドルの一部は単に所在不明であり、洗濯されてなくなったり、ペットに食べられたり、その他の不幸な最期を迎えていることもわかった。こうして政府は赤字を抱え、国民の一部は税金を納めることができないとわかった。政府は税収を「必要としない」ことを認識しているので、解決策は支出を増やすか減税するか、つまり政府の赤字を「普通」として受け入れることになる。

 総計レベルでは、政府が税という形で徴収できる最大額は、財やサービスの購入額とまさに等しい。 言い換えれば、政府ができる「最善」の計画は、均衡財政を運営することである。政府がドルを支出する際に創出した所得以上のものを徴収することは不可能なので、黒字が維持される望みはない。実際、税収が支出を下回る可能性の方がはるかに高い。政府の赤字は、(蓄財や意図しない損失への)すべてのドルの「漏れ」をカバーするためにゼロより大きくなり、赤字が続くことが標準となる。このようなことを理解すれば、政府の赤字は恐ろしいものとはみなされなくなる。政府が望むプロジェクトを提供するために必要な財やサービスを入手できる限り、赤字を心配する必要はない。実際、赤字は(第4章で定義したように)「名目上の純貯蓄」を貨幣の形でしたいという国民の欲求を示す尺度だと単に見なすこともできる。

 実際、政府は、国民が政府に財やサービスを供給しているのは、納税義務を果たすためのドルを得るためだけだということを認識する以外には、徴税への関心をまったく持たない。もし政府が広く脱税を許せば、財政支出能力が低下してしまう。それは財政制約のためではなく、脱税できる人々も政府の金を欲しがる必要性が低くなるためだ。それだから、ドルの提供が財やサービスの提供によって確実に満たされるようにするには、納税義務を熱心に執行する必要がある。(注2:ドルの「価値」の決定に関する議論については後述する。)

慎重な財政(FISCAL PRUDENCE)

 このモデルの経済でも、時間が経つにつれ国民の中に、政府の支出以外にドルの供給源がなく、税の目的は政府に流れる財やサービスの供給を生み出すことだということを「忘れて」しまう人が出てくるかもしれない。逆に、税金の目的は支出にかかる費用を回収することだと誤って考えるようになる。つまり、税金が政府の支出を「賄って」いると考えるようになるのだ。このような人々は、赤字に恐怖を覚える!赤字はとうぜん、財政の軽率さの表れであり、破滅への道である。質素倹約の家計は、収入が支出を上回るようにする。純貯蓄としてドルを蓄える。(注3:今のわれらのシンプルなモデルでは説明では、家計の収入は政府への販売のみからなり、家計の支出は税の支払いだけで構成される。 民間市場で不換紙幣を使用する拡張モデルにおいても、家計による消費財の購入は単に家計部門内で不換紙幣が再分配されるだけである。)とうぜん家計は赤字を出し続けることはできない。彼らは政府にいる人々に「自由な浪費家」のレッテルを貼り、「財政責任」キャンペーンを展開し、それが成功して政府を乗っ取ることができたとしよう。

 財政に責任を持つ一方で、根本的に間違っている新政府の高官たちは、歳出削減と増税を要求し、計画されたプロジェクトを縮小する。本当に彼らは政府債務(国民がため込んだり失ったりした不換紙幣)をすべて償還するためには、発生した赤字に見合うだけの黒字を一定期間出した方がいいと考えている。さらにもう一歩踏み込んだことを想像してみよう。人口が高齢化していることに注目し、「ベビーブーム」が引退したときに使われる(たとえば老人ホーム建設のために)かもしれないドルを蓄えるために、国の債務残高を償還するのに必要な以上の黒字を、おそらく今後20年か30年間は出すのが最善かもしれないと提案するのだ。堅実な家計が名目純貯蓄を蓄積するように、堅実な財政政策は社会保障余剰の蓄積を必要とするとの主張がなされる。必要と思われる黒字を達成するために、歳出が削減され、税負担が引き上げられる。

 驚いたことに、歳出削減を行っても予算は改善されず、徴税額は常に予想を下回り、その結果、納税義務に見合うだけの税収が得られず、脱税を余儀なくされる人が増え続ける。政府は個人資産を没収し、税金滞納のために売却しようとするが、買い手は見つからない。こうして政府は、脱税のために国民の大部分を投獄することになる。国民は緊縮財政に反応し、ドルの入手がますます困難になるという(合理的な)信念のもとに、より多くのドルをため込もうとすることによって投獄されないようにする。しかし、財政健全化のためには、税金不足に見合うだけの歳出削減が必要であるため、政府は提供された商品やサービスを購入する余裕はない。政府は、政府に物品やサービスを提供し、必死にドルを手に入れようとする人々の長蛇の列を見つけている。しかし、政府には彼らが提供する商品やサービスを購入する「余裕」がない。なぜなら、財政上の健全性のためには税金不足に見合った支出削減が必要だから。

 さらに、政府は将来の定年退職者のためにドルを蓄えることができず、ベビーブーム世代が引退したときにどうすればいいのか多くの難問に頭を悩ませる。人々は個人の退職金(この例では退職後の納税資金)のために蓄えようとするが、蓄えるドルを得るために商品やサービスを政府に売ることはできない。税金は払えず、政府は支出を削減し続け、ついには政府の支出と税収はどうしようもなくゼロになるまで赤字は解消できない。われらの小さな経済は、まさに暗い未来に直面している。これに聞き覚えがないならどうかしている。「財政責任党」(あるいは、そのようなもの)は現在の近代国家のすべてを支配しているのだから。

 われらが国の「自由な支出」の政府高官が正しく理解していたように、赤字は期待される規範であるべきなのだ。確かに、政府が「1年目」に赤字を出していれば、次の「2年目」(注4:第三章で示した通りこれは19世紀の出来事に当たる)(訳者注:この注4は第三章におけるアメリカ金融史の記述を指す)、家計は政府から買い物をするよりも多くのドルを支払うことができる。しかし、数年にわたり財政収支が均衡することが政府にとって「ベスト」であり、赤字が続くことの方が可能性が高いことは明らかである。ドルが失われたり溜め込まれたりする以上は、政府は平均的に赤字を計上し続けなければならない。

 われらの「自由な支出」の役人が赤字を常態として受け入れて政権に復帰したと仮定してみよう。毎年政府はドル一部が貯め込まれ、また一部のドルが失われることを許容し、税 (たとえば 5,200 ドル) よりも少し多く支出する (たとえば、5,500 ドル)。 納税額は政府の支出を「賄う」ために設定されているわけではない。とは言えそれでも税と支出の間には侵すべからざる関係が残っている。税の目的は、政府がドルで購入できる財やサービスの供給を引き出すことであった。納税義務があるとして、政府が支出を「増やしすぎる」(例えば6000ドルにする)と、ある時点以降、国民はドルと引き換えに財やサービスを供給することを拒否するようになるかもしれない。つまり、税を払ってドルを失っても、必要なだけドルを蓄えたならば、国民はそれ以上ドルを受け取ることを拒否するようになるだろう。

 われらのこのシンプルなモデルにおいて、政府が「飽和」点を測るのは簡単だ。なぜなら、政府が商品やサービスと引き換えにドルを提供しようとしても、買い手がいなくなるからだ。だから、政府が単に納税義務を課したときに、支出可能なのは、国民が供給されるドルの数に満足するところまでである。政府はその時点に達する前に、ドルを得るために財やサービスを提供しようとする人々の行列を見つけるだろう。飽和点を超えると、政府は待ち行列を見つけることができなくなる。 このように、もし財政赤字支出が適切な水準にあるとすれば、国民には税金を支払った後(そしておそらく洗濯中にいくらかドルを失うが)の、正味の名目貯蓄としてちょうどいい量のドルをため込んだ額が残っているということになる。

物価と通貨価値(PRICES AND THE VALUE OF THE CURRENCY)

 この例では、国民が生産した財やサービスと引き換えに政府の不換紙幣(ドル)を受け入れると仮定していた。国民が財やサービスを政府に引き渡す価格(ドル)は何によって決まるのだろうか?いったん政府の支出決定が、政府が課す納税義務を果たすために利用可能な不換紙幣の量を決定することが認識されれば、政府は民間部門から購入する財やサービスの価格を外生的に設定することができる。これによって通貨の価値が決まる。政府は、一定量の財やサービスに対してより多くの対価を支払うことで、通貨の価値を切り下げる、つまりインフレを引き起こすか、あるいは低価格を提供することで通貨の価値を設定し直す選択をすることができる。

 とてもシンプルな例を出そう。上記の議論と同じように、政府が国民に税金を課し、国民から労働サービスを購入するために不換紙幣(納税義務の償還に使用できる)を提供すると仮定する。政府が100ドルを支払い、そのうち約20ドルが「流出」すると予測した場合(前述した溜め込みという形で)には、税金を80ドルに設定すれば、100ドルに対する需要を確保することができる。もし政府が支出を一定に保とうとしながら税金を引き下げた場合(例えば40ドルに)、平均的な家庭が政府に供給する労働力が大幅に減るので、100ドルを使うことができなくなるのはほぼ確実である。しかし、政府が支出できないのは、税収によって支出を「賄う」ことができないからではなく、むしろ税負担が軽くなることで、納税手段を得るために費やされる「努力」の総量が減るからである。

 その段階で、政府が購入する労働の単位当たりにより多く支払うと提示したとしても(例えば、労働サービス1時間当たり2ドルを支払うことを提案しても)何の役にも立たないことに注意せよ。こうして、税負担を軽減されると、価格が一定でも、価格が上昇しても、政府の購入量が減ることに気づくだろう。驚くべきことに、その解決策は、政府に提供される労働の量を増やすために価格を下げることなのだ。政府が納税義務を(例えば40ドルに)引き下げれば、ほぼ間違いなく、提示価格を下げることにより供給するドルの数を減らさなければならない(あるいはドルを得るために必要な「労働努力」を増やさなければならない)。類推するに、税金を一定(80ドル)にしたまま、政府が支出を2倍(200ドル)にしようとすると、ある時点以降、国民が政府の労働購入の申し出を拒否することになるかもしれない。(注5:ここでわれらは、望ましい純名目貯蓄が、例えば 120 ドルまで拡大しないと仮定している)。労働力に対して 1 時間あたり 2 ドルを支払うならば、50 時間程度の労働力が購入された後は、国民は労働しなくなる可能性がある。

 一般に、税額を一定に保ち、欲求される名目純貯蓄を一定に保った場合、政府が支払う価格を引き下げると、通貨価値は上昇する。一方、支払う価格を引き上げれば、通貨の価値は下がる。同じ名目支出額であれば、得られる実質労働サービス(または財)は少なくなる。

 多少は賢明なわれらの「自由な支出」政府は、税を課したうえで、1ドルを得るのにどれだけの努力が必要か(例えば、1ドルと引き換えに1時間働くとか、平均1時間の労働が必要な製品を1ドルで買うとか)を公表するだろう。そうすれば、赤字の大きさを気にすることなく、この価格で提供されるすべての商品やサービスを購入する準備が整う。通常、赤字になることが予想されるが、それは国民が望む「純貯蓄」(またはドルの蓄え)の量によって厳密に決定される。もしこれが、政府が必要とする財やサービスの量をもたらさないなら(つまり、政府が望む量の財やサービスを購入する前に、国民が納税義務を果たし、望む量の純貯蓄を蓄えたなら)、政府は支払う意思のある価格を引き下げるだろう。供給が足りないときに値上げ、つまりドルの切り下げで対応するのはとても愚かなことだ。政府は(購入価格を下げるのではなく)購入量を制限することで、総支出を抑制することができるが、国民が政府に財やサービスを供給するために多くの労力を費やしていると感じない限り(例えば、国民が睡眠、家族の消費、レクリエーションなど他のことに十分な時間を割けない場合)、それはほとんど意味をなさないだろう。

政府債券(GOVERNMENT BONDS)

 これまでのところのわれらのモデルでは、ドルを買いだめしている家計はその買いだめに対しての利子を得ていない。利子を導入する方法は少なくとも三通りある。第一に、一時的にドルが不足している家計に対し、納税義務を果たすためにドルを政府が利子付きで貸し出す場合。(注6:実際、既存の歴史的記録によれば、利子付き融資の最も初期の源は税のための負債であったようだ。)第二に、ドルが余っている家計が、納税のために不足している家計にドルを貸し出し、利子を取る場合。第三に、政府が貯蓄に利子をつけて貯蓄を奨励する場合。当然ながらこの三つの可能性はすべて簡単に導入できる。市場の「裁定取引」により、これら三種類の金融取引の金利は、信用リスクの変動を調整した上で、それぞれ同程度になるはずだ。

 そこで、政府が名目純貯蓄(ドル貯蓄)を持つ家計に、ある金利を支払う「債券」を売り始めたとしよう。この場合、ドルマネーの一部が政府に「還流」し、政府の赤字の一部がドルではなく家計の債券保有という形で蓄積される形に変わる。政府がまず支出し、その後に利子のつく国債を供給するのだからこれは明らかだ。そして政府が債権を売却できる額は、赤字額から人々の紛失分と無利子で保蔵しておきたい分を差し引いた額に等しい。家計は、所得のうち納税義務を上回る部分をドルか債券のどちらかで保有することができる。合理的な家計は、この超過所得のほとんどを利子のつく債券の形で蓄積することを選ぶだろう。かくして財政赤字額が二倍になれば、政府は国債の販売額を約二倍に増やすことができる。

 政府が提示する金利が高ければ高いほど、家計のドル離れを誘導して(他の条件がすべて同じなら)多くの債券を売ることができるだろう。(注7:これは法定通貨の貯蓄に対する需要の金利弾力性、または流動性選好の度合いによって決まる。 おそらくかなり小さいだろう)。反対に、低金利であれば、家計はより多くのドルを保有し、国債の保有を減らすだろう。政府は財政赤字を補うために高い金利を支払う必要はなく、むしろどのような金利を提供するかを外生的に選択するのであることに注意。家計はドルのゼロ金利よりもプラスの金利を好むだろうが、金利が高ければ家計はより多くのドルを債券に換えるだろう。いずれにせよ、国債の売却は財政赤字を賄うために必要なのではなく、政府が利子を生む資産を国民に提供し、国民により多くのドル収入をもたらすための手段なのである。市場が政府に支払うべき金利を指示することはできない。市場はプラスの金利が得られれば喜ぶが、市場が金利を望まないにしても、政府が国債を売る必要はないのだから問題はない。(注8:われらはここまで民間市場を導入していないが、民間の資産市場と市場金利を導入した後でもこの帰結は維持される。 政府は国債の購入に必要なモノ【法定通貨】の独占供給者として、また国債の独占供給者として、金利を好きなポジションに設定できる。)

 明らかに、政府は利払いに困ることはない。民間に持たれている債務の利払いのためにドルを発行することができるのだから。これら約束された利払いは、もし政府の他の支出や課税活動に何の調整が加えられないとすれば、政府の将来の赤字を増大させることになる。家計の利子収入は、政府への財・サービスの販売から生じる家計所得に追加されるため、政府は通貨価値の下落を避けるために、将来、税負担を増やす(または利子以外の支出を減らす)必要があるかもしれない(利子収入は、納税のためのドル源として、政府への財・サービスの提供にとって代わるものであるため)。

 しかし、税負担の増加(または予算の削減)は、利払いのための資金調達の「必要性」とは無関係である。利子による所得の増加によってによって生じる通貨の切り下げ(利子収入は、家計が納税のために所得を得るための労働努力を減らすので)を防ぐために増税が必要になるかもしれない。

民間市場(PRIVATE MARKETS)

 ここまでわれらは、私的市場向けの私的な生産を認識していなかったので、現実の経済とはほとんど関連性のない、ごくシンプルな経済を検証してきたことになる。ここで続けて、一部の家計が市場向けの生産を始めるとしてみよう。余剰ドル(つまり、納税に必要な金額より多い)を持つ家計は、近隣の人々から商品やサービスを購入するかもしれない。よくある多くの単純な説明の問題点は、なぜ一部の家計が突然、お金を得るために市場向けの生産を行うことになったのかを説明するのが非常に難しいことである。そのようなストーリーはたいてい、物々交換に伴う非効率性を減らすために、物理的な商品を交換媒体として使うという、ある種の自然発生的な社会的コンセンサスに依存している。(注9:先の第三章で見たように、これは貨幣の使用の起源としては妥当でないようだ。 歴史は、貨幣の使用が確かに税金の賦課に由来していることを示しているようである)。対してわれらの議論は、なぜ生産された財やサービスが、本来は価値を持たないものと交換されるのかを明らかにしている。この経済でドルが求められるのは、それが納税手段だからなのだ。たとえ納税義務がない人々がいたとしても(おそらく王の寵愛を受けていたため、納税が免除されていたのだろう)、社会の他の人々が納税義務を負っている限りは、その「他の人々」がドルを得るために財やサービスを提供するので、ドルは「外生的(extrinsic)」しかし「現実的(real)」な価値を持つことになる。

 ひとたび家計が納税のため政府の不換紙幣に対する需要を持つようになれば、不換紙幣が交換手段、支払手段、勘定単位として家計に役立つであろうことは容易に理解できる。ある年のある家計の所得が納税に不足することもあれば、別の家計の所得が納税義務を超過することもある。たとえ税収の全体が、政府が必要とする財やサービスの量を確保するのに適切なレベルであったとしても、各個人の不換紙幣の収入が納税義務に十分になっている保証はない。そのため、収入不足の家計には、納税に必要な不換紙幣を稼ごうと民間市場活動を行うインセンティブが働く。超過の家計は、不足の家計が生産した生産物に対する需要を提供することができる。このようにして、不換紙幣は家計間で再分配され、納税義務が果たされうるようになる。ただし、交換媒体としての法定通貨の使用は、納税義務を満たすための使用に由来することに注意せよ。家計が民間市場で不換紙幣を使うのは、それが納税の決済手段だからである。

銀行の発達(DEVELOPMENT OF BANKING)

 上記および第3章で仄めかしていたことだが、最初の融資は、納税不足の家計に納税手段を提供するための公的融資であったと見られているが、納税負債が民間の貸出を生んでいた可能性もある。収入不足の家計は、収入超過家計が保有する不換紙幣の同単位建ての負債を発行し、その見返りに所得不足家計が納税に充てるドルを融資してもらうことが可能だ。(注10:イネスの議論は、銀行は国家とその臣民の間の仲介者として誕生したというものだった。第三章を見よ )。 この融資の金利は、借り手の債務不履行の可能性を貸し手側に補償し、また貸し手のドルを手放す「不安」を補償するために、国債金利にいくらか上乗せされたものになる(なぜなら、純貯蓄は、将来の納税義務の支払いを困難にする可能性をはらむ不利な結果に対しての保護であるから)。翌年には、法定通貨を支払い手段として使用することで、この法定通貨建ての負債(元本と利息)を返済することができる。 超過家計が不換紙幣または不換紙幣債権を保有するのは、彼らも政府に対する納税義務を負っているからである。

 ドルを大量に蓄えている家計は、貸出に特化し、資金不足の家計と資金余剰の家計の双方を引き合わせるかもしれない。ドルの預金を受け入れ、ドルの貸出を行い、満期を一致させながら、プラスの金利スプレッド(貸出金利から預金金利を差し引いたもの)を維持して収入を得る。最初のうちは預金がリスクにさらされるかもしれないが(借り手がデフォルトした場合、預金者は預金を失う)、最終的には「銀行家」が多少高い金利スプレッドでデフォルトリスクを負担することを提示できるようになるだろう。次の段階として、銀行家は要求払い預金を提供し、預金者がいつでもドルを引き出せるようにする。銀行家は、満期の不一致を補うために高い金利スプレッドを維持するため、要求払い預金の利息を少なくする。この時点で、銀行家は予想される引き出しに対応するため、ドルを準備しておかなければならなくなる。満期が不一致になるので、預金すべてを貸し出すことはできない。部分準備制度(fractional reserve system)の誕生だ。


(以上で分量として約1/2。ここから銀行の発達の項がもう少し続きます。少々高度になっていくので、翻訳もいったんここで切りましょう。ここまでの議論の理解はすべての基礎になるので。)


 以下は蛇足です。

前段の翻訳を終えて

 今回のこのゲリラ的翻訳の動機は、すぐ上の Develop of Banking 節の最初の行において、レイが「最初の貸付は、税金を払うお金が足りなくなった家計への公的貸付public loanだと」書いているとの発言をSNSで見たことでした。

 しかしここでレイはそうは書いていはおらず、むしろ逆の可能性を採用した記述で議論を構築してゆく。

 しかしワタクシ今回これを再読することでさまざまな示唆を得たので自分にはよいことでありました。感謝。

おまけ 「楊枝嗣朗のMMT批判」批判

 実はその楊枝のレイ批判の部分の元になった論文は、ここから読むことができる。

『銀行貨幣と国家貨幣 : MMT の貨幣・信用論への疑問』(2021-02-12)

 まず、ワタクシのこの翻訳とのちょっとした違いを為すところですが、原文とワタクシの訳文をもう一度。

As alluded to above and in Chapter 3, the first loans seem to have been public loans to provide deficient households with the means to pay taxes. It is also possible that the tax liabilities can generate private lending. The deficient household could issue a liability denominated in the fiat-moneyof-account to be held by the household with excessive income in return for a loan of dollars used to meet the tax liability of the deficient household.
上記および第3章で仄めかしていたことだが、最初の融資は、納税不足の家計に納税手段を提供するための公的融資であったと見られているが、納税負債が民間の貸出を生んでいた可能性もある。所得不足家計は、所得超過家計が保有する不換紙幣の同単位建ての負債を発行し、その見返りに所得不足家計が納税に充てるドルを融資してもらうことが可能だ。

 楊枝はここを、次のように読む。太字はワタクシ。

「最初の貸付は,税支払手段の不足する家計への公的貸付であったと思われる。そしてまた,税債務は民間貸付を生み出したであろう。」「税の支払手段に不足する家計は政府の fiat-money 建ての債務証書を発行し,それは税支払手段を余分にもつ家計によって保有され,余分の所得を生む。」

 これはワタクシが「民間貸出を生んでいた」と訳した generate private lending を勘違いして「余分の所得を生む」と読んでしまったと思われます。
 いや、今回の最後の節の部分の記載をまとめて「余分の所得を生む」と言っているんだよという解釈は成り立つかもだけれども、それはあまりにも雑でしょう。

 さらに楊枝は、レイの今回の同じ個所を引用してこう書く。
 こちらが問題。

なぜ,公的貸付から始まった税支払手段の貸付業が,民間にその貸付業務を譲るのか。

 えーっと。
 
 これって少なくとも二重の誤読があって、そもそも貸付業が公的貸付から始まったとはレイは主張してはおらず、それどころか、むしろそうとは限らないという話をしているのである。上の勘違いが尾を引いている。

 マルクス的に考えても、余った G を持った人が ΔG を求めてその G を手放すというのはまったく「不自然」ではないし。

 そして。。。
 
 こうしてみると、楊枝と石塚の誤読はまったく同じ形をしている。

 これって何らかの、両人に共通の先入観が読解の邪魔をしているように思われるわけですが、こうした誤読にはえてして無意識の主流イデオロギーが潜んでいる…

 ワタクシにはそう予感されるのです。

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