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第42回 だってみんな聖なる神々を信じている?

資本論-ヘーゲル-MMTを三位一体で語る」の、第42回。


 実はちょっと驚いたのですが、前回のこの記事を読んでいただくまで「MMTは現代の経済を形而上学的に語っていやしないか?」と感じていたとおっしゃる方がいらしたのです。その疑問は氷解しているようだとはいえ。

  うー、umgekehrt.

 なぜ驚いたかと言えば、逆だからです。
(umgekehrt はマルクスとか弁証法ではたくさん出てくる「逆である」を意味するドイツ語)。

 説明方法を考えなくては。。。
 今回は火野さん、ありがとうございました。

 実のところMMTは、現代の主流のビューを「形而上学的」とみなしているし、ということはMMTは神のいない人間の科学です。

 そこで今回は、がんばってそういう話をしようと思います。
 だから大ネタ!


 実はマルクスも、というかマルクスこそが最初にそれ、経済学の根本的批判を先んじて成し遂げています。

現代の形而上学とは

 つまり、資本─利子、土地─地代、労働─賃金という形而上学的としか言いようがない三位一体形式がいかにして成立し、それが形象化(Gestaltung)してそびえたつようになったかを暴露している。

 その形象化した姿をワタクシは「付加価値の分配ビュー」と言っています。

 残念ながら、われわれはいまだにその諸形象に従属している。
 年金の専門家が付加価値で世界を見ているのだから。

 しかしMMTは、その形象化の一角をまったく新しい角度から明瞭に暴きだしたと感じられます。

 そしてこのことは資本論の議論よりもだいぶシンプル。
 だからマルクスにしか関心のない人にも読んで欲しいな。

 ワタクシ自身も、MMTが先でした。

 ということは、今回のエントリの議論をフォローできることが資本論の理解の条件になるとワタクシは思います。

 現代の形而上学は、二人の神がいます。
 そしてその学は「財政施策の形而上学」と「金融政策の形而上学」の二本立てになっています。

 順に分析してみましょう。

財政政策の形而上学的神話

 まず、財政政策の形而上学を図式化するとこうです。

図1:財政政策の形而上学

 Gは財政支出、Tは徴税です。

  Giroについてはこちらで説明したので、よろしければどうぞ。
 要は、銀行間で準備預金を融通し合うシステムのこと。

 形而上学的神話はこう。

  • 政府は政府預金から支出(G)を行い、それによって国民から財とサービスを買う

  • 政府はそのために税を集め、国債を発行する

  • 政府は発行した国債に対し、市場で決まる金利を支払う 

従って

  • [税収](T) と [追加の国債発行で入手される額](ΔB)を合計したものが[財政支出](G)を賄う。

  • 従って、G=T+ΔB になることが政府運営の必要条件となる。

  • 財政赤字は金利に制約される。
    財政赤字が多すぎるとインフレになるか金利が上昇するので国債発行が制約される。

 まだまだ教義はありますがキリがないので以上、主要な骨子だけにしておきます。

金融政策の形而上学的神話

 次に、金融政策の形而上学は図式化するとこうです。

図2:財政政策の形而上学

 こちらの形而上学の神話は、こう。

  • 中央銀行は通貨の番人として景気に合わせて市場の金利を誘導する。

  • 金利誘導の方法は、国債の公開市場操作による調節と、中央銀行融資(窓口割引)の金利設定を組み合わせる。

  • 民間部門の銀行の貸出しは中央銀行の誘導金利に従う。

  • 金利を適切な水準に維持しないと大失業や不況に見舞われる。

  • 逆に、金利を適切にコントロールすることによって低失業や好況や経済成長につなげることができる。

 こちらもこのくらいにしておきましょう。
 
 もう一つありました。

独立した金融政策が必要!の神話

 日本銀行のサイトに行ってみましょう。

 「教えて!にちぎん」で示されるところの、これこそが三つ目の形而上学的神話。

金融政策の独立性

各国の歴史をみると、中央銀行には緩和的な金融政策運営を求める圧力がかかりやすいことが示されています。物価の安定が確保されなければ、経済全体が機能不全に陥ることにも繋がりかねません。

こうした事態を避けるためには、金融政策運営を、政府から独立した中央銀行の中立的・専門的な判断に任せるのが適当であるとの考え方が、グローバルにみても支配的になっています。

日本銀行法において、金融政策の独立性確保が図られているのは、こうした考えによるものです。

同時に、日本銀行法では、金融政策が「政府の経済政策の基本方針と整合的なものとなるよう、常に政府と連絡を密にし、十分な意思疎通を図らなければならない」(第4条)とされています。そのための制度的な枠組みとしては、金融政策に関する事項を決定する「金融政策決定会合」に政府の代表者が必要に応じて出席し、意見を述べること、議案を提出すること、議決の次回会合までの延期を求めることができることが定められています(日本銀行法第19条第1項、第2項)。

業務運営の自主性

日本銀行の金融政策は、オペレーション(公開市場操作)等の日本銀行の日々の業務を通じて遂行されます。この意味で、金融政策と日々の業務は密接不可分の関係にあります。したがって、金融政策の独立性確保のためには、業務運営についても自主性が与えられていることが極めて重要な点です。日本銀行法で業務運営の自主性への配慮について明定されているのは、こうした考え方によるものです。

具体的な仕組みとしても、1998年(平成10年)の日本銀行法改正により、旧日本銀行法にあった政府の広範な監督権限が大幅に見直され、合法性のチェック(日本銀行の行動が法令等に反するものでないかどうかのチェック)に限定されました。また、日本銀行が、業務・組織運営を行ううえで必要な経費の予算については認可制がとられていますが、認可対象の限定、認可プロセスの透明性の確保が図られており、業務・組織運営の自主性への配慮がなされています。 各国の歴史をみると、中央銀行には緩和的な金融政策運営を求める圧力がかかりやすいことが示されています。物価の安定が確保されなければ、経済全体が機能不全に陥ることにも繋がりかねません。
 こうした事態を避けるためには、金融政策運営を、政府から独立した中央銀行の中立的・専門的な判断に任せるのが適当であるとの考え方が、グローバルにみても支配的になっています。

https://www.boj.or.jp/about/education/oshiete/outline/a03.htm

 以上の三つが現代の宗教的神話です。

 え?これが?

 そう、むしろこれこそが。

 その一方、これをたんに非科学的と断じることはできない。
 マルクスはこう言った。

Die Religion ist der Seufzer der bedrangten Kreatur, das Gemuth einer herzlosen Welt, wie sie der Geist geistloser Zustande ist. Sie ist das Opium des Volks.
宗教は抑圧されし生き物のため息であり、心無き世界での心であり、魂無き状況での魂である。(つまり)宗教は大衆のアヘンである。

マルクス『ヘーゲル法哲学批判』

 そう、これは現代の人々のアヘン。
 
 物心つく頃には、賢い子に対して、たとえば「にちぎんくん」がその基礎を教える。

 さらに成長するにつれセンター試験や公務員試験、経済学の教科書が、いっそう高級な教義を叩き込むように教育の全体が編成される。

 よく見てください。

 これを潜り抜けて経済学者にまでなっていたなら、通じるはずの常識が通じる人が一人もいなくなっているはずです。

モズラーの気づき(イタリアの啓示)、もう一度

 神話が崩れる最初のきっかけは、いつでも、ささいな違和感です。

 たとえば「大地は平面である」という神話はどうだったでしょうか。

 それが崩れ始めたのは、船の出航の様子だったり、月食のときに月に映る地球の影の観察によってだった。

 モズラーにやってきた「イタリアの啓示(こちらで説明)」もそのようなものです。

 注意深い人がこの二つの図を両方並べてよく見たときに、初めておかしなことがあらわれる。

図3:モズラーにやってきた啓示

 この気づきこそがMMTの始まりです。

 国債を買うとき、民間人の視点だと、国債口座の数字が増える。ここまでは当然。
 そして、準備預金口座の数字が減る。

 国債を、政府から買ったつもりでも、中央銀行から買ったつもりでも起こることは準備預金口座の数字が減るということだけ。

 まったく同じひとつのことに、二つの異なる説明がついている。
 ある時は「政府支出の財源」であり、ある時は「金融調節」だといわれる。

 どういうことだろうか?

 神話の設定をそのまま受け入れていいのだろうかということになる。

 大地は平面であるという形而上学を捨てて、「ここは数ある星の一つではないか?」と考えてもいいことになる。

 ワタクシ思うに、これは分子科学において一つ一つの電子を区別しなくなっていることと似ています。最近の科学では「電子Aはあの分子の電子、電子Bはこの分子の電子」と決めることはできず、それぞれの原子の周辺に確率的に存在するやつ、としか言えません。

 それどころか今や月でさえ「存在する」とは言えない。

 ノーベル賞の大詩人タゴールの「人が見ていない時、月は存在しない」という話は、最新の量子力学と整合的です。しかも理論は、なぜこれまで月が存在するように見えていたか、ということさえ説明します。

 とまあ、ふつうの科学は常識的なので上記のような説明上の矛盾は放置せず、理論で解決していくものです。

 そして重要なことに、科学的思考は神話を捨てると同時に、現実の観察事実を維持しなければなりません。それこそが科学でしょう。量子力学が古典力学を説明するように。

 先ほどの、同じ現象の二つの「説明」は何だったのか。

 答えは次の通りです。

 無信仰の人がどこからどう見てもそれは単なる準備金の除去(ドレイン)。数字を小さくする操作に過ぎない。

 ところが!
 なんとそれは  a glorified reserve drain!、聖なるドレインだったのです。

 つまり彼ら信仰者たちにとっては重要な、それこそ社会を守る必要に基づいて、決められたとおりに行わなければならない宗教的な儀式だったのです。

 MMTによって科学的に組み上げられたこの世界の描像は、たとえば下のようなものになります。

図4:神のいない現実の科学的描像

 伝わるでしょうか?

形而上学的神話 vs 科学 

 これはまさに形而上学神話 VS 科学の図式だと思うんですよ。

 わかりやすく、もう一度。

図5:暴かれた「神話の始まり」

 先ほど書いたように、新しい科学的な描像は、古い神話がいかにして生まれたていたかをも説明しなければなりません。

 やってみましょう。

 まず、G -T= ΔM + ΔB という恒等関係は、為政者の家計簿的精神に、Gのためには税収と国債が必要だという錯覚を与える。

 放っておいてもM(利子のつかない通貨)は利子のつくBにシフトするのだから、G -T= ΔB 、移項して、G = T + ΔB はいつもほぼ等しく現れる。

 おお、税と国債が財政支出に先立って必要だ!、となる。
(歴史的には金本位制離脱までは錯覚とまで言い切れず、金本位制離脱によって錯覚が完成した感じ)

 かくして、財政の神を信仰するわれわれは、その神のために「政府預金」をこしらえて、その灯が決してがなくならないよう、G-T+ΔB の計算結果だけは絶対にゼロ以上になるようにするためのオペレーションをせっせとやってきたのだなということがわかる。

 それは供物を絶やさないための儀式だった。

図6:財政の神が信仰される社会の財政システム

 そしてこの神話を成り立たせるために、もう一人の神が必要です。

 それは「金利の神」。

 もし金利が上がってしまうと財政が危うくなるからだ。聖なる灯が吹き飛ばされるかもしれない!

 そこで、金利の神を怒らせないように、精いっぱいの働きをします。この儀式を怠ることは許されません。
 もし金利が上がったら人々の生活も大変なことになる。そんなことになったら、たいへんな失業と飢餓に襲われることでしょう。

 自然災害のように荒れ狂う市場金利の力から灯を守るために、人類は総力を挙げなければならない。
 (科学的には意味はないけれど)準備預金は潤沢だということを市場に示そうとしたり、(科学的に意味はないけれど)銀行間金利をしっかり誘導しようとしたり、できることは何でもやろうとする。

 国債と準備預金の比率をせっせと微調整することでなんとか金利の神をなだめようする人間たちの行為は、神殿の前の巫女たちの舞を思わせます。

 それ(金利)みんなで決めてるやつじゃん!などとは決して言ってはいけません。

図7:エリートは金利の神のための儀式を行う必要がある

 さらに、頭のいい人たちによって、市場金利をうまくコントロールすための様々な高度な方法が開発されていく。
 優秀な輩には勲章と賞金を出すべきでしょう。 

 それで済むなら安いものである。

 そんなとき、たとえば「N個の独立した政策目標を同時に達成するためにはN個の独立した政策手段が必要」であることを証明した、ヤン・ディンバーゲンという頭のいい人が現れる。

 またたとえば、マクロ経済とミクロ経済は分けて考えましょうと提唱し、実際に計量経済学やマクロ経済学という分野を立ち上げて見せんとばかりに、持って生まれた才を発揮するラグナル・フリッシュという秀才も現れる。

 おお、彼らのその理論に従えば、金利問題は財政問題と切り分けなければならない!政府から独立した中央銀行による精密な科学的コントロールが絶対に必要なのだ!

 かくして新しくこしらえたスウェーデン国立銀行賞を「ノーベル賞」ということにして、彼らの栄誉を称える。1969年のことである。

 世界中の大学には経済学部が設置され金融エリートが養成される。

  たとえばリフレ(←無意味)応援団の経済学者曰く、

 経済学者がティンバーゲンの定理をわすれてはいけません.

https://yasuyuki-iida.hatenablog.com/entry/20100217/p1 

 うんうん。

 というわけで、現代の三つの形而上学的神話の成立と発展ぶりを説明するのはそれほどむつかしいことではない。

未来の社会システム

 しかし科学的見地からすると、こんなばかばかしい社会システムでは金融セクターが拡大する一方。

 中でもいちばんバカバカしいのは金利で、人間がわざわざ設定した金利にわざわざ縛られに行って右往左往するのです。

 政府が支払う金利はゼロでよろしい。
 従って国債発行も廃止、ですよねー。

 もしそうなったら頭のいいエリートは、無意味なクソ仕事(宗教的な意味はとてつもなく大きいけれど庶民にとってはクソな仕事)から解放されて、役に立つ仕事ができるようになる、かもしれない。

 社会を悪くする今の仕事より良い仕事で良いならいくらでもあるはずです。

図8:未来の社会システム

 窓口割引による融資は廃止されません。統合政府は、Giroシステムの安定運営のために、必要な場合には準備預金を供給します。

 その説明は、よかったらこちらでご覧ください。

科学による革命には時間がかかる

 モズラーの慧眼はすごかった。

 レイによれば「ミンスキーはあと一歩のところまで来ていた」とのことだ。
 確かにこの話に乗りやすいのは制度を重視した人々だろう。けれど、この最後の一歩こそが難しい。

Yet they have to be functionally the same - it’s all just a glorified reserve drain!
それらの機能は同じでなければならない - それはまさに聖なる準備金除去だ。

 経済学の中にいる人が、政府と中央銀行とエリート学者たちがこぞってせっせとやっていることを、glorified reserve drain 「宗教的に飾られた儀式」だと言い切ることはなかなかできなかったと思う。

 そしてこの宗教は今だってふつうにわれわれの周りで働いているし、聖なる中央銀行たちの金融政策決定の儀式はかならず一定間隔で執り行われている。そのメンバーに入れてもらうことは大変な名誉になっているようです。

 みなさん、ああしたことを真剣に続けないと大変なことになるかもしれないと、やはり思っているのでしょう?

 信仰は大事ですからね。ワタクシも神を信じています。

 でもワタクシはもう、テレビやラジオから聞こえてくるアヘン宗教関係のニュースには、もう、まるで興味ない。

 何しろこれ↓ですから。

2022年にせノーベル賞の面々

 FRBの政策でどれだけの人が苦しんでいるか。
 ゼロにしなさいよ、と思うだけ。

 そして、人類の闘争はこれくらいでは終わらない。

 何しろマルクスの示した「付加価値分配ビュー」という大錯覚は、おそらくここで書いたことの数倍くらいは根が深いのである。

 まあ、1600年ごろに地動説を説いたジョルダーノ・ブルーノの運命がどうなったかを思えば、偉大な着想が聖なる形而上学をひっくり返すまでにはそれなりの時間、おそらく数世紀かかるということ。

 わんわん

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