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第41回「通貨」とは?- 理論と言語体系

資本論-ヘーゲル-MMTを三位一体で語る」の、第41回。


 「近経の人たちとはまるで話が通じない。使っている言葉がまるで違うようなんだ。」

  というようなことを、かつてマルクス経済学者の宇野弘蔵が言っていたのを読んだことがある。なお「近経」とは(笑)

 これはよくわかる。言語体系が異なるわけ。

 ところで「MMTは言葉の定義がコロコロ変わるからゴールポストを動かしていて恣意的だ」という評価をワタクシ聞いたことがある。

 T中H臣を始めとして。 

 「国債は利子付き通貨」だと言ったかと思うと「国債は通貨をドレインする役割がある」と言う。。 

 これは当然のことなのだ、という話をしたいと思う。


「通貨(currency)」を例に論理を考える

 なぜこのマガジンでこの話をするかというと、マルクスの剰余価値論と現在この世界で主流の付加価値論は、同じ言葉を使いながら言っていることがまるで違うという現象があり、マルクスは明らかにそれを意識していたという主張をワタクシはここでやっていこうと思っているから。

 しかし今これを書いているきっかけはこれなので、マルクスと直接的には関係しません(深くつながっていると信じているが)。

 ワタクシは反論は容易に成立すると思った(「通貨」でなく「資産」ならスルーしたと思う)ので、かなり軽い気持ちでこう反応してみたのだ。

 自分としては、MMTでは「国債は通貨(カレンシー)を除去するものである」という説明がよくなされるということを知っていたので、MMTを説明する立場をとっている xb さんがそれをやると困ったことになるよ、と示唆したかったのだ。

 また xb さんへの直接の示唆という意識でもなくて、「教えたはずなのに」ではなく、「反論どうぞ」という書かれ方だったから気軽に挑戦する気になった感じ?
 正直言えば xb さんご自身には見えない方がいいかもという気分もあった。

 そんなこんなで、いまのところ xb さんとのやりとりは成功裏に推移しているとは言えない。だから xb さんがここを読んでくださることを願う。

言葉の意味は立場によって一変する

 「通貨」という言葉の範囲は立場によって変化する。

 ある王様が nyunという名前の独自通貨を使って政治をするとする。

 彼にとって通貨は自分が発行した nyun 紙幣だけであり、納税手段として受け入れる nyun はそれ以外に存在しない。下々のものどもがそれを担保に債務証書を発行したり、独自の地域通貨で何かをしていたところで関係ないのだ。
 
 対して一般ユーザーにとって通貨 nyun の意味はもっと広い。
 とくに預金は現金と同等に使え、納税だって出来てしまう。なんなら電子マネーも通貨であろう。循環するのだから。

 では「国債」は?
 国債は、王にとっても、庶民にとっても「通貨」とは区別されるカテゴリーだと認識するのが自然と思われる。

 ところが、金融市場のディーラーたちにとってには「国債」「nyun紙幣」「預金」を殊更カテゴリー分類する意味はない。彼らにとっては、どの通貨たちをどれだけ持っているかのポジションが大事なのだから。

イタリアの啓示

 そうなると、じゃあMMTの意味は何?どこが新しいの?ということになる。
 それについて、ワタクシとしては明確な答えを持っている。

 それはまさに「”真実” の見え方は立場の制約によって明白に異なる」ということを体現して見せているところにある。

 モズラーは、自分がMMTの着想を得たきっかけは「イタリアの啓示(Italian epiphany)」だったと書いている。

 イタリアではイエス・キリストが神の子として公現したことを Epifania(エピファニーア)と言い、それを祝う休日があるのでモズラーもこれと引っかけているのかなとは思うが、彼が得た啓示とは「政府が売る国債と中央銀行が売る国債は同じもの、区別できないものである!」だったという。

 これは「発行者サイド」と「ユーザーサイド」の両者を明確に区分することができたということなのだ。それさえできれば、あとは芋蔓式に新しい理論が構築されていく。

Yet they have to be functionally the same - it’s all just a glorified reserve drain!
それらの機能は同じでなければならない - それはまさに聖なる準備金除去だ。

Italian epiphany

  これはユーザーサイド視点になっている。

 ここで glorified 「聖なる」とは権威によって飾られた「見せかけの」である。

 国債は、政府が「財源のために」売ろうが中央銀行が「金融調節のために」売ろうが、ユーザーにとってはそれは「見せかけ」に過ぎず、機能的、本質的にそれは準備金除去なのだ。

(横道だが、初期フィヒテ哲学における「我」と「非我」の関係と似ている)

地動説者と天動説者、それぞれの「惑星」

 こうした「立場による見え方や言葉の意味の違い」の話は科学哲学の方面ではよく知られた、まあ基礎なのだけど(相対性理論!)ここでは普通にわかりやすそうな例として地動説と天動説における「惑星」という言葉を例にしてみようと思う。

 まずワタクシたちのように地動説的世界観にいる現代人の視点だと、惑星は地球の仲間であり太陽の周りを整然と周転する存在だ。

 天動説の人が見た惑星はそうではない。太陽や月やシリウスや、それ以外のほとんどの星々が整然と回転しているのに対し、惑うように天球をさまよっているいくつかの変な存在がある。それは 『惑う星』。

 まるで違う。

 もしわれわれが、古代の地上にいる人に「惑星は美しい円運動をしている」と言おうものなら「お前は言葉の意味わかってるの?」ということになる。

 そういうことである。
 整然と動く星なら、それはぜんぜん「惑う星」ではないのだ。

 だから説明して理解してもらったとしても、「なんだよゴールポスト変えるなよ」と言われそうである(笑

MMT派の言葉遣い

 ワタクシの見たところ、MMT派の中でいちばんこれを意識しているのはビル・ミッチェルで、アメリカの人たちはちょっとなあ。。。

 要は、彼ら自身が「世界の切り方で言葉の意味が変わるのが当たり前だ」という意識を徹底できていないのだ。

 これは彼らが第二言語を持たずヨーロッパ言語世界の中だけに生きていることが、おそらく影響している。

 ここで日本語の人が英米語を読むときに、名詞としての主語に過剰に縛られてしまうという問題も、実はある。
 currency は「ぐるぐる回るもの」というイメージが実は先なのだけど、「通貨」という意味が先立っているはずだ、というように。

 KFさんはこういう指摘をされた。

 まあたしかにおおむねそんな感じ。

 調べると、実はぽつぽつ例外はある。
 たとえば Soft Currency Economics II のこんな表現。

Under that standard both government issued notes and notes issued by commercial banks(also deposits) circulated alongside gold coins. These forms of currency were each convertible on demand into gold.
金本位制の下では政府発行の小切手(notes) 、民間銀行の小切手 (と預金)が金硬貨と共に流通していた。これらの通貨の諸形態は要求に応じて金に交換された。

 この単数形の currency は、まさに「ぐるぐる流通するもの」のイメージだ。資本論でいう「価値の諸形態」が商品や貨幣であったように、小切手や預金や金硬貨は currency 、「流通するもの」の現象形態なのである。

 日本語で「通貨は…」と語り始めるときに、この感じは決して出なくて、あたかも先に定義された何かとして人の精神に現れる。対して英語だと、あとに続く述語が意味を絞り込んでいく働きをする感じがあって、述語によって「ああそういうことね」と意味があとから明確化される。もちろん場合に(文脈に)よるのだけれども。

 ではMMTの考え方を日本の言論空間に移植するにはどうすればいいのか?

 ワタクシにはまだわからない。
 こうやって地道に考える以外には。

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