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「腐らない」ことへの違和感

冷蔵庫が壊れた。


自分の感覚のせいかな。

電源抜き差ししたら直るかな。

しばらく待ってみたら復帰するかな。

いろいろ試したけど、やっぱり駄目だった。


一週間ほど様子を見て、結局電気屋さんに診てもらった。

案の上、復帰できなかった。

その冷蔵庫はマンション備え付けだったので、大家さんが交換費用を支払ってくれて、ひとまず解決した。

今は以前にように問題なく使えている。

でも、変わった部分もある。


冷蔵庫が壊れたと気付く前、大量に要冷蔵商品を買い込んでいた。

豆腐、チーズ、肉魚、葉物野菜など。

自粛期間だし、あまり外出したくなかったから。


幸い、冷凍庫は使えたので肉魚は買ってきてすぐに空気を抜いて冷凍にすることで「延命」させた。

他のものは、とりあえず高温多湿もよくないと思い、「使えない」冷蔵庫でもまだましだろうと思って、そこに入れていた。


最初のうちはその違いがわからなかった。

しかし、日を経るごとに、小さな違和感を感じ始めた。


腐るものと腐らないものがある。


同じ豆腐でも。

同じレタスでも。

見た目からドロドロしているもの、いないもの。

黒ずんでいるもの、いないもの。


なんなんだろう。この違いは。


その違いが何かは、今はまだわからない。

農薬のせいかもしれないし、何か添加物があるからなのかもしれない。

出荷時点での鮮度の違いなのかもしれない。

もしかしたら、部屋の微妙な環境の違いなのかもしれない。

それがスーパーで買ったものであるからとか、商店街で買ったものだからとか。

値段が安いからとか、定価で買ったからとか。

そういうことは(確かに傾向としては一定見られたものの)原因として断定できない。

ただ、同じもの(もちろん、買った場所やパッケージは異なる)でも「腐るもの」と「腐らないもの」がある。


この「腐らない」に対して、違和感を感じる。


今回は、「腐らない」違和感に対するつぶやき。



やや話は変わるけど、先日、鳥取に3週間滞在している際、偶然にも誘われて「パン屋タルマーリー」に行くことがあった。人工的なものを使わずに、天然酵母でふっくらとしあげるパン。ちょっと値段は高かったけど、そのおいしさは味わったことのないものだった。


後日、大学の図書館で、タルマーリーの創業者・渡邉格氏が執筆した「田舎のパン屋が見つけた『腐る経済』(講談社 2013)」を読んだ。それを読み、創業の経緯や自然発酵への渡邉氏のこだわりを知ることができた。

添加物を使わず、菌のチカラでゆっくりと発酵させること。

これがおいしさの秘訣だとわかった。


また、先日ある尊敬する人の勧めで、「小商いのすすめ(平川克己 著 ミシマ社)」を読んだ。

今は以前のような「こども」ではなく、「おとな」となった日本。

「身の丈に合わせた成長をすべきだ。」

「人知を超越したものを使うことへの違和感」

「いま・ここに責任を持つ生き方」

すっと自分の中に入ってきたことばたち。


この2冊は、冷蔵庫が壊れたことで、かなり腑に落ちることができた。

少しは「ジブンゴト化」できた気がする。


物事は腐るもの。

なぜ腐らないのか。


腐らないように希望したのは、「私たち」なのかもしれない。

そして、腐らないものをなくすには、私たちの行動次第なのかもしれない。


「腐る」ことが本来の摂理。    
「腐る」ものを「腐らない」うちに食べること。 何気ないことだけど、これも豊かさだと思う。



これをきっかけに、普段野菜を買う店も変わった。



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