相対主義の極北を読んで。〜終〜-第9章 相対主義と実在論の極限における一致-

 相対主義は前回までの考察で、すでにその極北まで行き着きました。今回はラストになりますが、相対主義の対極である実在論を煮詰めていくことで、それが相対主義と一致するところを見届けることになります。

 まずは復習がてら、ソフトな実在論。
 これは固定的な「私たち」の視点からスタートし、「私たち」の外部に何らかの真理が存在するというものです。私たちの「現れ」の世界と「真理」の世界には隔たりはあると考えます。しかしその隔たりは決して埋められないものではなく、理想的には「現れ」は「真理」と一致するであろうと想定されます。

 続いて、ハードな実在論。
 これは拡張可能で動的な「私たち」の視点からスタートします。先ほどと違うのは、そのような私たちの視点からは、どうやっても外部の「実在」を想定することはできないということです。
 どれだけ「私たち」の外部に実在を想定したとしても、それも結局新たに拡張された「私たち」の視点に包摂されるため、内部へと転落してしまいます。
 となると、「実在」はネガティブな想定可能性としてしか考えられなくなります。「「現れ」から隔てられた「実在」」とさえ言えなく、「そもそも「実在」とさえ言えないもの」というふうにならざるを得ません。

 これだけでも実在論の強度はかなり高いですが、まだまだ思考を深めていきます。
 上2つの実在論は、スタート地点である「私たち」を集合的なものとして捉えています。何かを内包する形式として。
 しかし極限的な実在論は「私たち」を集合としてではなく、ハードな実在論が新たに集合を作り出す反復作用自体として捉えます。

 ハードな実在論は実在を想定不可能な空白と捉えましたが、空白と捉えるには「内容を代入したが、それに常に失敗している」、ということが必要です。空白だからといって内容から完全に独立とは言えないのです。また、ネガティブな想定不可能性と言ったところで、そのネガティブな想定不可能性が「ある」と言えるには、そのこと自体をポジティブに想定可能でなければいけないのです。
 このようにすると、実在はまだ完全に「私たち」の圏域から離れていません。

 ではその無際限の反復作用自体を「私たち」と捉えた場合、なにが実在となるのでしょうか。
 第一の候補は神です。もしくは絶対的な無限。いくら「私たち」の反復作用に終わりがありません。となると無限に展開される有限に対しては、完全に展開されきった無限が外部として現れるのではないでしょうか。絶対的な無限、それは神と形容しても良いでしょう。
 第二の候補は「ないよりもっとないこと」です。先ほどネガティブな想定不可能性自体もポジティブに想定可能でなければいけないと指摘しました。このようなポジティブな想定可能性から脱するには、そもそも想定することすらなかった地点へと戻るしかないでしょう。もしくは、「私たち」の反復作用が起こる前の状態に。

 ここにて相対主義の極北と実在主義の極北が一致します。
 第一に、共に「私たち」というものには境界線はなく、境界線を常に引き続ける作用こそが「私たち」だという点。
 第二に、相対主義の極北で「私たち」を有限づけるものと、実在主義の極北の極限的な実在が、共に「ないよりもっとないこと」に行き着く点。


 これにて「相対主義の極北」読書記録は終了。

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