「相対主義の極北」を読んで。−序章−

 今回は入不二基義著「相対主義の極北」の読書記録というか、パラフレーズというか。本書の内容を体に染み込ませるため、一章ごとに読み終わったら、あまり本書を見ないで自分の言葉でまとめ直していきます。まぁ、大事と思うところは、ばんばん引用しますが。では、本編。


序章 「地平線と国境線」と「足の裏の影」

 序章では、これからなされる相対主義の議論を象徴するような例を2つ挙げています。

 まずは「地平線と国境線」。

 地平線と国境線は共に、領域を区分する境界線の役割を果たすという意味では同じようなものです。しかし、決定的に違う点があります。

 それは境界線の越境不可能性と移動不可避性についてです。

 地平線は視野の向こうに見える、空と地面の境目です。あなたは地平線にある山をぼーっと眺めています。そこであなたは気がおかしくなったのか、あの山を越えて地平線の向こう側に行こうと急に決心しました。どういう手段を使ったかは置いておきまして、なんとか山の向こう側へと到着しました。はて、あなたは地平線を越えることができたのでしょうか?いや、あなたの視野には、また新たな地平線が現れているでしょう。地平線は常に越えられません。なぜなら、あなたが移動するのに同期して、地平線も移動せざるをえないからです。
 つまり、地平線は越境不可能であり、移動不可避ということです。

 対して国境線。もちろん政治的な緊張のため国境線を跨げないとか、パスポートがないから入国できないとか、国境に激流の川があり渡れないとか現実的な問題はあるかもしれませんが、諸々条件をクリアーすれば問題なく国境線は越えることができます。また国境線は移動しません。侵略行為のための領土拡大などは除いて。あなたが移動するのに合わせて移動する国境はありえませんね。  
 ということで、国境は越境不可能ではなく、移動不可避でもないということです。

 これからなされる相対主義の議論は、この地平線の掴み所のない部分とリンクしていきます。

 ここで地平線の特徴を叙述している部分の引用を。

私たちは、地平線の向こうの方の“あの地点”に重ね、いったん固定する。しかし、“その地点”へと接近していくことによって、地平線は、“その地点“への固定から解除されて退く。そして、固定と解除を繰り返すこと、すなわち、あの地点と地平線との重なりと、その地点からの後退を反復することが、まさに地平線のまたぎ越しふ可能性と、地平線のこちら側の唯一性とを生み出し続ける。地平線は、国境的なものと関係しつつ、そこから離反を続ける。ということは、地平線は、国境線と単にスタティックに対照的であるというのではない。むしろ、地平線は国境線的なものへと転落しつつ、そこから退いていくという仕方で、国境線的なものと非国境線的な在り方が、同時に発生している。つまり、地平線と国境線との対照 は、ある種の「落差」の反復的な産出に他ならない。

 解除、仮固定、反復、後退、唯一性、転落、落差。

 入不二さんの明朗で淀みない語り口で、言葉が再生されます。
 これらの言葉はこれからの議論でテーマを変えながらも、常に登場していきます。

 二つ目の例、「足の裏の影」。

 足が地面にべったりとくっついているとき、果たして足の裏に影はあるのでしょうか?

 いろいろな議論があるでしょうが、ここでは具体的な議論を提示してみましょう。

 まずは「影がある」派。
 論証1。影は光が遮られることによってつくられる。足の裏は光が遮られている。よって影がある。
 論証2。足を少し上げてみる。すると影が見えるでしょう。そこで足を少し地面に近づけてみる。まだ影はあります。さらに近づけても影はあるでしょう。そして足を完全に地面にくっつけた。それで急に影がなくなったと言えるでしょうか?いや、そんなことは言えない、だから影はあるのだ。

 続いて「影がない」派。これは「影がある」派の反論として考えていきましょう。
 反論1。暗闇の場合、影があると言えるでしょうか?普通、そうとは言わないでしょう。足の裏側も局所的な暗闇のはずです。つまり影はないのです。
 反論2。連続性によって影の存在を言い立てているが、そう言えるでしょうか?例えば豆電球1個と電池1個がついている簡単な回路を考えてみましょう。今は導線がつながっていません。もちろん電球は点灯しません。その導線を少しづつ近づけていきます。電球はまだもちろん点灯しないでしょう。ということはどんどん近づけて最終的に導線を接触させても、電球は点灯しないでしょうか?そんなことはないでしょう。つまり、近づくことと接触することは明らかに質的な差があるのです。もちろん積極的に影の不在を言い立てられないですが、影があるとは言えないでしょう。

 「影がある」派の再反論。
 反論1の反論。いや、暗闇の場合、なぜ影がないと断言できるのでしょうか?影はあるかないかの二択でしょう。影がない状態は、あの光に照らされた翳りのない状態のことでしょう。ということは暗闇の場合、影があるという方がより適切なのではないでしょうか?
 反論2の反論。確かに回路の例だと、接近と接触で質的な変化が起こります。しかしそれは影がある状態から影がない状態になるという変化でしょうか?どちらかといえば、光に依存した影の状態から、光から独立した完全なる影へと質的に変化したとも言えないでしょうか?影がなくなるという言明よりも、より妥当な感じがしないでしょうか?

 「影がない」派の再々反論。
 反論1の反論の反論。影を作り出すのは光です。そしてその原因である光がないのです。一般的に影のない状態、つまり光に照らされて状態を想像すると変に感じますが、原因の光がないのですから、足の裏に影はないのです。
 反論2の反論の反論。これも上の議論と一緒です。光から独立した影など、よくわかりません。光があるから影ができるのです。その光がないのなら、もう単純に影はないと言えるのです。

 ……。この辺で止めておきましょう。

 あなたは「影がある」派に与しますか、「影がない」派に与しますか?

 そもそもこのような提案が問題なのではないでしょうか?つまりある/なしのニ値原理を採用することが間違いではないのでしょうか?

 まずはニ値原理を越えた、根源的な無について。
 ここまでの議論を読むと、「影があるとは言えない、しかし影がないとも言えない」というようなグルグルした状態に感じるのではないでしょうか?ここにグルグルした感じを覚えるのは、影のある/なしのどちらかを選択しなければという思いなしにあるのではないでしょうか?つまり排中律への盲目的な信頼。端的にどちらでも“ない”のです。影が“ない”というのっぺりした否定ではなく、影はあるでもないでも“ない”という、根源的な無です。

 今度は逆に、ニ値原理を越えた、根源的な有について。
 そもそも影を認識するには光が必要です。光がなければ私たちは何も視覚的に認識できません。影は視覚的な現象です。つまり影がある場合もない場合も、ともに認識の土台としての光がなければ意味がないのです。影の有無を言及できるには、そのような汎通的な光の存在が欠かせないのです。つまり、影は“ある”というのっぺりした肯定ではなく、影があるとかないとか判断する認識の土台が“ある”という、根源的な有です。

 となると、根源的な無と根源的な有、どちらに与するべきでしょうか?…もうそんな問いを立てたりはしないでしょう。そんな問い立てが無効であることを出発点にしたのですから。

 こんなところで、二つの象徴的な話についていは一旦おしまいにしておきましょう。

 この本の狙いは、相対主義をある一点に凝縮することで純化させ、最終的には相対主義自体を蒸発させてしまいます。この純化された相対主義のことを「相対主義の極北」と呼ぶことになります。
 さらに相対主義の反対派とされる実在主義も、同様に一点い凝縮することで純化させ、最終的に実在主義を蒸発させてしまいます。言うなれば「実在主義の極北」でしょう。そして純化された相対主義と純化された実在主義が、結局は同じ一点へと収斂されたものとして考えていくのです。


 まとまりなく続けてしまいましたが、今回はここまで。

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