チョコレート味の脳を舐めればいいじゃないか!

「問いを問う」の読書記録。

この本の第4章では、心脳問題を扱います。「心という非物質的な存在と脳という物質的存在がどのように関係しているのか?」という問題です。

ざっくり言ってしまえば、この問題に対しては一元論的立場と二元論的立場の2種類の捉え方があります。
一元論は、心というものは結局物質的現象に還元できるものであり、物質とは違う存在領域をつくるのはナンセンスであるという立場です。
対して二元論は、心という存在領域を肯定的に捉える立場です。
本書ではさらに別の立場も出てきますが、今回はその点については省略します。

今回は、とある思考実験がなんとも変なものだったので、それを取り上げていきます。

その変な思考実験は、二元論的立場を主張するためのものであり、具体的には次のようなものです。

クオリアの研究をしているとある脳科学者がいます。彼は、被験者がチョコバーを食べるときに感じる、チョコレート味のクオリアを特定するため研究をしています。彼は、被験者の頭蓋骨を開けて、あらゆる手段を講じて脳の状態を調べます。そして彼の努力が身を結び、ついにチョコレート味のクオリアの脳状態を特定することに成功しました。
果たしてこの脳科学者は、これで被験者のクオリアについて知ることができたといえるのでしょうか。
いや、そうは言えないのです。彼はただチョコバーを食べたときの脳の状態を知っただけであり、被験者のクオリアの状態については、何一つもわかってないからです。
脳科学者は自分の試みの何に欠陥があるか内省しました。そこで彼は気がつきました。味覚のクオリアについて調べているのに、脳に対して視覚的にアプローチをしていたのが間違いだったのだと。
そこで彼は脳に対して味覚的にアプローチするために、新薬を開発しました。その薬を脳の表面に塗ると、その脳の持ち主が感じている味覚と全く同じ味がするのです。
この説明では、なんだか言葉足らずな気がしますが、具体的にはこうです。頭蓋骨を開かれ、脳がむき出しの状態でチョコバーを食べる被験者。その被験者の露わな脳に脳科学者は、例の新薬を塗りたくります。そしてその新薬の効き目が出てきた頃に、被験者の脳を直接舐めます。すると、被験者が味わっているチョコバーの味を脳科学者も味わえるということです。
果たして脳科学者はこれでクオリアの秘密を解明できたのでしょうか。

結局、脳科学者が感じているクオリアはあくまで脳科学者自身のクオリアで、被験者のクオリアには届かないというのがこの思考実験のオチであり、議論はさらに進んでいくことになります。なるのですが、正直この思考実験が奇妙すぎて、すぐに次の議論に進むことができませんでした。

思考実験の奇妙さにツッコミを入れるのは、野暮だと十分理解しているつもりです。物理の研究において、現実の複雑な状況をよりクリアにすために、空気抵抗をないものとして考えることがあります。哲学においても同様に、現実の偶然的事実を切り捨てクリアにするため、思考実験が存在しており、それは現実離れした想定になりがちです。しかしそれは目的あってのことです。それなのに、その内容が現実に即していないとヤジるのは、思考実験の意図を汲み取れていないということなのです。

なのですが、この思考実験はどうしても、その奇妙な想定の方に目がいってしまいます。
脳の状態をいくら調べても、被験者のクオリアには届かない。そのことで思い悩む脳科学者は目に浮かびます。しかし、その解決策として、「チョコレート味の脳を舐めればいいじゃないか!」と考える脳科学者はかなりイカれています。考えれば考えるほど、変です。

しかし、そのような考えに至る理路もある程度納得はできます。

心身問題とは、心(以下Mと表記)と身体(以下Bと表記)の埋め難い隙間をどう埋めるのかという問題でした。B→Mの関係がいかに成り立っているのか、それを解明しようとするものでした。

科学的に考えるなら次のようになります。
B1(チョコバーを食べる)→M(チョコレート味のクオリア)という例でいきましょう。このB1からMへ到達するのはどうしても飛躍があるように感じます。そこでMまでの道のりをより細かく分解します。B2(チョコレートの分子が味蕾に接触する)・B3(それぞれの味覚に対し受容器が反応する)…という具合に。となるとB1→B2→B3→・・・→Bn→Mとなり、真にMをうみだすBnへと到達することができるというわけです。

一元論的には、BnからMへと違ったものに飛躍しているのではなく、Bn=Mと考えます。つまり、Mは見かけ上の存在であり、その本質・実質はBnという物理的何かに還元できるのだと考えます。
対して二元論は、BとMの埋め難い差に敏感です。いくらBを細かく分けたところで、それはいわゆる物理的因果関係の延長上にMが存在しているとは考えません。じゃあ、それがどんな関係によってBとMを架橋しているのかときかれると、言葉に窮することになると思うのですが。

かの思考実験のマッドサイエンティストは、この一元論と二元論の間に引き裂かれ、頭がおかしくなってしまっているのです。
彼は科学者たろうとすると、一元論的立場を堅持します。すべてが物理的因果関係の連関で説明がつくのだと。しかし、彼の研究対象はクオリアです。クオリアは二元論的立場の親和的であり、物理的連関の外に、クオリアの存在領域を措定します。
「クオリア」を研究する「脳科学者」という彼の立場は、どうしても分裂をきたしてしますのです。

チョコバーを食べる被験者の脳状態を調べる彼は、一元論に依拠しています。Bの連鎖の果てに、きっとクオリアの秘密があるのだと。そして彼はきっとBnまで辿り着くことができたのでしょう。しかし彼の疑問はまだ解決されなかった。Bnまで行きついても、Mに到達しないではないかと。
そこでからはなんとかしてMへと行き着かないか思案した。Mへの活路を見出している彼は二元論に依拠しています。しかし彼は同時に科学者、つまり一元論者であらざるを得ず、彼の方法論は物理的連関の網目の中に限られます。その中でなんとかしてチョコレート味のクオリアというMに行き着くために彼は思考し、「エウレーカ!」と叫んだのでしょう。そしてこう言ったのでしょう、「チョコレート味の脳を舐めればいいじゃないか!」と。

彼の間違いは何だったのでしょうか?それは何がクオリアのあの直接性を生み出しているかについての洞察でしょう。
彼はクオリアのあの直接性を得るため、視覚から味覚へとシフトしました。しかし問題はそこではなかったのです。「誰の」という部分が肝要だったのです。
彼は、「被験者の」味覚のクオリアに到達するため、まずは被験者の脳を丹念に調べました。これは一応「脳科学者の」視覚のクオリアに映し出された脳のデータではありますが、科学的手法によりデータを集めているため、「客観的なデータ」と捉えて問題ないでしょう。生々しいクオリアを調べたいのに客観的データを利用している、そこに彼は疑義を感じました。そこで彼は目的を達成するために、「脳科学者の」味覚のクオリアに働きかけることになったのです。これでからはあの直接的なクオリアに到達していますが、結局は「脳科学者の」クオリアです。彼は決して「被験者の」クオリアには行き着けないのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?