相対主義の極北を読んで。-第8章 「ない」ことの連鎖-

 第7章では、「ない」よりももっと「ない」ことを扱いました。ある/ないという二値原理を超えた「ない」。ある/ないという対立が発生する以前の「ない」。

 今章では、そのような極限的な「ない」ではなく、中間的な「ない」を扱います。先ほどの究極のないを「未発生の「ない」」と言うなら、これから扱うのは「未完結の「ない」」とでも言うのでしょうか。

 題材としてはクオリアを扱うことで、この「ない」についてアプローチしていきます。

 クオリアとは、ありありと感じられる感覚の質のようなものです。これは科学によって人間の内部がいくら明らかになっても掬い取れないものとして登場します。いくら科学的に「痛い」という感覚を解析しても、このありありと感じる「痛み」については何も言及できないということです。

 クオリアの特徴は次の3点にまとめられます。
⑴私のクオリアは「最も近い直接的体験」である。
⑵他者のクオリアは「遠く離れた事実」である。
⑶クオリアは主観的で、科学的記述は客観的であり、2つのギャップは主観/客観のギャップとして捉えらえる。

 このようなクオリアに対して、科学の側は次のような反論を加えることができます。

α クオリアは科学的現象の付属物であるに過ぎず、偶然で無関係なため、無視することができる。
β 科学的記述の中にすでにクオリアの質は埋め込まれており、それら二つを分離することは不可能である。

 αはクオリアを外部へと追放し、βはクオリアを内部へと取り込みます。

 このようにみると、2つは真逆の対応に見えますが、実はお互い相補的な循環運動を形成しています。
 まずαの視点に立てば、クオリアは科学的記述の外部に追いやられます。しかしすると、クオリアとはそもそも何を指しているのかさえわからなくなります。言語で表現できないものを、「表現できないもの」と表現することでも指し示さないように。
 それでも無理やり、クオリアを「科学的な記述できない意識の質」のようなもので記述すると、記述の世界に巻き込まれます。となるとクオリアはどのような意識も必然的に付随するものとなり、もともと大事だった偶然性や非関係性が消失していまします。
 そこで偶然性・非関係性を回復しようとすると、「「科学的に記述できない意識の質」とも言い切れない」と主張することになり、結局何を指しているのかさえ、またわからなくなります。

 このようなα⇆βの「往復運動」が終わりなく続いていきます。

 クオリアは何か実態的なものというよりもこの「往復運動」自体と言った方が適切でしょう。αの「単なる無」の状態とβの「何かるもの」の間の循環。捉えようとしても常に何かを取りこぼしてしまう運動。このように、完結せずに常に取り逃してしまうような「なさ」こそ、冒頭に言及した「未完結の「ない」」です。

 また、先ほどクオリア=主観・科学=客観の振り分けを行いましたが、このような新たなクオリア観に照らし合わせてみると、それは正しくありません。
 αの立場はその捉えどころなさを主観に託しましたが、その主観も結局「客観的な主観」でしかあり得ず、客観的な記述であるβの立場に吸収されます。しかしそれでも捉えられない主観こそがクオリアだと言いたくなります。そこでαの立場に再び回帰しても、結局何かを指し示すにはβの立場に移行せねばならず…という具合に、終わりない循環が発生します。
 クオリアは主観/客観のどちらかに与するものではないのです。言うなれば、主観/客観のギャップの中にこそ、クオリアは住みつくのです。

 本書ではさらにコウモリであることのクオリアを私たちは捉えることができるのか?という問題も取り上げていますが、構造は上と類似的です。簡潔にまとめるだけにとどめます。

α コウモリであることのクオリアは科学的現象の付属物であるに過ぎず、偶然で無関係なため無視することができる。
β 科学的記述の中にすでにコウモリであることのクオリアの質は埋め込まれており、それら二つを分離することは不可能である。

 αに立場はコウモリであることを理解不能という彼岸におきますが、それではそもそも何を指しているかわかりません。
 そこでコウモリが感じている何かを実体的に捉えようとするとβの科学的記述に回収され、私たちに到達不能だというニュアンスが失われます。
 さらにその不可能性を取り戻そうとするとαの立場に差し戻されますが、それも結局βに揺り戻され…という循環運動です。

 新たに打ち立てれたクオリア観をまとめると次の3点になります。
⑴私のクオリアは「完結しない不在」である。
⑵他者のクオリアが到達不能なのは、「開放性と視点の回帰」である。
⑶クオリアは主観/客観の対立の主観側に与するのではなく、主観/客観の対立のギャップに存在する。


 ここからはおまけ。

 最近ヘーゲルの「精神現象学」を読んでいますが、上の循環運動はヘーゲルの議論の運び方と類似的だなと感じます。例えば次のような部分です。

対象とはむしろ、一箇同一の観点にあってじぶん自身の反対物である。すなわち対象は、他のものに対して存在するかぎりにおいてじぶんに対して存在し、じぶんに対して存在するかぎりおいて他のものに対して存在するのである。

精神現象学(熊野純彦訳) p206~207

「他のものに対して存在する」=科学、「じぶんに対して存在する」=典型的クオリアと捉えると、同じような運動を読み取れるはずです(典型的クオリアとしたのは、新たなクオリアとの対比のためです)。

 ヘーゲルの上の記述をつい先日読んでいたので、これは一種のシンクロニシティだと思い、記しておきます。

今回はここまで。

  


 


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