「相対主義の極北」を読んで。−第2章−

 「相対主義の極北」を自由に要約していく試み、第2章開始です。


  この章では、相対主義の権化であるプロタゴラスの相対主義を取り上げます。正確にいうと、ソクラテス=プラトンが解釈したプロタゴラスですが。

 プロタゴラスの相対主義と言えば、「人間は万物の尺度である」というスローガンで有名だと思います。もう少し詳しくいうと、「あるものについて、それがあるということの、あらぬのについては、それはあらぬということの尺度である」というものです。

 この相対主義の問題は、「感覚」「思い」と「真実」「事実」がイコールで結ばれてしまうということです。

 例えば道端に細長く、うねうねした何かを目にしたとしましょう。瞬間的に「蛇だ!」と認識し、ビビってしまったとします。しかし、よく見ると単なるロープでした。
 この場合どうでしょう。相対主義の考えによると、「蛇」とというふうに「思った」瞬間、それが「事実」となるはずです。しかし実際はロープでした。となると蛇という事実がロープに変わってしまったということになります。しかし事実というものは不変のはずです。これが相対主義の問題点です。

 つまり相対主義の考えを押し進めてしますと、「思い」と「事実」のギャップを区別することができなくなってしまうということです。

 しかしこれはソクラテス=プラトンが捉えた相対主義であります。しっかりと相対主義を貫いた解釈をすると上のような問題は起こってきません。

 次の似たような二つの相対主義の解釈が大きな違いを生み出します。
 「各人の現れは、真理である」
 「各人の現れは、“各人にとっての“真理である」
 上の解釈でいくと、さきほとの蛇の例は問題があります。しかし下の解釈でいくと先に示した問題はありません。事実ロープであったとしても、その人の現れとしては蛇というものは真だといえるということです。

 これで問題は解決したようにも見えますが、実はそうではありません。先ほどの問題は、外的な事実と内的の想いのギャップがなくなるというものでした。外部と内部のギャップは保たれたことになります。しかしそれは問題が解決したということではなく、その問題が内部に先送りされ、内的な事実と内的な想いのギャップがなくなるという問題が新たに出てきてしまいます。これでは単に問題を先送りしただけに過ぎません。

 というわけで、別の理路で相対主義を考えていきます。「思い」「感覚」を各人に属するものとしてではなく、「概念枠」というふうに捉えるということです。「思い」をその人にしかわからないものにするのではなく、「その人の立場に立てばこう思えるだろう」というふうに考えていくということです。

 ここでソクラテス=プラトンによる人間尺度説(相対主義)の論駁を紹介し、上のような概念枠的観点からそれが論駁になっていないということを確認していきます。

 ソクラテス=プラトンによる論駁は次のとおりです。
 人間尺度説はその人によって現れる真理が違うというものでした。人間尺度説を唱えるJなる人物は次のような形式で主張をします。

 ・Jにとって、(主張内容)はつねに真である

 このような形で、主張内容になんでも当てはめていけるということです。さてここで、主張内容に人間尺度説自体を代入してみましょう。

①Jにとって、(人間尺度説)はつねに真である。

 今度はJという主体ではなく、それ以外の反相対主義の人たちが、人間尺度説が受け入れられないという主張をしたとしましょう。次のようになります。

②J以外にとって、(人間尺度説)はつねに偽である。

 相対主義者Jにとっては、どんな主張も()のなかに放り込めるので、上の反相対主義者の主張自体も放り込むことができます。

③Jにとって、((人間尺度説)はつねに偽である)はつねに真である。

 このようになってしまい、矛盾に陥ってしまうというのが、ソクラテス=プラトンによる相対主義論駁です。

 しかしこの論駁には見落としがあります。それは③における代入がまだ完璧ではないということです。次のように代入されるべきなのです。

③’ Jにとって、(J以外にとって(人間尺度説)はつねに偽である)はつねに真である。

 こう捉えることで矛盾がなくなります。しかしどうしてこのような代入の誤りが起こってしまうのでしょうか。これは大外の「〜にとっての」の特異性です。先の例で言えば、大外の「Jにとって」はどの言説の上にもつくことになります。この「J」という人物は、普通に考えればワンオブゼム、大勢の中の一人です。「J」と「J以外」は対等な対比項として働きます。
 しかしこの大外の「J」はそのような対比項がある存在として働きません。それらをすべて包摂するようにして働きます。それはすべて言説の開けということになります。
 となると、もうこの「J」というのは人間として捉えることができません。それはもう「世界」と同一なものとなってしまいます。

 これでは「J」=「世界」を特権的で絶対的なものとしてみることになってしまいます。これを緩和するために、そんな「〜にとって」性のない「端的」な主張を対比項として出すことができあます。

・端的に、(主張内容)は真/偽である。

しかし相対主義の包摂作用はこれをも飲み込もうとするはずです。

・Jにとって、端的に(主張内容)は真/偽である。

もちろん端的さもこれに負けないように包摂してきます。

・端的に、Jにとって、端的に(主張内容)は真/偽である。

 これ以上はやめておきましょう。こうなると、相対主義者は絶対に「〜にとって」の殻から抜け出せず、端的なものを掴むことができないということになってしまいます。
 この相対主義者がふれらない次元が、非-知の次元であり、神の不可知論へと繋がっていくのです。


今回はここまで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?