相対主義の極北を読んで。−第1章 相対主義という考え−

「相対主義の極北」をかなり自由にパラフレーズしながら、まとめていきます。
以下本編開始。



 この本の目的は相対主義を極限まで煎じ詰めることですが、その準備段階として、一般的な相対主義がどんなものかを整理する必要があります。というわけでまずは、相対主義の特徴を6つ列挙していきます。

⑴内在化
⑵複数化 ⑷再帰性 ⑸相対主義と絶対主義の反転 ⑹非−知の次元
⑶断絶性

 ⑴〜⑶が相対主義の基本性質であり、⑷は相対主義の自己包摂、⑸は相対主義の敵をである絶対主義との相互依存関係、最後⑹はそんな相対主義も感知できな領域があるということ。
 かなり縮約したので、もう少し付言をしましょう。

 相対主義的な言説は、現代ではとてもありふれた主張です。それぞれの文化・言語・民族・趣味趣向には優劣はなく、それぞれの価値が内包されているという考えです。この考えには、上の⑴〜⑶の考えが埋め込まれています。

 文化を具体例に話を進めていきましょう。

 例えば欧米ではチップを払う文化というものがあります。日本の文化しか知らない人からすると、これは全くの盲点で、「なんでチップなんて払うんだろう、サービスの値段に含み込んどけばいいのに」なんて思うかもしれません。しかしそんな主張意味がありません。チップ文化はその文化圏内で意味を持つものであり、それを外部からとやかく言われる所以はないのです。外部の視点が意味をなさず、その内部でしか意味がないという側面が⑴内在性です。

 私たちが文化というときは、それと対立・比較する別の文化を想定しています。もしそういう文化がなかったのだとしたら、わざわざ自身の慣習を文化と言い立てる必要がないからです。日本人の場合、家に入るとき靴を脱ぎます。これはもう当たり前のことであり、わざわざ言語化する必要もありません。しかし、そんなことを全く知らない異国の人が土足で家の中に上がり込んだとき、「日本では家で靴を脱ぐのが文化なんだよ」と教えることになるでしょう。この発言は、日本とは違う別の文化があるということがもとになっている発言です。このように文化が一つでないということが⑵複数性です。

 それぞれの文化にはそれぞれの内的な整合性があります。それを自国の文化を物差しにして矯正してやろうとする行いは、人類に惨事をもたらしてきました。相対主義はそのような考えのカウンターでもあります。つまり、文化同士の間は架橋できない溝があるということです。これが⑶断絶性です。

 ここまでが大まかな相対主義の考えです。相対主義は様々な文化をそのような対等な視点で眺め回していますが、果たして相対主義という文化自身はどうなのでしょうか?相対主義自身はそのような複数の文化を包摂するような特権的な位置にあるのでしょうか?相対主義自身も一つの文化であり、それもそのほかの文化と対等に並べられる存在なのではないでしょうか?全てを包み込んでいるような相対主義自身も、何かに包み込まれざるをないのです。このような相対主義的な視点の自己適応のことを⑷再帰性と言います。

 相対主義の対立概念は絶対主義です。しかし、それらは排他的なものではあり得ないのです。例えばヘルダーという人は相対主義を主張します。それぞれの民族・時代にはそれぞれの価値を持っているとういことです。ですが、それぞれにそれぞれの価値があるのはどうしてでしょうか?自分の属する価値を優位と見て、他を変だどか劣位だとか見下すのはある意味素朴な考えではないでしょうか?このような自文化中心主義を打破するのに、ヘルダーは神を要請します。それぞれの文化は神の一部の顕現であるため、それぞれが大切であるということです。他に自文化中心主義を打破するような理路はあるでしょうか?ここに神の絶対性が介在します。
 今度はカントを引き合いに出します。カントはどちらかといえば絶対主義者でしょう。カントといえば認識のコペルニクス的転換、つまり時間・空間や因果関係などのカテゴリーは自然にあるものでなく、認識する主体に属するという考えです。人間はこの条件の下でしか物事を認識でいません。つまりカテゴリーは人間にとって絶対的な存在です。しかし、カテゴリーというものを想定するということは、人間とは別のカテゴリーも反実仮想的に想像することができないでしょうか?人間とは違ったカテゴリーで認識している主体の想定。そうなると絶対的であるカテゴリーが複数化し、相対的な視点が現れてきます。
 このように相対主義が絶対主義へ、絶対主義が想定主義へ反転していくことを⑸相対主義と絶対主義の反転と言います。

 ⑴〜⑶の性質は静的であり、すんなりと飲み込めるものだと思います。しかし⑷・⑸の性質は動的であり、目眩を催すような運動が含まれています。

 そして最後の性質。⑷の性質は全てを包摂する相対主義が自身も包摂すること、⑸の性質は対立概念である絶対主義も相対主義へと転換することが示されました。そうなると相対主義の外部は想定できなってしまいます。しかし、相対主義の外側に人間には不可知の何かがあると想定できないでしょうか?人間の尺度では測れない何かが。プロタゴラスの人間尺度説はひどく人間中心主義に聞こえますが、人間には感知できな領域が存在するという土台があってこそ、そのような複数の尺度を持つことができるのではないでしょうか?つまり相対主義はそのような不可知な下支えなしには、相対主義独特の運動は生まれてこないということです。これが⑹非−知の次元です。


 今日はここまで。

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