相対主義の極北を読んで。-第5章 相対主義とその周辺-

 相対主義の対義語は絶対主義です。しかし、本書で行なっているような徹底した相対主義では、相対主義の中に絶対性が現れれてきます。無限後退を続けていくその時の一番外側の枠組み。この大外の枠組みこそ、絶対性を有しています。
 また、相対主義はある枠組み・観点に依存しているため特殊であり、絶対主義はそんな枠組み・観点に依存していないため普遍的と言えます。しかし、大外の枠組みを考えると、相対主義にも普遍性が帯びてきます。
 さらに、絶対性とは物事の究極的な根拠、これ以上説明することのできないもの、ある意味ではそれを支える根拠がないという意味で無根拠的な存在といえます。徹底した相対主義もそのような無根拠性を持っているともいえます。
 このように徹底した相対主義は、その反転した姿も自身の姿にしてしまうような運動を持っています。

 相対主義は「現れ」と「真理」のギャップをなくしてしまうという問題があることは確認しました。「真理」が「現れ」に吸収されてしまうのです。
 この意味で相対主義と対立的な立場は実在論といえるでしょう。一口に実在論といっても、グラデーションがあります。
 その一つはソフトな実在論です。「真理」を「現れ」を理想化されたものとみなす考え方がソフトな実在論です。本書ではバトナムが取り上げている「内在的実在論」をこのソフトな実在論と捉えています。
 もう一つはハードな実在論です。こちらは「真理」と「現れ」のギャップは埋めることができないという立場です。バトナムによると、「形而上学的実在論」がハードな実在論に対応しています。
 本書では枠組み相対主義を取り上げてきましたが、これはソフトな実在論に近い立場といえます。枠組み相対主義は、個人的相対主義による「現れ」と「真理」のギャップをなくしてしまう問題を解消するために提示されました。「現れ」単体では真偽が決まらずに、認識の枠組みが設定されることで初めて真偽が決定します。「現れ」に何らかの手を加えることで「真理」に到達する、この点こそ、枠組み相対主義とソフトな実在論の類似点です。

 「現れ」と「真理」の距離がゼロから無限大に広がるグラデーションを、次のように並べて表現してみましょう。
 個人的な相対主義→枠組み相対主義=ソフトな実在論→ハードな実在論

 ここで相対主義と懐疑論の関係も見ていきましょう。
 懐疑論とは、読んで字の如く、この世の全てのものは疑いえる構造をしているというものです。この世界のどんなに確からしいものも、もしかしたらマッドサイエンティストが培養液の脳に何らかの操作を加えることで、現れているものかもしれないからです。
 この懐疑論に反論することはできるのでしょうか?これはかなり難しいことです。懐疑論は、自身の対戦相手も自身の世界内部に入れることで、吸収してしまうからです。懐疑論は、タイマンで議論に勝つというよりは、戦わずして相手を馴致してしまいます。
 一つ有望な反論として、超越論的な反論があります。懐疑論者が培養液の脳など、この世の虚を生み出している本体を考えるとき、その培養液の脳という確固たる実在を想定しているのではないかという反論です。懐疑論は全てを疑えるといいながら、その超越論的条件である培養液の脳を疑いえないとしているのではないでしょうか?
 しかしこの反論も頓挫します。この仮初の世を生成する培養液の脳をこの仮初の世で考えてしますと、それは結局夢の内部の出来事に吸収されてしまうからです。つまり懐疑論の常套手段である相手を吸収してしまうやり方がここでも通用してしまうのです。
 このように、いくら理屈をつけても懐疑論は論駁できません。ではどうすればよいのでしょうか?一つ方法があります。私たちが懐疑などせず生きているというその原ー事実に基づいて懐疑論を終わらせるというやり方です。これは自然主義といえます。ともあれ現実に、懐疑論が懐疑することは起こっておらず、そのようなことではなく、この現実に目を向けようという立場です。
 しかしそれは、懐疑という地雷原を踏まないように抑圧している状態といえないでしょうか?ここは立入禁止区域、それ以外のところで自由に考えましょう、といった感じです。そこには懐疑論の恐ろしい影が隠しきれません。
 そこでウルトラ自然主義というものを考えていきます。これはそもそも懐疑というものなんてなかった、というよりなかったとも認識できないほどなかったと捉えるような立場です。しかしここまでくると、懐疑論が解消したのか完遂されたのか区別がつかなくなります。ある意味では懐疑は解消されたでしょう、だってそんなもの認識できないのですから。しかし、全てを疑い尽くし全てを夢と断定したとき、もう夢の外部はなくなってしまいます。すると比較対象がなくなり、夢=現実となり、それは素朴な実在論と一致するのです。
 

 相対主義、実在論、懐疑論について眺めてきました。これらには共通点が見えてきます。
 まずは相対主義と懐疑論。すべてを懐疑の内部へと吸収してしまうあの運動は、相対主義の大外の枠組みと相同的ではないでしょうか。また懐疑論を徹底すると、懐疑の完遂と消去が同じになってしまうというものは、相対主義において大外の枠組みに真偽が振り分けられず二値原理が通用しなくなるという点も似ているのではないでしょうか。
 次は懐疑論とハードな実在論。ともに「現れ」と「真理」に超えられないギャップを見る点で同じといえないでしょうか。違いをいえば、懐疑論はその超えられなさに重きをおいているのに対して、ハードな実在論はその彼岸にある何かに重きをおいているという点でしょう。 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?