じいちゃんが死んでしまった

いよいよじいちゃんが死んでしまった。
人生に訪れるのは「急なピンチ」ではなく、「穏やかな低退」といってたのはどの漫画の主人公だっただろうか。
そういう言葉を思い出したり、「いよいよ」という言葉を使ってしまうくらい長い時間をかけてじいちゃんは生きることを静かに止めていった。

じいちゃんが私を忘れたのはもう大分昔のことだ。
少年期の辛い時分、いつもおだやかにそこにいて、突然やってくる私たちに「おう、きたか」と声をかけてくれたじいちゃん。
孫の中でもいっとうなついていた兄貴のことも、記憶の靄の中に消えていった。
結婚して真っ先に紹介した兄のお嫁さんのことも当然覚えておらず、会うたびに自己紹介が必要だった。
「しっかりしていたら、一番喜んでくれたと思うんだけどな~」と冗談めかして言った兄貴の言葉を思い出してもう胸が詰まる。

人が死んでしまった日特有のあわただしさをどうにかやりすごして、
床に体を伏せるとどうにも涙が止まらなくなってしまった。
ぼろりぼろりと涙が出る。

認知症が進んで私のことを忘れられたとき、
私は半分じいちゃんを失ったような気分になって、来るべきじいちゃんとの別れの日のためにも、じいちゃんに何か期待をすることをやめた。
ありていに言えば、じいちゃんのことをあきらめることにした。

でも兄貴は違った。
何度忘れられようとも、奥さんと一緒にじいちゃんに会いに行き、
結婚を報告して、「お嫁さんだよ」とじいちゃんに紹介した。
じいちゃんが意識を失ってからも、毎週毎週、
目を覚まさないじいちゃんに会いに行き、体をふき、かつて好きだった音楽を流して、声をかけた。

兄貴はちっともあきらめてなんていなかった。
じいちゃんが作り出していたものを享受することにずっと甘えていた私が
じいちゃんをあきらめた一方で、兄貴はちっともあきらめてなんかいなかった。

葬儀会社の人が悲しそうなまなざしをするくらい、棺の前でぼろぼろとわかりやすく泣いた私に対して、
兄貴はだれにも聞こえないくらいの声で「おやすみ、じいちゃん」とつぶやき、つるつるのじいちゃんの頭そっと頭を撫でた。

じいちゃんが私を忘れたように、じいちゃんのことを勝手にあきらめた私に、今涙を流す権利なんてないはずなのに。
今この時に涙を流せるのは兄貴くらいなのに。

誰に言えばいいかわからないごめんなさいをのどの奥にためて目をつむる。

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