『下校オニ』におけるメタ構造
先日、曽山一寿賞の大賞として、せがわひろわき作『下校オニ』がコロコロオンラインで公開された。筆者も先ほど読んだので、感じたことなどを少々。ネタバレには一切配慮しません。
※「作品」や「テクスト」の解釈は一通りに定まるものではないし、作者が解釈を間違うことも往々にしてあり得る。本稿はその立場に立ったものであることを先に注記しておく。
「下校オニ」という遊びの構造
下校オニの動線
まず、下校オニのルールを整理してみる。
①二人は「オニ」と「ニゲ」に分かれる。
②ニゲは好きなルートで学校から歩道橋へ向かう。その際、自分が通った道に「ヒント」を残さなければならない。
③「オニ」は15分間学校で待機したのち、「ヒント」を元に「ニゲ」が通ったとおぼしきルートを辿る。
④歩道橋で待ち合わせて、最後に答え合わせを行う。
動作を単純化すると、「オニ」が「ニゲ」を追跡している、という構図になる。鬼ごっこ、及びその派生の共通項は「鬼役が他の参加者を追いかける」ことであるが、下校オニももれなくこの要素をおさえている。
ただし、下校オニが他の遊びと異なる点として、始点と終点が決められていることが挙げられる。ただ逃げればいいのではなく、移動する過程に重きがおかれているのである。この点は非常に重要だ。(勝ち負けが存在しないことも、過程が重視されている証左である)
メタ構造:15年がかりの下校オニ
物語を通じた二人の動線を辿ってみよう。
(1)小学生の二人は藤尾という地域に住んでいる。
(2)ところが転校によりシュウだけが引っ越す。
(3)そのまま月日が経ち、大学進学を機にテツも地元を離れ、やがて就職した。
(4)一方のシュウは母校の教員として藤尾に戻ってきており、15年がかりの待ち合わせをしてテツと再会する。
この動きは、下校オニの構図と完全に一致している。シュウが先に移動を始め、待ち合わせ場所で待つ。始点と終点は決まっており、テツも移動した後、合流して答え合わせをする。紛れもなく、シュウをニゲとして下校オニが行われている。『下校オニ』という作品自体のプロットが、メタ的に「下校オニ」という遊びになっているのである。シュウが転校時の手紙で、「遠い場所」という微弱なヒントを残しながらも具体的な場所を示さなかったのは、歩道橋で答え合わせをするつもりだったからだろう。移動過程に重きをおく下校オニだからこその行動である。
地域外から「帰ってくる」という点も重要だ。これはまさに「下校」なのだから。
"テツ"と"シュウ"について
いつも追いかける「テツ」
作中で下校オニが行われているシーンの描写では、三回中三回ともテツが「オニ」でシュウが「ニゲ」となっている。(モノローグのコマの絵で、テツが「ヒント」を置き、シュウが回収する様子がわずかに描かれるだけで、物語内でテツが「ニゲ」になっているシーンは存在しない) いつもテツが追いかける側である。まるで轍を踏むかのように、テツが追いかける構図が繰り返されるのである。これは偶然ではないと考えられるが、これについては最終章で触れる。
内に向かうベクトル
本作において、テツとシュウは対照的な人物像として描かれている。聡明なシュウに対し、テツは平凡。大人になっても無垢でわんぱくな表情を浮かべるテツに対し、中性的な見た目でどこか陰りの見えるシュウ。
物語を通じてシュウが「ニゲ」なので、動線の主導権を握るのも同様にシュウである。作中の動線はシュウの内向性を反映しているのではないだろうか。シュウの家は厳しい家庭で、帰れば親が張り付いて勉強をさせられる。家に籠もって机と向き合わなければならない生活だ。この、内へ(家へ)向かうベクトルがシュウの内向性の根本にあると捉えると、テツとシュウの遊びが「下校」の最中に行われることや、物語は最終的に地元へ「帰る」ことで終幕を迎えることと整合性が見出せるのだ。本作の動線は、単純化してしまえば「家への撤収」である。
下校オニの意義
意味のないこと
既に何度か触れているが、下校オニの特殊性として「結果ではなく過程に重きがおかれていること」が挙げられる。勝ち負けがないこと、終着点が決まっていることがその理由だ。ありていに言ってしまえば「意味がない」のである。そもそも「ニゲ」が逃げていないのだから、鬼ごっことしては成立していないではないか。
この物語の動線を主導するのはシュウだと述べたが、ルールの精緻さから、下校オニのルールも聡明なシュウ主導で構築されたと考えていいだろう。そのシュウの周りは「意味のあること」で溢れている。将来のために親が勉強をさせる。学校も同様だ。下校すら、家に帰るという目的しか持っておらず、その道程には変わり映えがない。ところが、下校オニをすることによって、下校の移動そのものが遊びの目的になる。下校オニをしている間だけは、彼は意味から開放されているのである。
下校オニには意味がない。それはロラン・バルトの言葉を借りれば「空虚な中心」ということであり、真木悠介の言葉を借りれば「コンサマトリー」な時間ということだろう。*
シュウは何がしたかったのか
シュウの周りは意味に溢れていると述べたが、このことを「大人」と「子供」の対比構造のなかで考えてみたい。
大人になると、とかく「何かのために」「役に立つ」「合理的な」行動を求められることが多くなる。一番大きいものは労働だろう。欲求を抑え、生活のために働く。それが合理的だからだ。ひとに「大人になれよ」と言い放つ時は、多くの場合「意味のないことばかりしてないで…」というニュアンスを含意する。そう考えると、シュウの生きる環境は「大人」的だといえるのではないだろうか。実際、テツと比べてもシュウの方が圧倒的に大人びている。
そんな「大人な」シュウが、下校オニという「意味」のない遊びを主導する。これは、シュウの「大人」になることへの拒絶の表れではないだろうか。そう考えると、遊び相手が無垢でわんぱくなテツであることや、シュウが再び小学校に戻る選択をすることにも納得がいく。
大人になっていかざるを得ない状況に身を置く小学生のシュウの顔には陰りが見えるが、小学校に戻ってきた15年後の彼の顔には光が当たるのである。
大人になることを拒絶するストーリーが、「大人」になってしまい最早過去を懐かしむことしかできない我々に刺さり、ノスタルジックな感動を喚起するのだ。
「宮」へ向かう参道
「変化」に富む参道
ここから先は、シュウを「ニゲ」とする下校オニの過程は、神社の参道を模している、と言い切ってしまうところから話を進めていきたい。
狩野敏次著『住居空間の心身論―「奥」の日本文化』(1992)では、神社について以下のように記述されている。(太字は筆者による)
変化に富む道を歩む。辿り着く地点ではなくその過程に重きがおかれる。これはまさに、下校オニの特徴そのものではないか。シュウの「ヒント」は必ず「アルミ缶の上にアルミ缶」で始まるが、これはまさしく鳥居である。そこを通過したテツは、曲がりくねったルートを辿って「宮」本秀のもとへ向かうのである。
導き手としての宮本秀
下校オニのルートを、シュウへと向かう参道と捉えると、「シュウというキャラクターは土地神のようなものを象徴している」という解釈も可能になってくる。下校オニが参道ならば、その最奥に座しているのはシュウだからだ。
小学生とは思えない知性と落ち着きをたたえ、中性的な見た目をする子供。人智を越える存在の象徴となるに十分すぎるキャラクター像ではないか。シュウは藤尾の地を守っているのかもしれない、と考えれば、最後に教員となって戻ってくることにも説明がつく。
『下校オニ』のストーリーを一言でまとめてしまえば、『プーと大人になった僕』である。クリストファー・ロビンは一度プーとの関わりを失ったが、それと同じように、テツは大人になる過程で、妖精的な親友*のシュウと訣別しなければならない。大人になった時にテツが童心を思い出すことで、両者は再会に成功するのだ。
このように、「下校オニ」を「参道」として捉えれば、シュウがテツの導き手であるという解釈が出てくるのである。
布教の場
ところで、学校という施設は教会と同じ構造を持っている。
教科書は聖書にあたり、教諭は司祭にあたる。みなが一堂に会し、書物の内容を教わるという構図まで同じである。
そう考えてみると、教員になったシュウは「布教の場」を確保したといえないだろうか。シュウが上述の議論のように宗教的な一面を持つ存在であり、人を導いているのだとすれば、「布教」の場の確保のために教員というポストについたと考えても不自然ではない。
オニ、ニゲ、ハロウィン
宗教を絡めて本作を考察するならば、必ず触れなければならないのが「ハロウィン」である。
ハロウィンでは、子供たちが仮装をして"trick or treat"と言うのが慣例だ。これを下校オニの様子とからめて考えてみよう。
ハロウィンの日に行われた下校オニは作中二回あるが、いずれの「ヒント」にもお菓子があり、どちらも「オニ」のテツが移動中に食べている。ハロウィンの様式に当てはめると、テツがオニに仮装し、お菓子をもらったということになりそうだ。
ではシュウの方はどうか。treatをテツが取っていっているのだから、シュウはtrick、つまりヒントを置くことを引き受けているといえないだろうか。「ニゲ」役のシュウは一見、ハロウィンには関わっていないようにみえるが、テツと同様、彼もしっかり仮装をしている。シュウはきちんと人間役を担っているのである。
以上、書き殴りの考察であったが、通読中に思ったことをまとめた。考えたことを全て書けているわけではないので、もしかしたら今後加筆や修正を入れるかもしれない。
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