1955(昭和30)年 寺田ヒロオと新漫画党、そして「漫画少年」休刊
「漫画少年」
寺田ヒロオにとって初めての連載「ホントカシラ博士」は「漫画少年」1954年10月号で終了したが、引き続き「漫画少年」での仕事多数手がける。
1月号 読切2本「三三が三平」「300円物語」各6p
2月号 読切「まめまき」1p
3月号 読切「投書家ボクちゃん」8p
4月号〜 新連載「白黒物語」全7回(〜休刊になる10月号まで)
春増刊号 読切「あわてんぼ」2p
他社からも仕事の依頼
また、他社からも本格的に依頼が来るようになる。
「なかよし」(講談社)1月創刊号〜 新連載「なかよし歌の旅」全7回(〜7月号まで)
「ぼくら」(講談社)2月号「巨象エレファント」半裁8p
3月号「怪力ゴジラグローブ」4p
講談社の漫画絵本〈14〉「キューピーちゃん」3p、〈16〉「かげ絵」2p、〈17〉「にわとりのあかちゃん」6p、〈21〉「おっこちたおつきさま」8p、〈22〉「カエルとヤナギ」1p、〈27〉「もんちゃんの写生」6p、〈30〉「ないたみみちゃん」4p、〈31〉「よるあるくポスト」4p、〈35〉「かぜこぞう」4p
「小学一年生」(小学館)11月号「ふしぎなじどうしゃ」
「野球少年」(芳文社)10月号「ぼくは関取」4p
11月「信夫山物語」4p
「ぼくら」3月号「怪力ゴジラグローブ」は藤子不二雄が帰省していくつもの原稿間に合わず落としてしまうという“大やらかし”によって、「海底人間メバル」の穴埋めとして掲載されたもの。
藤子不二雄はこの年の「ぼくら」創刊号1月号から期待されて新連載を始めておきながら、この失態によって「海底人間メバル」は次の4月号(第3話)で打ち切りとされてしまう。
と、後年自虐的に語ってはいるが、穴埋めの前月2月号にすでに読切掲載しているので、この言葉は正しくはない。
しかし、創刊号から期待されて新連載を任されていた藤子不二雄と違って、穴埋めに尽力した寺田ヒロオには連載の依頼は来なかった。
「新漫画党」名義の合作
二年の友(東邦出版) 3〜7月号
少女(光文社) 8月号
二年ブック(学研)1〜4、6月号
三年ブック 4、5月号
正月の帰省でいくつもの原稿を落とした藤子不二雄だが、新漫画党合作以外にも、多少の仕事があったようだ。
干されて暇してたとよくあちこちで語っているが、上京直後があまりに忙しかったため、それに比べると一時的にかなり仕事が少ない時期ではあった。
鈴木伸一が上京し、新漫画党に入る。
寺田ヒロオに敷金3万円借りてトキワ荘に入居。
その他、新漫画党一周年記念パーティー開催や、永田竹丸紹介の女性たちとテニスをしたり奥多摩キャンプをしたり、若者の楽しい青春を送るといった感じ。寺田ヒロオも参加することもあったが、あまり馴染めていなかったようだ。
そして「漫画少年」休刊
9月 学童社倒産 「漫画少年」は10月号で休刊(と言うていの、事実上は廃刊)
しかし寺田は「野球少年」(芳文社)10、11月号読み切り掲載のおかげか、翌1956.1月号から「野球少年」で野球漫画の連載を打診される。
12月 半年ほど仕事が減っていたが、また依頼が増えてきて忙しくなってきた藤子不二雄の食事の世話をするため、藤子不二雄A(安孫子元雄)の姉が上京。
藤子不二雄のふたりと同じ四畳半に寝泊まりする状態だったが、同月中に藤子・F・不二雄(藤本弘)の方が空室だった隣の部屋を借りてそちらに移る。
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