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令和の時代に電脳コイルを一気見した話③

こんばんは。日に3本記事を書くのは我ながら精力的ですね。サボった二日分だと考えれば帳尻が合うな。つまりサボりなんてものはなかった、いいね?
2本目と3本目の間に温泉に行きました。温泉はいいぞ。群馬は日常的な生活圏の中にホイホイ温泉やら銭湯やらが転がっててとてもいいですね。かつて茨城に住んでたときはその辺に転がってる公衆浴場の数がとても少なく、寂しい思いをしました。群馬はいいところだぞ。

ただしクソ熱いけど。(40度超えるともう暑いを通り越すよね)

さて②で宣言した通り、今回は電脳コイルの大人と動物の話を書いて締めに行きたいと思っています。どのくらいの文章量になるかは検討がぜんぜんつかない。ネタバレは大いにある予定とだけ。

①は以下。

②は以下。

大人(?)の話

メガばあの話

余裕のある大人の姿はいつだって安心感をくれる。子供心を失わない大人の姿はいつだって憧れをくれる。あえて敬愛を込めて称するぞ、良きクソババアだと。

探偵局の空きNo.にどれだけ癖の強い人間が埋まってるんだろうと思うとわくわくしますね。こういう余生を送れたら、人生楽しいだろうな。
とはいえ彼女の若いころにどんな人生があったのだろう、と想像するとそれは結構波乱万丈なのではなかろうか。やっぱ平凡に、まじめに、面白みなく送る現実で手いっぱいだなぁとも思うつまらない大人になっちまったな、おれは。

……冷静に考えると発狂入院歴が2回ある人生は全然平凡でまじめで面白みのない現実ではないのだが、昨今めずらしくもないでしょ、たぶん。みんなわたしほど思い詰めておかしくなるまで考えないだけで、現実に押しつぶされそうな息苦しさは少なからず感じてるでしょ。
そういうのと向き合わなくてよくなるのはやっぱり年の功って言葉がふさわしいのかもしれませんね。メガばあみたいな余裕のあるご老人キャラクターは自らがまだまだ道半ばの若輩であるという側面を「素直に」実感させてくれるので、未来に希望が持ちやすい。いいぞ。

先生の話

マイコ先生は正直「いい先生だな」とはそんなに思わなかったけれど、教師という仕事がいかに大変かという昨今の事情を見るに、教職に向いてる人だな、とは思った。
介護職とかもそうだけど、他人の事情を察しやすく感情移入しやすい人は人の面倒を見る仕事には向かないように思う。そのほうが仕事を仕事として割り切りやすいというか。生徒は「生徒」として扱えるほうが、集団の和を保つには向いてるんでしょうね。
わたしは教育者にはものすごく向かない人間(別に察しがいいわけじゃないけど)なので、マイコ先生には酒癖悪いところ以外そんなに共感できなかったです。でも別にキャラクターとして嫌いなタイプではなかった。

ほんとはまとめて他の先生の話も掘り下げようかなと思ったんですが、思い返してみると掘り下げるほど興味を惹かれなかった。わたしは「先生」という人種にはあまり馴染みがないもので……

ヤサコの両親の話

お父さんとお母さんもわけるほど掘り下げ要素あるかなあ?と思ったので一緒くたで。

お父さんに関してはかなりおいしい役回りだったな、と思いました。存在感が強烈なわけじゃないのに最終的にすごく印象に残る。いいよな。
人生においてそういう役回りの人間でありたいとよく思っていますが、それには確かな経験の積み重ねが大事なんだろうなァ……精進します。

お母さんについては割と自分の母を思わされるというか、子供に寄り添えるかどうかはともかくとして子供を愛し、大事にしている母親なんだなというのが伝わってきた。そういう親の愛が正しく理解できるのは大人になってからだったし、一方で「あなたのためよ」という姿勢に少なからず傷ついてきたという側面がわかったのも、私は大人になってからだった。
親は良き理解者とは限らない。心の機微をただしく汲み取ってくれる生き物とは限らない。しかし、いるからこそ救われる存在であってくれる親というもののありがたみを、この作品をとおしてあらためて噛みしめています。

オジジの話

視聴途中でこんなツイートをしてたんですよ。

しかし実際は、すべてをたどるとオジジから始まっている。黒幕、という言葉はあまりにも適切でないが、でもそういうニュアンスだったよね。念のため書いときますが悪い印象は皆無です。

あれだけあちこちに張られた伏線が導き出した一人のすごい人が、孫の記憶の中ではただの好々爺だったというのにものすごい心を揺さぶられました。イリーガルだと思っていた黒い影が徐々にはっきりとした人の形をとっていき、最終的に笑顔を浮かべた瞬間、その表情のあまりの毒気のなさになんだかしずかに泣きたくなった。今は亡き祖父達に線香の一つでも手向けたくなってきました。

4423の話

大人ではないけどまあここでええやろ。ついでにミチコさんの話もしときます。
実際のところわたしが感想をつぶやきながらずっと「ヨンヨンニーサン」と(ライオン父さんみたいな発音イメージで)呼んでいたのはヤサコの記憶の中の想い人であり、たぶんイサコのお兄さんなんだろうな~と途中から想像していた人です。正確には4422ですかね。でも4422とヨンヨンニーサンは別物だよな。

ひもといていくとヤサコの想い人であるヨンヨンニーサンはイサコの想像の賜物なのでやっぱり百合じゃん掘り下げようとするとどうしていいかわからなくなる。カンナちゃんもそうですけど、他者の想像力によりあとから形成された故人のイメージは果たして本人だろうか?
最近は技術によって故人の要素要素を再現する技術がどんどん発達してきているけれど、この既存の倫理観では十分に説明しきれなそう(倫理について詳しく知らないので実際のところどうだかわからないけど)なテーマを15年前にここまでくっきり描いていたNHKはすげえな。

ミチコさんはもっと何者なんだろう。正直限りなく歪んだ言い方になるのを承知で言いますが、あれはヤサコとイサコが産んだ娘ですよね。ここでわたしは「生命とは」とクソデカテーマの話にぶち当たり思考がめちゃくちゃになってしまう……はたして「あっち側で声を発する何某」は「生命」なのかい?イリーガルは?電脳ペットは?

……という疑問を自分なりに精査していくために、この記事の後半は電脳生物(?)に焦点をあててあれこれ喋ろうと思います。ここまで書いた時点で、かつて生物学徒だったものとしての見解ははっきりしない。
まあわたしは志半ばでその道を投げ出した劣等生なので、なんかネットの隅っこであたまのおかしいオタクがいろいろ騒いでるな、という程度の話に過ぎませんが、気が向いたらお付き合いいただけると光栄の至りです。

電脳生物(?)の話

公称がなんなのかわからない。言ってた気もするけど、おぼえてない。電脳ペットをはじめとする「実体を伴わない電脳体が本体の生き物っぽいナニカの総称」ということにとりあえずここではしておきます。実際、実体を伴わないのかどうかアニメを一周見ただけではよくわかんなかったけど。設定資料集とか読めば補完できるんだろうか。

デンスケの話

ネコ派の俺もうっかりイヌ派になる。

いやね、1話2話の時点から「デンスケほどの老犬にそこまで心理的な負荷をかけないでやってくれ、静かに余生を過ごさせてやってくれ」と思わされていたんですが……「電脳生物の心理的な負荷とは?」みたいなことに疑問の余地ありますね。ヒトが技術で生み出した疑似生命体の感情ってなんだ、心理ってなんだ……しょっぱなからドツボにハマる……これはどうしようもない、いったん放置する。

さてさて「あっちの世界にいたデンスケとお別れを言う」シーンのデンスケ、すごくデンスケでしたよね(?)。前述の「他者の想像力によりあとから形成された故人(ヒトではないが)のイメージ」にすぎないデンスケは、ふわふわであたたかいんだぜ。そしてそれは、生前の(?)デンスケに乗った京子ちゃんも言っていたんだぜ。電脳体で触れ合う電脳ペットに触覚が満たされるのも考えてみると謎なんだよぉ……
しかしこれについてはすでに友人とツイッターで語り合っており「脳は曖昧でバグりやすいため」という説明で一応納得が得られる。電脳メガネの技術は各種感覚器官や、感情を司る中枢である脳を騙すことに長けた技術なので、目が、耳が騙せるなら触覚だっていずれ騙せるようになるだろうさ。

とりあえずいろいろと生命に関するあれやこれやを考えさせてくる電脳生物の中でも、最も観る側の感情に訴えかけてくるデンスケは、この作品を語るのに欠かせない魅力的な一キャラクターだったということに疑う余地はない。

オヤジの話

「ペットってなんだ」という話になる。……ペットってなんだよ。

フミエチャンにとっては「僕」でありペットではない。ペットってあんまりまともに飼ったことないんですが、かなり「家族である」という側面が強い呼称ですよね。つまりはフミエチャンはオヤジのことを家族よりも一段下に観ている。……倫理観、揺らいできちゃうな。

しかし、結局のところ「電脳生物は生き物ではない」のでしょうな。すくなくともフミエチャンのスタンスからはそのように読み取れる。そりゃな~ 現状生命の定義は以下ですもんね。

とは人間を含めた生物一般の基本的な属性である。しかし生命を科学的に規定することはなかなかむずかしい。生の否定である死の定義が医療の現場の問題としても議論の的である現状からも、生命の定義のむずかしさがうかがえる。かりに脳の活動停止を個体死と規定しても、機能を維持している器官や組織が存在している。個体をつくっているすべての細胞が活動を停止すれば、生物学的には完全に死であるが、これも難問を含んでいる。なぜなら、細胞が死んだというためには、「細胞が生きている」ということが規定されていなければならない。その完全な規定はまだなされていないのである。

https://kotobank.jp/word/%E7%94%9F%E5%91%BD-86523

……ちょっとまてよ、辞書的な意味調べたら余計にわからなくなってきたぞ。
私の知識では「生命の定義に細胞が必要である」という話だったはずなんですが、如何せん数年単位でその方面の知識のアップデートを放棄しているのでそれも確かと言えるかあやふやっぽいですね。これ見ると。
科学の最先端では定義は常に変わっていくし、それが一般化した常識のレベルまで浸透するまでに10年ぐらいの誤差は平気で生じる、という話だった気がする。つまり今全然最先端の知識がないわたしには「生命とは何か」という難問に対する答えが出せないし、そもそも15年前のアニメをもとにその答えを出そうとするのはナンセンスかもしれないぜ。

……まあこのアニメを観た自分の感情を消化するために、わたしは余計なことを考えるんだけどさ。それが生きがいなもので。

モジョの話

わたしはずっと「喪女」と呼んでいた。みんなそうだろたぶん。(クソデカ主語)
明言していたかどうかはっきりおぼえてないんですが、イサコにとってのモジョも「ペット」ではないような気がする。電脳ペットに対するスタンスとしてはかなりフミエチャンに近いような気がしますね。

でも一方で「あっちの世界のお兄ちゃん」をずっと信じているイサコは、「電脳生物を生き物と見なしていない」ようには見えない。「電脳体には生命の何らかの要素が宿っている」というスタンスで、それを彼女はたぶん「魂」って呼んでたな。魂ってナニ?
このへんになってくると生物学の、それも人間の生活への応用を基にしたわたしの知識では完全についていけない領域になってしまう。生命というものを捉えるにはあまりにも膨大な知識が必要だよな。

……電脳生物の、というよりその飼い主のスタンスから生命を捉える話になってきてしまっているぞ?まあいいか。

ミゼットの話

ミゼットはかなり「つくられたもの」という側面がでかい電脳ペットなので、あまり心を揺らがされずに済む。技術の発達の過程で10年後には世の中から消えてる歴史の犠牲者感がすごいっすね。こういうペットはそのうち現実でも実現しそう、そして同じようにプライバシーの概念とぶつかって消されそう、とすら思う。いや、さすがに世に出てくる前に先にプライバシーの概念のほうに消されるかな。わからん。

実際ミゼットをペットとして飼っていたアキラくんもタケルくん(タケルくんのもミゼットっていう呼称でいいのかな?)も、ペットに対して大きく感情移入している描写がなかったですよね。結局のところは「電脳生物を生物と見なすかは、人による」という側面が、この作品中ではデカいのかな。とくに13話なんかはまさにそうよね。その辺はイリーガルについての話であらためて掘り下げる。

キュウちゃんとサッチーの話

おれだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

……失礼、取り乱しました。

キュウちゃんもサッチーもペットではなかろうし、正直それそのものが生命の概念を揺らがすものではなかったけれど、彼ら(?)の存在について言及したいポイントは②の記事のデンパくんのところで書いた通り。「古い空間でないと存在を維持できないイリーガルの生存可能個所をどんどん狭めていく」という点。

そもそもイリーガルはコンピュータ「ウイルス」なんでしたっけか。ウイルスは今の定義上(たぶん)生物じゃないんですよね。ましてコンピュータウイルスは生物ではねえな。結局のところ「電脳生物は、生物ではない」という見方が強くなってきた。
その存在できる個所を縮めていくからそれがなんだって話だ?コンピュータ技術に即して考えると、自分が何をそんなに騒いでいるのかわからなくなるな。現実でウイルス対策ソフトが躍起になってウイルスの定義を更新し続ける様と、作中で古い空間がどんどんアップデートされていくさまは大差ないですわな。
「仮想空間でのペットに入れ込みすぎる」という話なら、現在ゲームの中とかでもそういう話はいくらでもありそうですもんね。そこに生物っぽさを見出したとしてもその概念から「生命」の定義を揺らがすのはナンセンスだという気がしてきたわ。

……でもじゃあ、「魂」とかのよくわからないものの世界になったとき、それはどこに宿るの?どうやって生まれるの?という話が俄然気になってくる。ここまで書いてきてようやっと向き合うべき主題が見えた気がするな。

「生命は生物にしか宿らないのか?」
これについてはおそらく、次の話をしても答えは出ないんじゃないか。

……あれ、私がやってるの哲学だったのか?最近読み始めた本での哲学的な手法でのテーマの洗い出しの流れに限りなく近しい気がするぞ、この流れ。

イリーガルの話

果たして生命の話になるんだろうか?わからない。とりあえず話の始め方としてはイリーガルに焦点を当てたい。

「イリーガルとは何か」というのは作中でハラケンはじめとする正規の生物部の連中(?)が自由研究対象に選ぶぐらいだし、大人の世界でははっきりとした見解があらわになっていたとしても子供に対して浸透している概念ではないんでしょうな。そんなものを掘り下げようったって現実じゃないんだしよくわかんねーよ。

しかし実際にイリーガルに該当するやつらにフォーカスした話が2話あったことだし、とりあえずそこらへんつつきまわしてみよう。一つはさんざんこねくりまわしたデンパくん回こと13話。もう一つがダイチくん回(?)こと11話。「魚回」についてはそういえば何も話をしてなかったな。

……魚回のことを思い出したことにより、電脳コイルを観ていてよくわからなかった概念の一つに「空間」があったことを思い出しました。空間ってなんだよ。空間ごと増殖するコンピュータウイルスってなんだよ。こわすぎ。「古い空間」とかふわっと言われるけど、考えてみればみるほどよくわからない。なんかしらんけどテクスチャーが張られていて、眼鏡をかけると見え方が変わるんだよなたぶん。
でもメガネを外すと現実が見えるんだよなあの世界。どこに何があるのかわからなくなりすぎて怖いだろ、そんなの。メガネずっとかけてるの怖すぎるだろ。そりゃ事故もおこるわ。そりゃ親も取り上げるわ。

電脳コイルは子供たちの話だし、子供の感受性の強さは必要以上に「疑似的な生命に魂を吹き込む」のかな。この場合の魂は文学的表現(?)として使っている言葉だけれど、あながち間違いでもないかもしれない。
前述の4423についての話の中で「ミチコさんはイサコとヤサコの娘」という話をしましたが、今日日漫画家や絵師、デザイナーなどの世界で「自分が生み出したキャラクター」に対して「娘、息子」という呼称を使うのはめずらしくないですよね。前述のくだりではそういうニュアンスで使ってました。
なんならもっと幅を広げて芸術家とか、モノづくりをする企業とかもそうかもしれない。自身が丹精込めて生み出した「モノ」に対して「血肉を分けた子孫のような入れ込み方をする」のは、割と昨今当たり前の話のような気がするぞ。オタク的感性では。

クリエイターが生み出す「娘、息子」に「魂」を吹き込むのはクリエイター自身。そして、それを受け取る側の人間もまた、独自の目線でそのキャラクターに魂を吹き込むんですよね。そうやって解釈の幅が広がった「娘、息子」が世にもたらす影響というのはモノによってはとても大きいし、なんなら下手な一個人よりも世界を変える力がある。そこに「生命力」を感じたって不思議じゃないんじゃない?というのはさすがにこじつけだろうか。

でもきっと、ここで感じる生命力は、そのコンテンツに関与したすべての人間がちょっとずつ与えた影響力というふうに読み取れるような気がする。そのコンテンツで魂を動かされた人間のチカラがコンテンツ側に宿った結果、というか。
ミゼットのところで「電脳生物を生物と見なすかは、人による」という話をしましたが、「どれだけの人間がそこに生命性を見出すかによって、社会的な定義が変わる」んでしょうね。それは電脳コイルの世界での未来での話だろう。おそらく。
私たちが生きる現実においても、たぶんそういうバーチャルな存在の生命性の話を語る時代はそう遠くないよな。むしろ知らないだけでもう来てる可能性がでかいよな。なんせこのアニメは15年前の作品ですし?

……書いてる人間としてはなんだかきれいにまとまったような気がしないでもないが、この後半の話はじつに論理的でないような気がしてならない。結局オタクが一つのアニメ観て吐き出す感想なんてそんなもんですわ。
しかしそれだけ壮大に語ることがあった作品はいい作品だ、というのだけはわかる。勧めてくれた友人、ありがとう。この3日間はじつに有意義でした。

落としどころがわからない話

まーたそれか。

電脳コイル、面白かったぞ。まだ見てない人がこの記事を読んでいる可能性は限りなく低いと思うので、これをきっかけに観返していろんな感想を聞かせてくださる人がいれば幸いです。





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