【講座メモ】秋季特別展・特別陳列「飛鳥宮と難波宮・大津宮」の見どころ解説

2014年10月25日
場所:奈良まほろば館
講師:橿原考古学研究所附属博物館 主任学芸員 重見 泰 氏

以下、備忘録。

・現在の明日香村は結構広い範囲だが、古代の「飛鳥」はかなり限定された狭い地域を指す。
・飛鳥宮跡 上層部の調査が続いている。
・東方遺跡 道路を作る際の調査で井戸が発見され、この中に、平安期の土師器があった。小治田宮(603年推古朝)と墨書されていたので、この辺りが小治田だとわかった。
・飛鳥寺の南、飛鳥宮の北側に役所群
・史跡指定には詳細な理由づけが必要なので、飛鳥宮周辺全部を指定するに至っていない。ここが重要な跡地ということは判明していても、内容がまだ明らかでないため。
・江戸時代から現代まで、宮のあった場所の認識が違う。
・明治時代には文献を批判的に検討し、比定。飛鳥岡本宮→飛鳥にあり、どこか岡の麓にある宮はどこか、という視点。ただしこの時代はまだ発掘調査はない。
・飛鳥寺の北西の石神遺跡。石人像出土。饗応施設と考えられている。渡来品の出土がある。例えば、隋のワイングラスや新羅の土器。しかし、これらは7世紀初頭の推古朝のもの。斉明朝より古い。
・石神遺跡のその後。天武・持統朝の木簡の出土。仕丁に関するものが多量に見つかる。彼らには1日に米が2升支給されていたことがわかる。三川(三河)や三野(美濃)という地名の木簡が多い。出身地ごとの集団で働いていた? 仕丁を扱った民部という役所が存在していた?
・浄御原宮の東の溝。天武10年~。ここでも木簡が多量に発見された。大津皇子、大伯、伊勢などという文字。日本書紀を編纂していた時の削りかす?
・宮の北西の苑池には島があるが、この周囲に柱があった。舞台が建てられていたと考えられる。木のお面や、川原寺と書かれた土器が見つかる。川原寺の伎楽(くれがく)の人たちがここで公演していた?
・藤原鎌足の墓と考えられるところから見つかった(棺に納められていた)ガラスのビーズで作った枕や刺繍入りの帽子はかなり位の上の人のもの。考古学的には鎌足の墓と考えられているが、文献学的には否定されている。別の場所に移し替えたという記録があるため。
・前期難波宮 万葉仮名が7世紀半ばまで遡ることが出土した木簡からわかった。(万葉仮名の成立は天武・持統朝と考えられていた)
・大津宮の遺構図はきちんと作成されているようだが、実はまだ調査されていない場所が多く、不正確。
・藤原京の地割は天武朝に始められていた。唐・新羅に大敗したことを受けて、天武天皇は東アジアでの国際的地位確立のため、『周礼』に書かれた理想の都を実現しようとした。

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