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『東京都同情塔』 - 九段理江

 文藝春秋2024年3月号に全文掲載されてるのでこっちで読んだ。1200円。単体だと1700円くらい。毎回思うんだけど芥川賞受賞作って文藝春秋で読んだ方が得じゃない? 値段が安い上に受賞者インタビューとか審査員の選評も載っててお得感ある。ただkindle版は3ヶ月くらいでストアから消えるっぽい。(一度買ったやつはライブラリにずっとあるので、発売後早めに買っておく必要がある。)
 「受賞のことば」は非常に良かった。六年生の時の話。

商業イベント/生成AIに対する批評性

 芥川賞なんて所詮、話題作ってなんぼの商業イベントだから、今回の授賞も最近流行りのLLMに一枚噛ませてその注目度にあやかりたいみたいな下心が見え見えだった。
 小説に生成AI使ったからって別に批評性が生じたりはしない。これは著者自身もインタビューで言っていたことだ。そんなこと意識してないしまず批評性の意味が分からずGoogleで検索したんだそう。

 「全体の5%は生成AIを利用して書いた」という発言がネットなどで「AIを使って書いた小説が芥川賞をとった」と曲解されて話題になったという話だが、そう盛り上げておいて自分で否定してみせるところまで含めてそもそも最初から全部文藝春秋社による演出だと思う。

 多くの人が小説など読まない・本を買わないという斜陽の中、芥川賞は少しでも世間の耳目を集め需要を掘り起こすためのカンフル剤としての役割を担わされている。退却戦の殿しんがりのようだ。苦しさが伝わってくる。
 しかし自分もたまたま話題になった時に思い出して受賞作読んでみるくらいだから、「話題づくり」「売り上げ促進」という本懐は果たしていると言えるのかも知れない。

本編について

 主人公、建築家・牧名沙羅の自意識がキモ過ぎて早々に読んでいられなくなった。最初に読者を引き込むための掴みの部分で逆に気持ちが離れる。その後ずっと話に入り込むことができず読み飛ばしがちになってしまい、著者が何を言いたいのか分からないまま終わった。
 自分でもさすがにどうかと思ったので二周目を読もうとしたが、やはり入ってこなくて止めた。

 冒頭のバベルの塔のくだりはすごく面白そうだったのだが。これこそ批評性を感じた。知らない人と繋がれるこのSNS時代に、言葉の通じない人が逆に増えるという現状を一部言い当てているようで。
 神に届くような偉業を二度と成し遂げることがないよう、人間たちは別々の言語を話すように分かたれ、不毛ないがみ合い・すれ違いに終始するようになる——。
 SNSは屹立したまま内部崩壊しているバベルの塔。そびえ立つクソだ。同じ言語を話していながら既にその意味するところは通じておらず空洞化した現状を象徴するかのように、崩れ去るのではなく形だけはただただ健在であるのだ、とかなんとかいう話ができそう。偽りの大義を掲げ、実現し得ない期待だけ持たせ、無意味な労力を空費させられるくらいなら、いっそ倒壊してくれた方が余程いいとかなんとか。

 しかしバベルの塔の寓話と本編の内容があまりマッチしていない(ように感じた)し、その後いろんな単語を日本語で言うか外来語のカタカナ呼びで言うかみたいなことを延々やってるんだけど、だから何なんだ?という気がした。単に僕の頭が悪くて読み取れてないだけの可能性がある。
 上滑りな外来語で何か言った気になって、そのシニフィエ意味するところのものについて想起できない本質的文盲の人たちを批判しているのだろうか。出来の悪いBOTみたいな人たちを生成AIと同じようなものだ(或いはそれ以下だ)と批判してみせているのかも知れない。

 ビジネスの世界でもルー大柴タイプ時々いますもんね。大した仕事してないのにカタカナ連発で何か新しいことやった気になってる奴。
 しかしやはりバベルの塔と寓意が一致してない気がする。

 主人公に建築家を選んだのは何故だろうか。
 建築家ってあくまでも静物に過ぎない自分の作品が動的な文脈の中でいかに機能し得るか、関係する人や物と如何に有機的に作用し合うのかをめちゃくちゃ考えてると思うんだけど(作中でも大凡おおよそそのような発言があった)、その建築というものを、言葉とか、AI(=一度構築されたきり限定的な有機性しか持たない贋造の知能)にかけてるんじゃないかと感じた。実際はどうだか分からない。

***

 ここまできて何だけど、最初に書いた通り精読したわけじゃないからある程度的を外してると思う。

 ホモ・ミゼラビリスのモチーフは気に入った。
 ジャニーズの問題などにもチラッと言及されていて同時代性がある。
 ザハ案の新国立競技場が完成している世界線なのは面白いと思った。ほとんど今いるこの世界が舞台なのに、ほんの少しだけ違う世界。

芥川賞の意義

 再び芥川賞の話。
 ピース又吉の『火花』はそこまで面白くはなかった(悪くもなかった)けど、その後ささやかながら芸人が文筆をやる流れができたことに大きな価値があったと感じている。Aマッソ加納やラランド西田が小説を書いていたのも又吉の受賞あってのことじゃないだろうか。お笑い芸人に別の方向性・選択肢が生まれたことをすごく歓迎してるし、これこそが賞の意義だと思う。近年じゃ一番意義のある授賞だった気がする。

 単なる話題作り・単なる売り上げ促進だったとしても、ちゃんと新しい価値を生み出してる。批評は何の価値も生まないけど、他人を評価することにはおおむね正の効果がある。

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