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妄想と、想像と、嘘と。

Our spirit is often led astray by its own delusions; it is even frightened by its own work, believes that it sees what it fears, and in the horror of night sees at last the objects which itself has produced.
しばしば私たちの精神は自らの妄想に迷わされる。自らの仕事のはずなのに怯え、ただ恐れているだけのものが見えたと信じ、ついには、夜の恐怖の中で、自らが生み出してしまったものを見始める。

ヴォルテール(訳は私訳)

年末である。師走と書く。師ではないけれど、ぼくも異常にいそがしい。今年の11月に、あることをきっかけに「いそがしいことを言い訳にしない」、と決めたから、必死で手を動かしている。noteを書いている時間があるのなら仕事をしなければならないのだぞ・・・と思いつつ、しかし、ある投稿を見て、ぼくは筆を取らざるを得ない思いに立たされた。

この人は、よほどのことがなければ、こんな言葉は吐かない。

記者会見ではどんな質問にもまっすぐ向き合い、記者との対話から自身の深部を抉り出して語ってくれる人だ。そのことは、番組制作時にインタビュー記事を何千と読んだからよく知っている。記者に、あるいは番組の制作者に、同じ「1つの道を極めようとする人」として接し、真摯に向き合う人だ。
(テレビの担当ディレクターがはじめましての挨拶をした時、「ジャンプの見極めからお願いします」と「宿題」を出すのも、そのくらいは軽々とクリアしてくれれば、あとは自分は応じますよ、という優しさだ。そしてその優しさに甘えてしまうのではなく、上司や周りの誰かに言われた通りに動くのではなく、ひたすら個と個として真摯に向き合うのがディレクターの責務だと思う。)

ただ、その真摯さや優しさは、こちら側=メディア側に、きちんと向き合う意思があれば、の話だ。

さきほどの、顔文字でなんとか中和しようとはされているものの、深い嘆きに満ちた投稿に書かれた、「記事になっててびっくりします」の「記事」とは、そうした、自身が答えたインタビュー記事とは全く違うものである。

インタビューでの回答で、何よりも自身の演技、トータルで演出する場で、自身から発することのできる限りのあらゆるものを発する人だからこそ、発していないもので構成されるものには、我慢がならない。我慢がならない異常に、理解ができない。自分が目指している表現の域とは全く違う、陳腐で邪悪な妄想、想像、嘘。それを記事として「報道」することができるのなら、何だって許されてしまう。

さて、この先はかなりメディアの闇を抉ることを書く。最初に挙げたヴォルテールの警句と、一番上に掲げた写真で、この先言おうと思っていることのほとんどは言い尽くされているから、これで伝わる人には伝わるかもしれないことを告げておく。だが、きっと多くの愚鈍で自分勝手で変化を他人に求めるクセに自分は変わろうとしないメディアには伝わらないだろうから、丁寧に書こうと思う。メディアではない多くの方にとっても、きっと分かって頂けると信じて。

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