ただの怪人

お念仏をつぶやいている怪しい人。クマではない。

ただの怪人

お念仏をつぶやいている怪しい人。クマではない。

最近の記事

いやらしい心でしか手を合わせるというふるまいができない

京都国立博物館で「親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞─生涯と名宝」という特別展が開催されているらしい。噂ではなかなか素晴らしい展示内容で自分も行ってみたいなと思っているけれども、年度の変わり目に加えて蓮如忌もあってまったく余裕がなかった。5月21日までらしいので、それまでにもし自由な時間が作れるようならと考えているが、カレンダーを眺めながらため息をついている。 先日、頻繁にお参りにいらっしゃる方と、御開山親鸞聖人と蓮如さんのお姿について話していたことがあった。よくお寺の境内に

    • 信心も安心も、必ずお念仏が聞こえる場所に

      それまでケロリとしていた方が、お勤めが始まるとすすり泣き、時には声をかみ殺して嗚咽される方がいらっしゃいます。それまではニコニコと世間に向けた表情に努めていらした方が、お取次ぎの途中から畳に伏せるようにその顔を両の手で覆って、お念仏される方がいらっしゃいます。 誰にも見せられない顔を、誰でも持ってます。自慢するようにわが身の愚かさを語るときには、その愚かさは本当の愚かさではありません。誰にも見られたくも知られたくもない愚かな顔を誰もが持っていて、それを世間に向けた表情の下に

      • お浄土に参られたあるおっちゃんのこと

        慈海宛の手紙が遺品の中から出てきたと、ご遺族の方から声をかけられた。 満中陰もとうに過ぎ、ご往生から半年以上たった今でも時折、お朝事やお夕事のお勤めの時に後ろにその方が座ってらっしゃる気がする時がある。お勤めが終わって振り向いてもやっぱり誰も座っていない。 なんとなくいつも座っていた香炉の前に向かって「どうやお浄土は?」と声をかけると「あんな生ぬるいところいてられんわ」と悪態をつきながらニカっと笑う顔がそこにあるように感じる。 道の駅ができて、吉崎はにわかに賑やかになっ

        • 「諸々の雑行雑修自力の心を振り捨てて・・・」 私は、そんな簡単で分かりやすいものにできるわけがなかった

          ご家族のご命日を確認するために、いつも財布に入れているであろうメモを、ゴソゴソと出してこられた。カバンに付いている鈴やらストラップがチャリチャリと音を鳴らした。 「ああ、もう13年経ってました」 財布の中でヨレヨレにならないように、セロテープでしっかり補強してあったそのメモには、その方のご兄弟とご両親のご命日が書かれていた。そういえば、私の母もいつも財布に祖母や祖父、そして叔父や叔母の命日をメモに書いて入れていた。どうしてそんなメモをいつも肌身離さず持っているのだろう。それは

        いやらしい心でしか手を合わせるというふるまいができない

          仏法に身をひたされた生活|『正信偈』という日常のお勤め

          浄土真宗門徒が朝な夕なにお勤めする『正信偈』は、蓮如上人が吉崎滞在時の1473(文明5)年に日常の勤行としてお定めになられました。今年はこの日常勤行が定められてからちょうど550年の節目となります。 『正信偈』は正式には『正信念仏偈』といい、御開山親鸞聖人が著述された『顯浄土真実教行証文類(教行信証)』の行巻末にある偈文です。日常のお勤めとしてはこの『正信偈』のあとに、節づけられたお念仏に合わせて、これもまた御開山聖人がお作りになられた『ご和讃』(浄土和讃、高僧和讃、正像末

          仏法に身をひたされた生活|『正信偈』という日常のお勤め

          とどまらずきえずたえず

          風邪をひいたのか、昨日からふとした時にふらつくことがあって、頭もほんのりと重かったのですが、今朝目を覚ますと天井がぐるぐる回っていて、横を向いたら部屋の壁がぐるぐる回っていて、頭痛もなおさら激しく、熱はないけれども寒気もしていました。 とりあえずトイレに行きたくなってきたのですが、しばらく布団から出れないまま、生理現象に抗いつつ、ぐるぐる回る天井を眺めていると、鈍重化している脳みその片隅のほうからするすると、お言葉が這い出して来るのでした。 「慈海というは 無明煩悩この身

          とどまらずきえずたえず

          「唯除」といふはただ除くといふことばなりといへり

          雪が降り、吉崎別院にも雪が積もりました。歩けないほどではないけれども、境内を進むには少々難儀するくらいの雪が積もりました。堂縁にも雪が吹き込み、凍って、溶けて、べちゃべちゃになりました。雪かきは毎年のことですし、堂縁がぐちゃぐちゃになるのにも、最初は閉口していましたが、今では慣れてしまいました。慣れてしまうことは、手の抜き方をおぼえるということでもあります。適度に手を抜くことが悪いわけではないかもしれないけれども、手を抜くことに慣れすぎるのはよろしくありません。この時期はお参

          「唯除」といふはただ除くといふことばなりといへり

          今年の目標は「今年の目標はFacebookにあまり長文を書かない」なので、note にあんなことやこんなことを書こうと思います。 大声で言いたいことや、ごにょごにょした話なんかも。 なんまんだぶ

          今年の目標は「今年の目標はFacebookにあまり長文を書かない」なので、note にあんなことやこんなことを書こうと思います。 大声で言いたいことや、ごにょごにょした話なんかも。 なんまんだぶ

          いくつになろうとも「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と申すばかりなり」と聞かされます。

          今年で49歳になります。数えで言えば50です。 なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ 「自力の念仏といふは、念仏おほく申して仏にまゐらせ、この申したる功徳にて仏のたすけたまはんずるやうにおもうてとなふるなり。他力といふは、弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御たすけにあづかるなり。」 はい。 「そののち念仏申すは、御たすけありたるありがたさありがたさと思ふこころをよろこびて、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と申すばかりなり。」 なんまんだぶ 「されば他力とは他のちから

          いくつになろうとも「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と申すばかりなり」と聞かされます。