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4年前期 東洋史学(水2)オスマン朝02

配布資料

1566-1612のオスマン帝国の版図


目標:オスマン朝はどのような王朝なのか?

クレタ戦争で1646年にクレタ島を取って最大版図に

授業の位置づけ

高校世界史の問題点
・西洋中心史観
「19世紀後半になって初めて、ヨーロッパの「世界制覇」が実現されることによって始まる「世界の一体化」が大航海時代によって開幕したかのような記述」
「16世紀以降は近代のヨーロッパ、主権国家体制に記述が偏っている」
「アジア世界は(抵抗運動が)断片的に触れられるだけ」
「「西洋の衝撃」を得て初めて近代化」

・16世紀~19世紀の近世(近代の始め)の記述が少ない
ヨーロッパとアジアの均衡が保たれていた
交流が盛ん

なぜオスマン朝史? 近世におけるオスマン朝史の意義とは?

地域

1299年~1922年
Anadoluのブルサ周辺地域の支配から始まる
Rumeli=バルカン地域
Bosna=ボスニア=今のヨーロッパ
Belgrade=ベルグラード
ウィーンの近くまで
ハプスブルク家オーストリアより南
Moldavia, Wallachia, Trans…支配地域
Krim Khan=クリミア…オスマン朝の属国
Baghdad, Basra…ペルシア湾に繋がるところも抑えている
Mecca, Medina…2大聖地(及び対岸)
Egypt, Tripoli, Tunis, Algiers(アルジェリア)…地中海
Kibris(キプロス)…エーゲ海
Azerbayjan, エルサレム…現代の国際紛争の舞台

通史

プレヴェザ、レパント(1571年)の後の、16世紀末以降衰退
19世紀に「西洋の衝撃」を受けて近代化(西洋化)することで新たな歴史を歩み始める by 欧米学会中心
16世紀に話が終わって19世紀に近代化の話と一緒に隆盛←教科書の問題と同じ?

スレイマン1世(16世紀)の全盛期以降は研究盛んではないカルロヴィッツ条約1699年(ヨーロッパとオスマン朝の力関係が逆転)
(本来はその後も隆盛は続くのに、西洋の学会の認識が日本の教科書の歴史観に)
タンズィマート1839~1876

史料

地中海の重要性について

レパントの海戦はギリシアの溝=地中海
→オスマン朝とヨーロッパの関係において地中海は重要

マルタ会議
Sicily島, Malta島
マルタ島…
(外務省の丸太に関する基礎データによると、)
淡路島の半分、人口は52万人(札幌未満)
公用語:英語、マルタ語
→マルタ語はアラビア語の方言、ラテン語の語が流入
→北アフリカの影響を受けている
宗教:カトリック
歴史:
古代はフェニキア人、ローマ帝国の一部、ゲルマン民族、9世紀はアラブ人、11世紀末はノルマン人、16世紀前半は聖ヨハネ騎士団(元はロードスRhodes島にいたがオスマン朝が征服してマルタ島へ、カトリック教徒としてエルサレム巡礼者の保護、後に海賊化)18世紀はナポレオン、19世紀以降は英国領

地中海は、諸勢力が工作する場であった

近世の地中海

オスマン朝が領土最大域

オスマン朝とは何か

トルコ系のとは

トルコ系、トゥルク系→オスマン・トルコ(オスマン=トルコ)

トルコ Turkish …アナトリアに移動した後の人
トュルク Turkic …中央アジアのトルコ系諸民族すべて含む
Turkish ⊂ Trukic

トュルク系、トルコ系からオスマン朝へ

元は突厥という遊牧民
テュルクを自称
モンゴル高原からアナトリアへ

東ウイグル国(8~9世紀)
西ウイグル国(9~13世紀終わり)→オアシス地帯で(ステップ、緑地)農業、都市農村

イラン系の言語・文化がトルコ化
中央ユーラシア=トルキスタン=「トュルク人の住む土地」

トュルク系トップの称号=可汗カガン
テングリという神から幸運を授けられ支配を命じられている
カリスマ的な権威
役割:トュル(慣習法)に基づき国家を平和に納める
モンゴル帝国、オスマン朝に受けづかれる

中央ユーラシア
拝火教ゾロアスター教、景教ネストリウス派キリスト教、二元論のマニ教、仏教
8世紀後半からイスラーム化
トュルク系もイスラームに改宗
カラ・ハン朝 …最初のトルコ系イスラーム王朝
アナトリアまで行く

オグズ族( ⊂ テュルク系諸民族 )
イランを中心として移住した人
トップの人=セルジューク→セルジューク朝(11c~12c)へ
イランからペルシア湾、アナトリアまで支配

マラーズィギルトの戦い1071年
v.s.北のビザンツ帝国、勝利
遊牧生活を送る
海の方にも進出
アナトリアに来た
ビザンツ帝国の勢力下だったがトルコ化
イスラーム化

セルジューク朝のアナトリア侵攻後…
トルコ系小国分裂状態
ルーム・セルジューク朝

ルーム=ローマ
東ローマ帝国の勢力下にあったから

1243年、モンゴル軍のアナトリア侵攻
イルハン朝が影響力を行使
トュルク系小国家が乱立

王がbey
beylic ベイリク
君侯
オスマン侯国=オスマン・ベイ


オスマン侯国が周辺地域を征服

オスマン朝の地方統治

中央集権
直轄領+属国

属国 …オスマン朝の支配権はあるが直接支配はしない
中東、地中海はすべて属国

直轄領 …エヤーレト(州)が32
e.g. アナトル・エヤーレト, エジプト・エヤーレト
中央からベイレルベイ州総督 (ベイの中のベイ)

エヤーレト = 直接支配(サンジャワ(県)) + 間接支配
直接支配地 …アナトリア、バルカン、シリア
中央からサンジャクベイ県知事(シャンジャクのベイ)
エヤーレトの中にいくつかのサンジャクが点々とある

直接支配地の政治
<軍事>州エヤーレト、サンジャワ
<民政>郡カザー(カーディーイスラーム法官を中央から派遣)
法官は中央で養成

間接支配…アルジェリア、チュニジア、トリポリ、バグダート

間接支配地の政治
<軍事>州総督のみ
<民政>現地任せ


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