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量子論のお勉強①


はじめに

本稿は、量子論の基礎から応用、そして哲学的意味までを幅広く探求することを目的としています。

量子論は、20世紀初頭に誕生した物理学の理論ですが、その影響は物理学の枠を大きく超えて、私たちの世界観そのものを根底から覆すものと言っても過言ではありません。本稿では、そのような量子論の革新性と可能性を、できるかぎりわかりやすく伝えることを目指しました。

第1章から第3章までは、量子論の基礎的な概念と原理を説明します。古典物理学の限界、量子仮説の登場、不確定性原理、波動関数、観測問題など、量子論の핵心的なアイデアを丁寧に解説していきます。また、量子コンピューターや量子暗号など、量子論の応用可能性についても探ります。

第4章から第6章までは、量子論の意味するところを、より広い文脈で考察します。量子論と宇宙論の関係、量子論から見た意識の問題、量子論が示唆する新しい世界像など、量子論の哲学的・思想的な意味合いに迫ります。

本稿全体を通して強調しているのは、量子論が私たちに突きつける「問い」の重要性です。量子論は、単に自然を記述する新しい言語ではありません。それは、私たちの常識的な世界の見方を根底から問い直し、新しい世界観と生き方の可能性を提示してくれるのです。

還元主義から全体論へ、確実性から不確実性へ、物質から情報へ。量子論は、このような思考の転換を促します。また、世界から切り離された観測者ではなく、世界と一体となった参加者としての自己というビジョンも、量子論から導かれるものでしょう。

このように、量子論の探求は、物理学の探求であると同時に、私たち自身の探求でもあります。それは、「世界とは何か」「自分とは何か」という根源的な問いに、新しい視点から光を当てる試みなのです。

本稿は、私自身の探究の一つではありますが、こちらを読まれる皆さんにも既存の枠組みにあてはまらない量子論に興味を持っていただける一つきっかけとなれば幸いです。全6回程度に分けて投稿する予定です。

第1章 古典物理学の限界と量子論の誕生

1.1 古典物理学の世界観 〜 決定論と連続性

私たちが日常生活で目にする世界は、まるで精巧な時計仕掛けのように、規則正しく動いているように見えます。朝になれば太陽が昇り、リンゴを手放せば地面に向かって落ちていく。こうした世界の仕組みを解き明かそうとしたのが、アイザック・ニュートンに代表される古典物理学です。

古典物理学では、世界はあたかも巨大な機械のようにとらえられました。宇宙を構成するすべての物質は、ニュートンの運動方程式に従って、過去から未来へと一意に決定される運動をすると考えられたのです。これを決定論と呼びます。

決定論の世界観は、私たちの日常感覚とも合致しています。ビリヤードの玉を打てば、その動きは初期条件(玉の位置と速度)によって一意に決まります。玉の運動を逆にたどれば、その初期条件を知ることができます。つまり、現在の状態を完全に知ることができれば、未来も過去も確定しているというわけです。

また、古典物理学では、物質やエネルギーは連続的に変化すると考えられていました。例えば、水道の蛇口をゆっくりと開いていくと、水の流れは徐々に強くなっていきます。温度計の水銀も、熱せられるにつれてすこしずつ上昇していきます。このように、世界は滑らかで切れ目のない変化の連続体であると見なされていたのです。

1.2 原子の謎 〜 古典物理学では説明できない現象

 しかし19世紀末になると、古典物理学では説明できない現象が次々と発見されるようになりました。それが原子をめぐる謎です。

原子は、物質を構成する最小単位として、古代ギリシャの時代から考えられてきました。しかし、その実態は長らく謎に包まれていました。19世紀になって、化学反応の法則から、原子の存在が間接的に示唆されるようになります。しかし、原子そのものを直接観察することはできませんでした。

原子の存在が明らかになるにつれ、物理学者たちは原子の性質を解明しようと試みます。しかし、彼らが出会ったのは、古典物理学の常識では理解できない次のような奇妙な現象でした。

 1.2.1 原子の安定性問題

原子は、正の電荷を持つ原子核と、その周りを回る負の電荷を持つ電子から構成されています。しかし古典物理学によれば、電子は原子核の周りを回り続けることができません。

電子が原子核の周りを回ると、運動の方向が変化します。古典物理学では、加速度運動をする荷電粒子は、電磁波を放出してエネルギーを失うことが知られています。つまり電子は、電磁波を放出し続けることで、徐々にエネルギーを失っていき、やがて原子核に落下してしまうはずなのです。

私たちの日常感覚に例えるなら、こうです。ブランコに乗った子どもが、こぐのをやめると、徐々に運動エネルギーを失っていき、最後にはブランコが止まってしまう。原子核の周りを回る電子も、それと同じようにいずれは止まってしまうはずなのです。

しかし、現実の原子は、電子が原子核に落下することなく安定的に存在しています。これは、古典物理学の予想とは真っ向から矛盾する事実でした。原子の安定性は、当時の物理学者にとって大きな謎だったのです。

 1.2.2 黒体放射の問題と「紫外域の悲劇」

19世紀末、物理学者たちは、黒体放射の問題に悩まされることになります。黒体放射とは、加熱された物体が放出する電磁波のことです。黒体とは、外から当たった光をすべて吸収し、一切反射しない理想的な物体を指します。

物体を加熱すると、赤外線から可視光線、そして紫外線へと、放射される電磁波の波長が短くなっていきます。金属を溶鉱炉で熱すると、最初は赤く光り、徐々に白く輝くようになるのは、そのためです。

古典物理学では、黒体放射のスペクトル(波長ごとのエネルギー分布)を計算することができます。しかし、計算の結果は、実験で観測されるスペクトルとは大きく異なっていました。

特に問題だったのが、短波長域でのエネルギー密度です。古典理論による計算では、波長が短くなるほど、黒体が放出するエネルギーが指数関数的に大きくなっていくのです。つまり紫外線領域では、黒体が無限大のエネルギーを放出することになります。これは「紫外域の悲劇」と呼ばれました。

実際には、そのようなことは起こりません。黒体放射の実験では、ある波長を境に、放射エネルギーが急激に減少していくことが観測されていました。古典物理学は、黒体放射の説明に完全に失敗したのです。

黒体放射の問題は、古典物理学の「限界」を象徴する難問となりました。それは、エネルギーという物理学の最も基本的な概念に関わる問題だったのです。

 1.2.3 光電効果の不思議

光電効果とは、物質に光を当てると、電子が飛び出してくる現象です。1887年、ハインリッヒ・ヘルツによって発見されました。

当初、物理学者たちは、光電効果を古典物理学の枠組みで説明しようとしました。彼らは、光を電磁波の一種とみなし、金属に当たった光の波が、電子をじわじわと揺さぶることで、電子を金属からはじき飛ばすのだと考えました。

しかし、実験で観測された光電効果の振る舞いは、古典的な描像とは大きくかけ離れていました。

第一に、光電効果には「しきい値」があることがわかりました。ある一定の振動数(波長の逆数)よりも低い振動数の光を当てても、電子は決して飛び出してこないのです。たとえ光の強度(波の振幅の二乗に比例)を上げても、電子は金属内にとどまり続けます。

これは、海辺の砂で作った山に例えると理解しやすいでしょう。砂山を崩すためには、ある一定以上の波の大きさが必要です。小さな波では、いくら波の数を増やしても、砂山を崩すことはできません。光電効果でも、ある一定の振動数に満たない光は、電子を金属からはじき出すだけのエネルギーを持っていないことになります。

第二に、しきい値を超える振動数の光を当てた場合、光の強度を上げても、飛び出す電子の運動エネルギーが大きくならないことがわかりました。古典的な描像では、光の強度を上げれば、電子はより大きなエネルギーを受け取り、速く飛び出していくはずです。しかし実験では、光の強度に関係なく、電子の運動エネルギーは一定でした。

砂山の例で言えば、波の大きさを超えた分の波のエネルギーは、砂を遠くまで運ぶのではなく、より多くの砂を一度に崩すことに使われる。光電効果でも、しきい値を超えた分の光のエネルギーは、電子の運動エネルギーを大きくするのではなく、より多くの電子を金属からはじき出すことに使われるようなのです。

第三に、光電効果は瞬時に起こることが明らかになりました。光を当てた途端、電子が飛び出してくるのです。これは、光の波が電子を徐々に揺さぶって、やがて飛び出させるという古典的な描像からは、大きくかけ離れています。

これらの事実は、古典物理学の常識では全く理解できないものでした。光電効果は、光の本性について根本的な疑問を突きつけたのです。

1.3 量子の登場 〜 科学者たちの挑戦

 原子の安定性や黒体放射、光電効果など、古典物理学の限界を示す現象に直面した物理学者たちは、これらの難問に果敢に挑戦します。彼らの知的探究心は、やがて「量子」という新しい概念の発見へとつながっていくのです。

 1.3.1 プランクの量子仮説

黒体放射の問題に取り組んでいたのが、ドイツの物理学者マックス・プランクでした。プランクは、熱力学の専門家として知られ、黒体放射の法則性を実験データから導き出そうとしていました。

しかし、彼は古典物理学の枠組みの中では、黒体放射の説明がつかないことを思い知ります。そこでプランクは、ある大胆な仮説を導入することを決意したのです。

彼が1900年に提唱した仮説は、こうです。「黒体を構成する原子は、連続的なエネルギーを持つのではなく、一定の大きさのエネルギーの塊(量子)しか持たない」。つまり、原子が放出したり吸収したりできるエネルギーは、ある「最小単位」の整数倍に限られるというのです。

この最小単位のエネルギーは、プランク定数 h と呼ばれる基本定数を用いて、ε= hν(νは振動数)と表されます。振動数が高いほど、エネルギー量子の大きさも大きくなります。

プランクの量子仮説は、エネルギーが連続的に変化するという古典物理学の常識を根底から覆すものでした。彼自身、当初はこの仮説を単なる数学的なテクニックとしか考えていませんでした。

しかし、プランクの公式を用いて黒体放射のスペクトルを計算してみると、驚くべきことに、実験データとぴったりと一致したのです。黒体放射の「紫外域の悲劇」は、プランクの量子仮説によって見事に解決されました。

プランクの量子仮説は、古典物理学の連続性の概念に、最初の亀裂を生じさせました。それは、20世紀物理学革命の幕開けを告げる出来事でした。

 1.3.2 アインシュタインと光量子の発見

量子仮説に真の物理的意味を与えたのが、アルバート・アインシュタインでした。彼は、光電効果の謎に挑むことから、量子概念の重要性に気づいたのです。

1905年、アインシュタインは「光量子仮説」を提唱します。彼の主張はこうです。「光は波ではなく、エネルギーの粒(光量子)の流れである」。つまり光は、粒子的な性質を持っているというのです。

この仮説は、当時の物理学者にとって衝撃的なものでした。19世紀までに、光の回折や干渉など、光が波としての性質を示す現象が数多く知られていたからです。それにもかかわらず、アインシュタインは光を粒子とみなすことを提案したのです。

アインシュタインの光量子仮説は、光電効果の不思議をみごとに説明します。光量子のエネルギーは、プランク定数 h と光の振動数 ν を用いて、ε= hνで与えられます。この式は、まさにプランクの式と同じ形をしています。

ある金属に光を当てたとき、光量子のエネルギーがある値(仕事関数)を超えていれば、光量子は電子に全エネルギーを一度に与え、電子を金属からたたき出します。光量子のエネルギーが仕事関数に満たなければ、どんなに光を当てても、電子は金属内にとどまり続けるのです。

また、しきい値を超えた分の光量子のエネルギーは、電子の運動エネルギーとなります。より短波長(高振動数)の光は、より大きな運動エネルギーを電子に与えるわけです。

アインシュタインの光量子仮説は、光電効果の「しきい値の存在」「電子のエネルギーが光の振動数のみに依存すること」を見事に説明したのです。それは、古典波動論では決して導けない帰結でした。

アインシュタインの業績は、「光は粒子である」という革新的なアイデアを、物理学の世界に持ち込みました。彼の光量子仮説は、後に実験でも確かめられ、光の粒子性が確立されることになります。

 1.3.3 ボーアの原子模型

量子仮説は、原子の安定性の謎にも新たな光を当てました。その主役となったのが、デンマークの物理学者ニールス・ボーアです。

ボーアは、原子を構成する電子のエネルギーが、量子化されているというアイデアを導入します。つまり電子のエネルギーは、ある決まった値しかとれない、というのです。

この考えを基に、ボーアは1913年、独自の原子模型を提唱しました。それがボーア模型です。ボーア模型では、電子は原子核の周りのいくつかの決まった軌道上を飛び回っており、その軌道は量子化された状態に対応しています。

各軌道に対応するエネルギー準位は、基底状態(エネルギーが最小の状態)から始まって、段階的に高くなっていきます。電子は、軌道を遷移することで、エネルギーを放出したり吸収したりします。

電子が高いエネルギー準位から低いエネルギー準位に遷移すると、その差に相当するエネルギーが光(電磁波)として放出されます。逆に、光を吸収すると、電子は低いエネルギー準位から高いエネルギー準位に移ります。

このような遷移は不連続に起こります。連続的なエネルギーの変化は許されないのです。まるで、はしごを一段一段昇り降りするように、電子はある決まったエネルギーの状態の間を飛び移るのです。

電子が一番低いエネルギー状態(基底状態)にあるとき、それ以上エネルギーを放出することはできません。これが、原子が安定に存在できる理由です。電子が基底状態より下に落ち込むことは、量子化された軌道の存在によって禁止されているのです。

ボーアの原子模型は、原子からの光の放射(発光スペクトル)に関する多くの実験事実を見事に説明しました。水素原子のスペクトルに現れる複雑な線の間隔が、ボーア模型から計算した遷移エネルギーとぴったり一致したのです。

ボーアの功績は、原子の世界が古典物理学とは異なる独特の法則に支配されていることを明らかにしたことにあります。量子化された軌道というアイデアは、私たちの日常感覚からはかけ離れた、ミクロの世界の奇妙な姿を浮き彫りにしたのです。

コラム:科学者たちの苦悩と喜び 〜 量子論誕生の舞台裏

量子概念の登場は、多くの科学者たちを戸惑わせました。それは、古典物理学の描く世界像があまりにも自明のものと考えられてきたからです。そのような常識が根底から覆されるとき、科学者たちは、大きな知的な葛藤に直面したのです。

プランクは、エネルギー量子化の仮説を提唱した後、その物理的な意味を理解することに苦しみました。彼はこう述懐しています。「私は、自分の発見に絶望しました。……何かが私の中で音を立てて崩れ落ちたようでした」。

一方、アインシュタインは、光量子の実在を直感的に信じていました。彼はこう語っています。「私には、光量子の概念を理解するのに、何の困難もありませんでした。私はすぐに、それが正しいに違いないと確信したのです」。しかし、彼の光量子仮説は、当時の多くの物理学者から受け入れられませんでした。

ボーアは、原子模型を発表した後も、その理論的な根拠に悩み続けました。彼は、量子の世界と古典の世界の間に横たわる深い断絶に、とまどいを感じていたのです。

科学者たちは、新しいアイデアを受け入れることの難しさと、同時に、その真理を追究する喜びを、身をもって体験したのでした。彼らの知的誠実さが、量子論の扉を開いたのです。量子論の歴史は、パラダイムシフトに伴う科学者の苦悩と歓喜の記録でもあるのです。

以上が量子論誕生までの物語です。古典物理学の限界を示す現象から、プランク、アインシュタイン、ボーアといった天才科学者たちが、量子の概念を導入することで、新しいものの見方を切り拓いていった過程をたどってきました。

量子論の登場は、単なる物理学の一分野の誕生ではありません。それは、人類が自然を理解する方法そのものを根本から変える、科学史の大変革の始まりだったのです。

量子論が明らかにしたのは、私たちの日常感覚では捉えられない、ミクロな世界の不思議な姿でした。粒子は波として振る舞い、観測者の介入なしには現実が確定しない。因果律や決定論といった古典物理学の常識は、もはや通用しません。

しかし同時に、そのような常識外れの姿こそが、私たちの世界を支える本当の姿なのかもしれません。量子論は、私たちに自然の新しい見方を提供してくれるのです。

量子論の旅は、ここから始まります。不確定性と確率に支配された、量子の世界へと分け入っていく旅。古典的な世界観を捨て去り、新しい自然観を獲得していく冒険。それは、単なる物理の話ではなく、世界の見方そのものを問い直す、思索の旅でもあるのです。

次章からは、量子論の基本原理と、それが切り拓く新しい世界像を見ていくことにします。

(次回以降の投稿とします。)

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