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「日本人とユダヤ人」講読


             野阿梓


   第十四講  ディプロストーン


    1
 
文庫版には、
 
「最も古い例をあげれば、エジプトのアレクサンドリアにおけるディプロストーンの破壊といわれる事件であろう。アレクサンドロス大王はユダヤ人を重く用い、彼が新設したアレクサンドリアの町では、ユダヤ人にマケドニア・ギリシヤ人と同じ特権を与えたといわれる。「同じ」といっても、実践上は政治の特権はギリシア人がもって支配階級となり、その一級下で経済機構を運営するのがユダヤ人の役目になった。ユダヤ人はいつしか全エジプトの経済を握り、今の言葉でいえば国立銀行総裁や輸出入公団総裁のような地位まで占めるようになった。そしてユダヤ人商工ギルド連合会事務所ともいうべきディプロストーンが設けられ、これには付属工場と倉庫群があり、その威容は全東方を圧するほどで、「ディプロストーンと見ずに、壮大なものを見たというな」という言葉さえあった。だがマケドニア植民地帝国とこれを受け継いだプトレマイオス朝の衰退と共に、来るべきものが来た。ちょうどインドネシアにおける華僑への迫害と同じである。ディプロストーンは破壊され略奪され、全市にユダヤ人の血が流れた。これが、キリスト教期以前のことだということも注意していただきたい。ユダヤ人迫害を単純にキリスト教徒の宗教的偏見と考えてはならないのである」(一八三頁)
 
――とあります。
 
「ディプロストーン」。なんかカッコよさげな言葉の響きです。しかしながら、最初にこれを読んで以来、七〇年代を通じて、私は、あれこれ調べてみたのですが、「ディプロストーン」という単語が世界史の事典や、百科事典で出てきたのを見たことがありませんでした。七一年に初めて判らないのは、それは自分の年齢に相応の未熟さ、無知無学によるもので、仕方ないのか、と思い、じゃあ、きっと大学に行けば誰か教えてくれる、くらいに考えていたのです。ところが、大学でも判らない。図書館にもないし、知っている人もいない。これには正直、少し驚きました。
うちの大学は、中高大一貫のミッション校ですから、その図書館は、少なくとも他の大学よりは、キリスト教やユダヤ教に関係した蔵書は多いはずですが、それでも、ない。大学を卒えた私は、国立大学の図書館に勤務したのですが、驚くなかれ、そこでも判らないのです。要するに、一般の大学図書館の資料にも、「ディプロストーン」という事物やその破壊については、何ひとつ出てこない、ということが判りました。正直、今もって判りません。
 
おそらくユダヤ人なら、すぐに判るのでしょうが、あいにく、私の交友範囲でユダヤ人の留学生は一人もいませんでした。いや、ユダヤ人でなくても、うちの大学には神学部がある。神学部の学生や教師なら判るのではないか。しかし当時、そこは本学キャンパスとは離れた場所にあったので、本学との交流がなく、判る人がいたとしても、神学部の誰かれに聞く、ということも不可能でした。爾来、半世紀、私はこの言葉の意味が判らないままで過ごしてきたのです。
この講読のために「日本人とユダヤ人」の章を見ながら、キーワードをピックアップして、やはり、これに触れないわけにはいかないだろう。と思って、今の自分なら、昔より少しは有識者の知り合いもいるし、ネットだってある。そこでまず、私より該博な知識をもつ、ユダヤのカバラなどにも詳しい友人に照会したのですが、回答はネガティヴでした。その人に判らないなら、おそらく、相当な専門的ユダヤの歴史などに詳しい世界史の教授クラスでないと判らないのではないか、と思ったものです。
残念ながら、そういう知り合いはいないのですが、私の友人に、在野の研究者ながら、十数カ国語に通暁している人がいて、彼は古代の宗教や歴史などにも詳しいので訊いてみました。
 
その友人が言うには、
 
1)固有名詞である
2)ギリシャ語と思われる(プトレマイオス朝の公用語による)
3)翻字すれば「diploston」だろうが、意味はよく判らない
4)「diplo-」は、ギリシア語の「二重、二倍」という意味の形容詞か接頭辞である
5)だが「ston」の意味が不明である
5―1)「オーン」で終わる名詞主格は、二つの例で、神殿がそういう語尾になっている
   eg:パルテノーン神殿、メートロオーン(キュベレー)神殿
5―2)「オーン -oon」が主格だと、神殿のような意味がある。ディプロストーンは、「二重神神殿」「二倍神殿」「二重神殿」のような意味の響があるが、stoon の-st-というのが何か分からない
5―3)diplostonをギリシャ語(Διπλωστον)に戻して検索しても、ヒットしない
6)ラテン文字で検索すると、アレクサンドリアにあった、世界一大きなシナゴーグの名前として出てくるが、きわめてヒット数が少ない
7)検索すると、「ディプロストーンを見たことがなければ、イスラエルの栄誉/栄光を知ったことにならない」(“if you have not seen the diploston of Alexandria in Egypt, you have not seen the honor/glory of Israel.”)という格言がヒットする
8)おそらく、この格言は、ヘブライ語で、タルムードかミシュラーにあり、紀元前3世紀以降の数世紀間に成立したものである
8―1)アレクサンドリアに存在したもので、世界に広がっていたディアスポラ・ユダヤ人のコミュニティが、プトレマイオス朝で、驚くべき巨大なシナゴーグ・神殿を持っていて、これが、ギリシア語で、ディプロストーンという名だったと思える
9)何故ラテン文字で検索してヒットしないかという理由は、おそらくヘブライ語になっているからだと思える。ヘブライ語では、別の形になっているか、あるいはヘブライ語のままで使われているのかも知れない
10)ベンダサンはヘブライ語で、このシナゴーグの格言を読んで、それを日本語に書いたのだと思える。何故、ユダヤ教徒が、diploston という言葉を使わないのか、何故、日本語のユダヤ教研究者や、ユダヤ人の歴史研究者が、この言葉を使わないのか不明である(ラテン文字の文献があれば、必ずネット検索で1件くらいはヒットするはずだが、1つもそれがない)
 
友人の補遺的意見として、
11)検索すると、ある歴史小説に出てくるので、歴史的根拠のない、作者の創作かも知れない
11―1)ヘブライ語で書かれているので、ラテン文字ではヒットしないのか、または、近代に書かれた小説に出てくる名前で、この小説を読んだ人は知っているが、歴史ではないので、一般にヒットしない可能性はある
 
――とのことでした。
 
実を言うと、私も、この「小説」なるものは検索して存在を知っていました。アンドリュー・ラマーという現代作家で、Amazon には彼の英文の本が十冊ほどありますが、その内「トーラは違うことを語る(Torah Told Different)」(一六年刊)は、グーグルブックで公開され、さらにネット上で公開されている「言葉の家(HOUSE OF WORDS)」ページには、この本の一部抜粋があります。そこで、二人の若い男女の会話に「ディプロストーン・シナゴーグ(Diploston Synagogue)」という言葉が出てきます。しかし史実ではないフィクションだ、という(当然の)理由で、私は捨象していたのです。
 
このラマーという人のプロフィールがネットにありましたが、
 
「五一年生まれのユダヤ人で、カリフォルニア大学バークレー校を七三年に卒、専攻は宗教学です。今はチャネラーおよび天使学者であり、サンフランシスコ・ベイエリアで瞑想とゲイの精神性を教え始め、ワークショップを開き、タントラなどのオカルト技術を同性愛主義に結びつけようとしています」
 
――とあるのを知って、それ以上の関心を失ないました。別にゲイであることはいいのですが、精神世界は私は苦手なので、敬遠しました。友人はもっと古い人だと思っていたようですが、五一年生まれなら、七〇年に刊行された「日本人とユダヤ人」が言及するほどの作品を、その年で書いていたとも思えません(経歴で見れば、当時まだ在学中です)。
また、(ベンダサンが言った)格言についても、おそらくこれが出典に近いのだろう、と思われるサイトを既に私も見ていました。

   2
 
「diploston」で検索すると、「女性のためのタルムード研究の推進」なるサイトがあり、その英文ページに「Seeing is believing: Sukkah 51 March 26, 2014 | כ״ד באדר ב׳ תשע״ד / Shulie Mishkin(見ることは信じること:スカー51 二〇一四年三月二六日 /シュリー・ミシュキン)」いうのがあり、そこでディプロストーンが言及されています。略述すると、
 
「百聞は一見にしかず:スカー五一(Sukkahとは多分ミシュナーのサブ項目と思しい)
 
その最上級のリスト(最も偉大な集会、最も偉大な建物など)の中に、私たちのゲマラはアレクサンドリアの大シナゴーグを含んでいます。「もしあなたがエジプトのアレクサンドリアの大シナゴーグを見たことがなければ、あなたはイスラエルの名誉と栄光を見たといえない」
そして、一〇〇万人以上の住民を収容することができるシナゴーグの素晴らしい、誇張された記述があります。旗を使って群衆に「アーメン」と合図するのです。この話の中で私が最も気に入っているのは、貧しい見知らぬ人が来たときに、その人が直接その職業のセクションに行って、助けや仕事のヒントを得ることができるように、人々が職業別に座っていたことです。
アレキサンドリアのコミュニティは、このような素晴らしい建築物を持っていたのでしょうか? アレクサンドリアは、古代世界の主要都市の一つであり、今日でも地中海沿岸に位置するエジプト第二の都市です。(以下略)」(私訳)
 
この記事の記者のシュリー・ミシュキン女史は、コロンビア大学でユダヤ史の修士号を取得し、ニューヨークからアリヤー(イスラエルへの移民)をしました。九七年に観光省のガイドコースを修了した後、プロのツァーコンダクターを勤めています。ガイド業務の傍ら、彼女はエルサレムのパルデスとマタン、エフラートのウィメンズ・ベット・ミドラーシュで「ツアーとテキスト」のコースを教えており、「ダークアイヌ」プログラムでは、特別なニーズのある生徒のためのツアーを提供している由です。おそらくユダヤ教徒だと思われます。
 
要するに、この用語を使っている人たちは、みなユダヤ人であり、学問として以前に、私たちが知り得ない、タルムードやミシュナーなどに日常的に接しているわけです。そして、主要なユダヤ文献であるバビロニア・タルムードなどは、ヘブライ語原典が英訳され、ネットで公開されているのに、検索してもヒットしない。ということは、よほど特殊な事情があるのだろう、と思うしかありません。
 
ヒントとしては、引用文の中の「プトレマイオス朝の衰退と共に、来るべきものが来た」という文言があります。言うまでもなく、プトレマイオス王朝最後のファラオはクレオパトラ七世ですから、その死と王朝の最期は紀元前三〇年です。だとすると、それ以後の出来事としか考えにくいのですが、しかし、これには罠があり、クレオパトラとカエサルが出会った時に、アレクサンドリアは惨憺たる災厄に見舞われてしまっているのです。当時は姉弟がそろってファラオとなり共同統治する、という形が普通でしたから、クレオパトラも弟のプトレマイオス一三世と姉弟婚をなして、強国ローマとの同盟を目指すも、弟王の取り巻きと政治的齟齬を来し、王朝末期のエジプトはいつもそうなのですが、政情不安定となっていました。親ローマのクレオパトラを嫌ったアレクサンドリア市民によるクーデタ勃発に乗じて、弟王とその取り巻きは、クレオパトラを東部国境のペルシオンに追い払います。
 
そこに同じく内戦中のローマからカエサルが来ます。三頭政治が内一人クラッススの死によって均衡が崩れ、両雄並び立たぬカエサルとポンペイウスとの間で戦乱が勃発し、当初、元老院と結んだポンペイウスが有利に見えた(当時、カエサルはガリアにあった)のですが、ルビコン川を渡ったカエサルは破竹の勢いでローマに迫り、市内に軍を置かない決まりのローマにいたポンペイウスは即応する軍団編成ができず、無責任な元老院らと共に敗走します。
最終的にポンペイウスはエジプトへ逃れ、カエサルもそれを追って内乱真っ只中のアレクサンドリアに上陸。その間に、ポンペイウスはエジプトの内戦に巻きこまれ、プトレマイオス派に暗殺されます。ちなみにカエサルは娘ユリアをポンペイウスに嫁がせて政略関係を築いたのですが、彼女の死とパルティア遠征中のクラッススが戦死したことでバランスが崩れたのですが、政治的には対立しても個人的に含むところはなかったため、エジプト王(弟)の使いがポンペイウスの首級を持ってきた時、不快げだったと言います。そのためか、両王の争いを自分に預けて和平を模索しますが、弟王派に扇動された市民から攻撃を受け、その争乱の中でアレクサンドリアは炎上します(カエサルの軍船に放った火が、燃え移った巨大な図書館が火災になったといいます)。
 
カエサルはローマ市民の権限で、両王に出頭令を出すのですが国境都市ペルシオンにいたクレオパトラは動きが取れず、一計を案じた配下が華氈にくるんだ女王をカエサルの野営に運びこみ、女王とカエサルは、たちまち恋に落ちます。姉弟の破局は決定的となり、仲裁も無理だと判断したカエサルはローマ軍を率いてナイルの戦いでプトレマイオス王の軍を破り、クレオパトラは一三世の弟一四世と婚姻し、共同統治をつづけました。その後、巧くいくかと思えたにも関わらず、その庇護の下、ローマに滞在していた女王は、一児カエサリオンをもうけますが、カエサルが暗殺され、急ぎエジプトに帰還します。女王の誤算は、異邦人であったクレオパトラとの子カエサリオンをカエサルは嫡子と認めておらず、彼の大甥オクタヴィアヌスを養子として後継者に選ばれたことでしょう。クレオパトラは名目上の共同王一四世を暗殺し、我が子カエサリオンを一五世として共同統治に入ります。
 
しかしながら、ローマの政争はまたしてもエジプトの危機をもたらし、彼女が支援していたブルートゥスは敗れ、三頭政治派の長アントニウスは、女王に出頭令を出します。この時、クレオパトラは芳紀二〇歳、女神のように着飾ってアントニウスのもとに現れ、すぐに籠絡します。その後、東方遠征から帰還したアントニウスはアレクサンドリアを訪れ、女王に骨抜きにされ、これがローマ市民の失望を買います。
この間、アントニウスはオクタヴィアヌスの姉と結婚していたのですが離婚しており、カエサルの養子オクタヴィアヌスは義父に続いてローマ皇帝を次々に籠絡する魔性の異邦人の女として敵視していたため、アクティウムの海戦で敗北を喫したアントニウスは自決。残された女王はオクタヴィアヌスの監視下に置かれますが(自害を警戒していた)、ついに毒蛇に乳房を噛ませて女王は自害します。エジプトを制圧したオクタヴィアヌスはカエサルの私生児カエサリオンが後に後継者を名乗る(あるいは誰かの使唆を受けて名乗る)ことを警戒し彼を殺害し、ここにプトレマイオス王朝は滅亡します。紀元前三〇年の出来事です。
その後、エジプトはローマの属領となります。この物語はシェイクスピアが戯曲化したことで、さらに有名となり、その映画化もヴィヴィアン・リーやエリザベス・テイラーが演じ、妍を競う大作史劇となっています。
 
しかし、たいていの歴史書は、クレオパトラの死で筆を擱きますので、その後のエジプトや首都アレクサンドリアがどうなったか、そこまで詳しくは記していません。ディプロストーンがその時代に存在し、ユダヤ人への虐殺があったとしたら、その後の話でしょう。それまでの華麗な歴史に較べて、やはり見劣りがしますので、あまり言及する歴史家もいないのではないか、と思われます。

   3
 
文庫版の記述を軽く読みすごしている内は、なんとなく、世界史に少しでも詳しい人なら誰でも知っているあの事件、といった書き方で、私も七〇年代にはそう思っていたのですが、ネット検索という七〇年代には無かった手法がある今でさえ、ディプロストーンという存在そのものが、ほとんど検索して出てこない。日本語で検索して無いなら、まだ判りますが、英語に翻字したスペルの検索キーワードでもヒットしないのは異状です。
その壊滅の大災厄の時だけならともかく、それが全盛期の時代の存在も、あたかも歴史から抹消されているようです。他愛のない恋愛小説(?)だけにしか、引用されていないほどです。これは尋常な「無さ」ではない。ネットでは、綴りのミスタイプさえなければ、よっぽど特殊な学術用語とかでない限り、検索してヒットしない、ということはないはずなのです。たいていの術語はヒットします。スペルミスの場合はヒットしなくても仕方ありません。だから私は、diploston以外にも、dyplo~、dipro~等、思いつく限りのヴァリアントのキーワードで検索してみましたが、まったく出てきません(それに、実際に、それについて言及したユダヤ人作家が書いた小説中にそのスペルで明記されているのだから、スペルの間違いは、本当は有りえないでしょう)。
 
ただ、ユダヤ文献以外に、なぜか生物学関係のサイトもヒットしました。しかし、これを調べると、どうやら、「Diplostomum pseudospathaceum」なる寄生虫があるらしく、これの語源がDiplostonらしい。私のフラウは、理学部生物学科卒なので、「ある寄生虫の学名(ラテン語)の語源がどうしてその名になったか、ということを系統づけて説明している大事典のようなものはないだろうか?」と訊くと、「ない。そもそもリンネからこっち分類学は系統だってない」とのことで、これも追究は断念しました。
 
これはもう、ただ単に、私の知識が足りないとか、私の調べ方が浅い、というものではなく、あるいは、歴史そのものによって、この事件は、隠蔽されているのではないか。ユダヤ人にとっても、触れることが禁忌なのではないだろうか。そう思えるほどです。ユダヤ人の文献や文書以外には、存在そのものさえ「無かったこと」にされていて、ユダヤ人が書いた小説やその他のエセーでさえ、その全盛期のディプロストーン・シナゴグの偉容を称えるばかりで、その絶望的な末路については黙して語られない。これは何か異常なことだと思われます。
 
しかし、すでにベンダサン=山本七平氏だと判っている今、ディプロストーンについて、少なくとも山本氏は知っていたわけです。だとすると、残る手がかりは、山本氏が経営していた山本書店から刊行された古代のユダヤについての歴史書くらいですが、あいにく、今は全て絶版で、Amazon などでは猛烈な高値が付いています。そして、残念ながら、今、私の手許にあるのは、「ユダヤ戦記」三巻と「イエス時代の日常生活」くらいしかないため、他の、例えばヨセフスの「ユダヤ古代誌」などに言及されていたとしても確認のしようがありません(ヨセフスが言及していれば、それはそれでヒットするとは思うのですが)。
 
ただ、今、言えることは、英文サイトで、「ディプロストーン・シナゴグ(Diploston Synagogue)」という複合語ではヒットするので、おそらく、それは純粋に「ユダヤ人商工ギルド連合会事務所」とか工場や倉庫といった世俗的なものだけではないような気がします。つまり、それはあくまでも宗教的なものが一義的であり(シナゴグはユダヤ教の会堂ですから)、ついで工場や倉庫は、最初に建てられた時はアレキサンドリアのユダヤ人たちの宗教的な会堂だったものに付設した施設で、増設したために、巨大になったのではないか。だからディプロストーンとは全体がシナゴグの一部だったのではないか、という気はします。それ以上のことは現況では、まったく判らない、としか言いようがありません。
 
私は、元図書館員としての技術を駆使して、ネットで検索できる範囲内は全て検索しました。しかしながら、海外の検索エンジンも、大英帝国図書館、米国議会図書館などのOPACでもヒットしません。格言が残っているほどの存在だったら、どこかで(そういう言葉をタイトルに使っている書があるなりして)ヒットしそうな気がするのですが、とうとう見つけることが出来ませんでした。残念です。
 
という次第で――、
はなはだ、見っともないことですが、今の私には、「ディプロストーン」については、判りません、としか申し上げようがありません。どなたか、ご存じであれば、ご教示頂ければ幸いです。
 
 
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