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「日本人とユダヤ人」講読


             野阿梓


   第十三講  ニケーア会議
 
 

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文庫版には、
 
「キリスト教の成立と新約聖書の間には少なく見つもっても三百年の開きがある。キリスト教徒のいう「三位一体」などは新約聖書のどこを開いても出てこない。第一、人間が神を十字架につけて処刑するなどという思想は、モーセ以来の超越神の下に生きていた当時のユダヤ人の思想の中にあるわけがない。ニケーア会議までのキリスト教徒内の、現代人には全くわけのわからぬような論争は、イエスは神であるという思想を何とかこじつけて新約聖書に結びつけようとしたことにある。キリスト教は確かに聖書に依拠している。だが、聖書はキリスト教にその存立を依存しているわけではない。いわばキリスト教の一方的な片思いだから、たとえキリスト教が消えても聖書は残る。この関係はあくまでも明確にしておかねばならない」(一七〇頁)
 
――とあります。
 
さて、ニケーア会議とは一体なんでしょうか。これはニケーア(ニカイア)公会議とも呼ばれています。
そもそも、じゃあ、公会議とは一体なんだったのか。それがこの講の主眼です。
 
公会議(英語=Ecumenical council)とは、世界中からキリスト教徒の代表が集まって、さまざまな教義についてのルールを審議し、決定する会議のことです。簡単に言うとそうですが、内実は複雑です。
公会議は、まだパウロの時代にあったエルサレム会議に淵源するのですが、その時代の会議は、信仰の問題が論議されると、各地域ごとに会議を開いて議論の末に解決していたようです。
問題は、そうした初期キリスト教会時代ではなく、ローマ帝国がキリスト教を国教化してからの会議であり、その決定です。とてもローカルな会議では解決不能な(勢力を持った異端思想などの)問題が発生して、一つの地域を越えて紛糾するので、どうしても世界的な公式の会議が求められるようになりました。
 
しかし、まず、キリスト教と一口にいっても、たくさん宗派があります。
今、この講読で重要なのは、古代のそれですから、大体、カトリックが規定する、紀元三二一年のニケーア会議から、一九六五年までの第二バチカン会議、都合二十一回開かれた、それを指すと考えてよいでしょう。しかしながら、最初の公会議が開かれた当時、ローマ帝国の教圏の中心はローマではなく、コンスタンティノープル(ビザンティン)に移っていました。むろん、ローマにも教会は在りましたが、今のようなバチカンではなく、単なる主教座があっただけでした。それで、世界中から集まり、といっても、ニケーア会議では西方教会(ローマ)からは五人しか訪れていません。よって、この時代には主にビザンティン教会が会議の主体となります。
 
ニケーア会議は、つまり最初の公会議です。紛らわしいことに、七八七年にも同じニケーアで開かれた第二ニケーア会議があるのですが、ここでは省きます。別なテーマの会議だったと見なします。
また、もっと紛らわしいことに、当時は各地に同じ「ニケの町=ニケーア」と名乗る都市がいくつか有りました。もともとニケ(Nike)とは、ルーブル美術館にあるサモトラケのニケ像で知られる、ギリシャ神話の勝利の女神の名前でもあるため(靴のナイキの由来です)、各地に同名の都市がいくつ在っても不思議ではなかったのです。公会議のあったニケーアは、現在のトルコのイズニクに当たり、コンスタンティノープルのすぐ近くに位置します。

公会議MAP01



そういう次第ですから、会議の算え方(正統と認める会議の数)はそれぞれの宗派によって違います。ギリシャ正教会は第二ニケーア会議までの七回の会議を普遍的公会議と見なしています。
プロテスタントでは、もともとカトリック教会の優位性を認めていませんので、考え方が根本的に違うのですが、それでも初期の数回の会議およびそこでの決定事項の重要性は認識しています。たとえば三位一体の教義などは、聖書にはないのですが、そして、プロテスタントの主張としては、聖書にのみ即する、と言いつつ、これは受け容れています。
さらに言えば、カトリックが紀元四五一年のカルケドン公会議までに異端とした、たとえばグノーシス主義やアリウス派、ネストリウス派、単性説(仮現説を含む)など、ほとんどをプロテスタントも異端として斥けています。要するに立場上、バチカンの権威は認めないが、キリスト教がキリスト教として確立していった初期までの教義は、すでに出来上がって一千年以上たっているため、やむなく受け容れざるを得なかったのだ、と思われます。
 
それらの会議、またそれまでの地方会議で何が審議され、何が決定されたか。一言で言うと、「正統と異端」です。他にもあるのですが、主にこれが公会議の主題だと考えて構わないでしょう。
論争は正々堂々としたものでしたが、ある一つの宗教の教義(=ドグマ)をめぐる「正統」など、本当は、初めから存在するわけはない。ドグマとは独断とも訳されますが、論理学でいう公理に近いもので、あらかじめ論証されない問答無用の「真」です。それを前提として、他の命題が出される根本命題が公理であり、ドグマもほぼ同じです。
当時の百家争鳴の状態で、何が真か偽か、何が正統で何が異端か。それを決定するのは、ほとんど力関係です。だから、ことは、かなり政治的な事情も加わって、複雑な様相を呈しています。ローマ帝国(当時は東ローマ=ビザンティン)の皇帝の権力も、本来、政教分離のはずが、深く影響して、よけいに事態を複雑にしています。
 
古代オリエント世界には、当時、さまざまな主義や思想が瀰漫していました。真っ先に(地方会議の段階で)淘汰されたグノーシス思想などがそうです。これは、今在るこの世界は不完全で、なぜ不完全かというと、それを作った神様が偽の神(造物主=デミウルゴス)だったからで、本当の神は別にいる。それがイエスをキリストとして派わしたので、その再臨の時にこそ、偽わりの神は廃され、真の神と真の世界が成就する。といった教義ですから、まあ、それは淘汰されても仕方ないとは思いますが、結構な教圏の広がりを持っていたようです。
オリエントは一つではなく、複数の宗教が重なりあって出来た巨大なエリアでしたから、そこにはマニ教とか、そういった本当に東洋的な宗教もあり、また最後までキリスト教と争ったミトラ教なども併存していました。併存というよりか、互いに影響し合い、どちらがどちら、と言いかねるように、重なりあっていた、というべきでしょう。
 
それまでエルサレム会議でも、わりと決議はゆるやかで、それほど排他的ではなかったように、古代の初期キリスト教会は、わりあいルーズなところがあって、ローマ帝国が国教化するまでは、それはそれで良かったのです。本格的な神学論争になったら、分裂しかねない。そういう懸念もあったのだ、と思われます。しかし、ローマ帝国が国教としたからには、それなりの統一した見解がないと、どうしようもありません。時代の要請として、公会議は、どうしても開かざるを得ない。当然、そこで異端とされた教義は「偽」として排斥される。そういう時代になってきたのです。
 
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冒頭に引用した中で、「ニケーア会議までのキリスト教徒内の、現代人には全くわけのわからぬような論争」とは、そういう地方会議の記録を指しています。しかし、それがニケーア公会議で解消されたか、というと、もちろんそんなことはなく、部外者には、もっと訳が判らない論議が、そこで議決された、という印象です。では、それはどういうものであったのか。
 
しかしながら、初期キリスト教会そのものが、最初は、どれが正統か、という問い自体、意味がないほど、混沌としていたのです。パウロ書簡を読めば、パウロが生きていた時代ですら、各地の教会が、めちゃくちゃだったことが判ります。
それに、当時はバチカンはなかったので(ローマの司教座はあるにはあったが、他の司教や教会より格上だ、という優位性はまだ確立されていませんでしたし、教圏としてはビザンティン教会が遙かに優勢でした)、特にどこが最高の権威である、だからそれに従え。といった力関係でカタが付くものでもありませんでした。
だから、初期には、それぞれの地域の教会ごとに、論議が交わされ、勝った方が正統とされ、敗けた方は異端として排斥されたのです。とはいえ、たとえ排斥されても、その宗派の人々が、その辺にいないか、というとそうでもなく、わりと近いところで自分たちの勢力を拡げていました。オリエント社会の版図は、それくらいには広かったのです。
またキリスト教じたい、それほど厳しい紀律でみずからを縛ることもなかった。わりとルーズに、時として論争を交わしながら、個々の教会や司教座は、教義が多少は異なっても、併立しえたのです。それが不可能になったのは、やはりローマ国教化からでした。それでも、なお、ぐちゃぐちゃは、ぐちゃぐちゃのままだったのですが、統一した見解を出さねばならない、ということは、ようやく共通認識として皆が考えるようになった、とは言えるでしょう。ローマ帝国の版図を考えると、その国教となったからには、それはどうしてもくぐらねばならない関門であったわけです。しかし正統を決める、ということは、要するに異端を斥けることで、それは下手をするとキリスト教全体の「分裂」を招きかねない。そういう危険を孕んだ論争の場が、すなわち「公会議」だったわけです。
 
さて、当時、アリウス派と呼ばれる宗派が、主にアレキサンドリアにおいて勢力を強めていました。アレキサンドリア教会の長老アリウスの主張は、「神の子イエスは、その神性において、父なる神より下位にある」というものでした。要するに天辺に神様がいる。そしてその子として、つまり神から造られたもの(被造物)として、イエス・キリストがいる。という、わりと合理的な考え方です。
しかし、これでは、キリスト教のキリスト教たる所以が薄まってしまいます。イエス・キリストもまた、神の造ったものだ、ということになれば、ユダヤ教とどう違うのだ、とか、オリエント一帯に存在する宗教との区別をどう付けるのか、布教に当たっての差別化はどうするのか、いろいろと不都合な問題が出てきます。
バチカンはなくとも、当時のキリスト教会の指導者たちは、このアリウスの教義を認めてはならぬ。認めたら大変なことになる。そういった危機感があったのだ、と思われます。何があっても、イエス・キリストの死と復活(加えて処女降誕)は守らねばならない。それが宣教の基礎であり、各宗派によって異なる洗礼(普通の人間がキリスト者になる儀式、通過儀礼としての洗い清め)の洗礼式文となっています。


ところで、日本では、クリスチャンではない一般の人たちの大半は、「洗礼」の儀式を見たことがないと思われます。ヨルダンの川岸で洗者ヨハネがイエスに洗礼をした、と記されていますが、実際にどうしたかまでは細かい描写がありません。なんとなく川の水を頭にかける程度のものだ、と思っている人が多いのではないでしょうか。
むろん、そういう洗礼もありますが、現在も行われている大半の洗礼儀式は、本当に古代そのままの、かなりワイルドなものです。語源的にも「洗う」ではなく「浸す」がバプテストの意味ですから、専門的には「浸礼」と言います。
 
私は、実際に、バプテスト(洗礼)教会に通って、普通の人が信徒になる、その洗礼式(バプテスト儀式)を見たことがあります。二年半ほど通って、見たのは一度きりですが、忘れられません。
今日は受洗する人がいる、と聞かされてはいましたが、どんな儀式なのか、全く知識がないまま、臨んだのです。そして、これから受洗する、という人が、壇上に立って、なにやら文言を唱えた後、いきなり牧師から突き落とされるように、壇の中に設えられた水槽に沈められ、全身浴をしたのです。初めて見て、私は仰天しました。
それは、なんとなく映画などで見られる、カトリック教会で、まだ赤児に対して行われる、ちょっと聖水をかける、といったものではなく(あれは幼児洗礼といって、親が「この子をキリスト教徒にします」という儀式であり、それだけで済ます人もいますが、本当に自分が大人になって本当のキリスト教徒として生きたい、と願った場合は、再度、洗礼を受けることになるのです)、あのヨルダン川の岸辺で、洗者ヨハネがイエスにしたような野生的な、ほとんど原始的な、強烈な儀礼でした。古代オリエントでは、ヨハネの他にも、ミトラ教やグノーシスのマンダ教など、多くの洗礼教団があったと言われています。画像2

その後、久生十蘭の戦後の短編「春雪」の中で、戦時中にアメリカ兵の俘虜(捕虜)とプラトニックな恋をした女性(語り手の姪に当たる)が結婚するために受洗する場面を読み、あの時の光景がよみがえってきました。小説では、日本が敗戦する年の四月に、その少女は西日暮里の道灌山にあるキリスト教会で受洗するのですが、四月とはいえまだ寒い季節で、食糧事情の悪い戦時下にそんなことをしたら普通の人でも風邪を引くでしょうが、その少女は肺炎を起こして死んでしまうのです。十蘭の小説では、その後になって、その少女がいかに機略をつくして叔父に判らないように米兵との秘めたる恋に命がけでのめりこんだかが描かれるのですが、とにかく季節や体調によっては危険きわまりない儀式です。

私がいたミッション校はバプテスト系だったので、バプテスト派では必ず全身浴の浸礼となります。
その西南学院の創始者だったC・K・ドージャー師が、当時、福岡市の西新(現・百道浜)の海で受洗を行った写真を、先日、同じ学校の級友がSNSに投稿していたのを見ました。昔の新聞記事の写真のようで画質が粗い画像でしたが、いかに博多湾が内海とはいえ、あまり安全な環境とは言えません。肺炎に罹らずとも、下手をしたら波に掠われて死にます。しかし、宗教の名の下には、大概のムチャも許されてしまうので、当時は、そういう受洗形式を取っていたのだろう、と思うよりほか有りません。
 
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おそらく、それは、古代にあっては、本当に生死を賭けた「通過儀礼」だったのでしょう。どこの民族や部族の文化においても、多くは成人になるため、ですが、そうした一度死んで、よみがえる、といった荒々しい儀礼があります。それがキリスト教では、洗礼儀式なのでしょう。イエスが磔刑で一度死に、そして三日目によみがえった、洗礼はその再現です。キリスト教独自の通過儀礼として、だから洗礼式は厳粛なものであり、そして元々がイエスの死に淵源するので、荒々しいものとなります。
もっとも、ヨルダン河畔で洗者ヨハネがイエスにやっていたくらいですから、もともとユダヤ教の中に洗礼の歴史はありました。新約を読めば、多くのユダヤ人が、異邦人の家の敷地にすら入らないとか、不浄の物に触れたら必ず手を洗う場面はよく見かけます。清潔好きだからではありません。ヤハウェは不浄を嫌うのです。とはいえ、ユダヤ教は沙漠に生まれた宗教ですし、多くの沙漠の民は砂によってものを浄めるのが日常的ですから、わざわざ水を使うのは、ことさら沙漠で貴重な水を使うことによって特別な意味を持つのかも知れません。とにかく、ユダヤ教ではレビ記の古代より、水による不浄の浄めの儀式が特徴的です。特に、洗者ヨハネのような洗礼儀式は、「トヴィラ(tvilah=全身没入)」と呼ばれる全身浴がその起源とされています。
 
宗派によって違いはありますが、私が見たのは「浸礼」と呼ばれるもので、これは頭まで浸かる全身浴が普通です。川や海、またはプールを利用する宗派もあるそうですが、たいていの教会には、専用の浸礼用浴槽があります。
他には、カトリックの子が受けるような相手の頭頂に水滴を垂らす「滴礼」や、「灌水礼」といって牧師や神父がひざまずいた人の頭に水を注ぎ、それをもって洗礼とするものです。これらは浸礼に対する略式のものですが、だからといって、なおざりにしているわけではありません。信徒になると決めた人の中には病気の人や身体の不自由な人もいますし、それらを全部、全身水に浸すと健康害となることもありますので、そこは教会の判断です。
また、宗派によっては浸礼のみ、洗礼とするもの、また、これら全てを行うものもあります。さまざまですが、クェーカーや救世軍のように洗礼をしない宗派もあります。
なお、カトリックに限り、受洗後に、洗礼名を付けられます。守護聖人として聖人の名を冠することで、それに守られ、とりなしをしてくれる、という信仰です。
洗礼の派生形として、私たちがよく目にするものに、船の進水式があります。造船所で造られた船が初めて進水する時、ワインの瓶を船首にぶつけて割り、中の酒を浴びせる儀式は、バプテストの派生と見なされています(もっとも、ヴァイキングの時代には生贄の人間の血を注いだ、とも言われ、それを赤ワイン、やがてはシャンパンにした、との異説もあります)。
 
洗礼はともあれ、今では、「父なる神とイエス・キリストと精霊」の三つは同じ位格(ペルソナ)を持つ「三位格」だと見なされています。これは「使徒信条(クレド)」にありますから、キリスト教徒なら、誰でも、これが信仰の原点だと考えているでしょうが、では、「位格」とは何か、と聞かれたら、たいていのキリスト教徒は説明に困るでしょう。神学を修めた人間でない限り、この問いに即座に答えられる人はいないと思われます。そして、そういう説明を受けたとしても、それをすぐに理解できる非キリスト教徒は、まず滅多にいないでしょう。問うだけムダなことです。
 
ニケーア会議でのアリウス派の排斥と、(クレドの原型である)「ニケーア信条」の成立がなければ、この使徒信条の文言もなかったはずです。そして、使徒信条なかりせば、キリスト教徒のキリスト教徒たる所以も、またない。それほどには重要なのですが、そもそもこの使徒信条じたい、キリスト教徒の外部にいる私たちには、あまり意味が掴みにくい文言です。その背景にある思想(の格闘とその歴史)が判らないと、これがなんで問題になるのかさえ、理解できません。というか、そもそも、異端とされたアリウス派の教義よりも、正統の三位一体の教義の方が判りづらいのです。どうしてこれが正統となり、アリウスが異端となったか、私にはよく理解できないほどです。
 
使徒信条は、
 
「わたしは全能の父なる神を信じます。わたしは、その子イエス・キリストを信じます。主イエスが聖霊により宿り、乙女マリアより生まれ、ピラトから苦しみを受け、十字架にかけられて死に、三日目によみがえり、全能の父なる神の右に座し、そこから主イエスは来たりて、生きる人、死せる人を審かれます。わたしは聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、肉体の復活、永遠の生命を信じます。アーメン」
 
――といったもので、宗派により、異同はありますが、大体、以上の要素が入っていれば、それは使徒信条となります。あれだけ大ゲンカしたのに、カトリックもプロテスタントも、この使徒信条に関しては、ほぼほぼ同じ文言を唱えています。まあ、そうでなければ、キリスト教のエキュメニズムも大同団結もあったものではないでしょうが。
この信条の文言は、ニケーア会議より古く、ローマ信条という原型があり、大体、紀元二世紀後半頃には成立していた、と見られています。カトリックとプロテスタントの別はともかく、プロテスタントの中でも、無数の宗派がありますので、多少の用語の違いがあっても、そこでも、唯一の公同のものです。
 
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ここで唱えられているのは、いわゆる「三位一体(トリニティ)」の論です。「神=イエス・キリスト=精霊」の三つが同格にあって、自分たち信徒はそれを信じ、それに従う。それがクレド(使徒信条)であり、それを口にして誦することが信仰告白となります。逆に言えば、これを認めない者は異端として排斥されることになる。そして正しく、このニケーア会議で、アリウス派は、異端として排斥されたのです。
 
アリウス派の主張を極端に言えば「イエス・キリストは神の被造物である」ということになり、神そのものではないことになります。対してアタナシウス派の教義は、いや、キリストも神である。というもので、父なる神と、子なるイエス・キリストを同格に置いたものです。これに聖霊を加えた、いわゆる「三位一体」説は、「父と子と聖霊」は「実体」としては同質(一つ)だが、三つの「位格(ペルソナ)」を持つ。という少しややこしい神学的な論になり、しかも、そういう説明ではなく、後半部は「神は~~~ではない」という否定神学で語られる面倒な論証になります。こうした「否定神学」論法は古代ギリシャ哲学の昔からありますが、おそらく本当の神学論争で公式に認められた最初のものでしょう。アリウス派は、そんな複雑怪奇な説は認められない。神は一つだけなのだから、あくまでも神の下にイエス・キリストは存在するので、劣位にある。という、今の私たち(キリスト教徒でない人間)から見ると、わりと真っ当な意見です。
 
もともと、この論は、アリウスの師であるアンティオキアのルキアヌスという人が唱えた説で、彼が弟子であるアリウスに伝えたとされていますが、紀元三一二年頃、ルキアヌスは、ローマ皇帝マクシミヌス・ダイアの迫害によって殉教しているため、カトリックでは聖人に列せられています。異端説の黒幕なのに、カトリックでは列聖してしまっているのです。弟子のアリウスは、梯子を外された感じです。
 
ルキアヌスの弟子のアリウスは、この説を唱えたため、アレキサンドリアの主教アレキサンドロスに破門されているのですが、当時、各地に同様の思想を唱える宗派が殖えたために、地方会議ではラチが開かなくなり、統一見解を出すためにコンスタンティノープル近くのニケーアで会議開催となりました。召集したのが東ローマ皇帝コンスタンティヌスだったので、仕方ないのですが、総勢三一八人だかの司教たちですが、その同行者がいたので、それぞれの帯同者を合わせると、全体数は千八百人以上だったと思われます。しかし西ローマからは、たった五人しか召集に応じなかった由です。会議を軽んじていたわけではなく、おそらく、当時の西方教会では、ビザンティンまで人を派わす余裕が、それだけしかなかったのだと思われます。
そして、会議の議論の結果、アリウス派の教義は異端として排斥され、同時に「ニケーア信条」も反対わずか二名の僅差で議決されました。これだけ見れば簡単のようですが、実に、ここまで丸二ヶ月かかっています。そして、これがキリスト教の将来をも決定づけたのです。
 
今ではプロテスタントも三位一体の教義は受け容れていますから、この点では、カトリックも正教会もプロテスタントも区別はありません。つまり、ほぼキリスト教全体が、これを認めている(コプト教会その他いくつかの少数派が認めていない)。当時は、まさかバチカンが今のような権威ある存在になる、とか、将来ルターが、そのバチカンの堕落を批判して九五条の駁論を突きつける、そしてプロテスタントが生まれる、などといった歴史の未来は判るはずもありませんから、ニケーア会議だけで、決定してしまって良かったのですが、後から振り返ってみれば、これが歴史の分岐点だったことが判ります。
 
しかも、ニケーア会議で決まったからといって、けして「三位一体」説が安泰だったわけではなく、東ローマ帝国の宮廷内の政争などと絡んで、あとで皇帝がアリウスの復権を認めたのです。このため、会議に出席した時、アタナシウスはまだ三十歳の助祭(司祭の下の聖職)で、アレキサンドリアで司祭となりましたが、この逆転劇のおかげでアレキサンドリアから追放の憂き目に遭います。彼は、五度、追放されて、東西の帝国を流浪し、五度、復権して、アリウス派の排斥に生涯をかけます。この神学論争は、結局、アタナシウス派の勝利となり、アリウス派は、北方のゲルマン人たちへ布教し、アリウス派の説は三位一体ほど判りにくい教義ではなかったため、ゲルマン人の土俗的宗教と習合し、ある程度の教圏を得たそうです。むろん、本格的にローマ帝国の国教として布教が再開されてからは、それらも各地で異端として排斥されています。
 
その後も、さまざまな異端説が論じられ、排斥されるのですが、中でも重要なのは、一般にアルビジョア十字軍と呼ばれる、主に南仏で隆盛をみたカタリ派の排斥でしょう。カタリ派(アルビ派とも)は第三回ラテラノ会議で公式に異端である、と議決されたのですが、南仏に群雄割拠していた領主たちの抵抗に遭い、カトリックへの転向は難航しました。その後、教皇庁が派遣した使節が帰途、暗殺される事件が起き、時の教皇インノケンティウス三世は十字軍を発動させます。
 
この教皇の号令は、以前も第四回十字軍が、聖地奪回のはずが、東ローマ帝国を攻略し、コンスタンティノープルを失陥させるなど、指揮系統や使命が、背後の権力によって左右される嫌いがあり、第四回十字軍の場合は、コンスタンティノープルと覇権を競っていたヴェネツィア国が目標を換えており、主な理由は東ローマ帝国内のお家騒動にありました。あらかじめ言い含められた皇帝の亡命皇子が正統な帝位回復の代償として莫大な対価を払うというので、聖都奪回のはずの十字軍が他でもない、もう一つのローマ帝国の帝都を攻撃したのです。しかもこの亡命皇子は約束の対価を払えなかったため、十字軍の怒りを買ってビザンティンは略奪の憂き目に遭いました。すべて教皇のせいではないにせよ、発動させたのですから責任は重大でしょう。この頃から、教権が衰退し、王権がより強くなっていくのは、彼の責任です。
 
そして、アルビジョア十字軍もまた、北仏の諸侯が南仏を劫掠する格好になります(この時、仏国王は英伊との戦争で多忙につき、参加を断っています)。その後、何度かの攻防があるのですが、結局、最終的には、仏国王が総指揮を執って南仏を制圧します。必ずしも、教皇の意向とは異なりますが、北仏(パリを中心とするオイル語圏)勢力が、南仏(ラングドック圏)地方を蹂躙する結果となり、これで仏国の大都市はパリ一つになったようなものです。マルセイユが第二の人口が多い都市ですが、それでも七〇年代に九〇万、対してパリは市だけで二〇〇万を、首都圏では一二五〇万人を超えます。フランスの大統領とパリ市長の対立などを見ていて、よく理解できないことがありますが、おおむね、フランス人はパリ政権を嫌っており、各地方の自治を誇る傾向にあるのも、これが遠因でしょう。
 
ニケーア信条も可決されたので、紀元二〇〇年頃にあった「ローマ信条」を元にして書かれた「使徒信条(クレド)」が公同の信条として認められた格好です。同一の文言ではないにせよ、およそキリスト教の各宗派は、ニケーア信条か、それに近い「三位一体」を使徒信条としています。プロテスタントも、大方は、それに倣っています。
また、ユダヤ教との断裂として、安息日は(ユダヤ教の)土曜日ではなく日曜日に、復活祭(過越祭)の計算も、ユダヤ教の暦法による計算を破棄し、新たな暦法で決定しました。これらは幾つかの混乱を招き、特に暦法の算出はかなり後代になって結着しています。
ともあれ、そういう会議が、ニケーア公会議でした。
 
これは、私がクリスチャンではないから、太平楽をならべていられるのかも知れませんが、じゃあ、クリスチャンはきちんと三位一体の教義を理解して、それで使徒信条を唱えているのか、というと、それは疑問です。そもそも布教の時代(時期)には、間口を広くして、新しい信徒を受け容れなければならないので、初めから、キリスト教は、こんなややこしい教義がある宗教なんですよ、とは言わないし、言えないでしょう。そしていったん信徒になった人は、なんとなく日々、使徒信条を唱えているうちに、それを確と理解しないまでも、なんとなく、判ったような気になるのだ、と思われます。
 
おそらく、日本にかぎらず、普通のクリスチャンに対して、非キリスト教徒が、三位一体の教義について詳しく教えてくれ、と聞いたら、かなり多くの人が当惑すると思います。非常に高度な神学的な教養が背後になければ、三位一体、という説明困難な教義を自分の頭で考え、自分の言葉で説明できる人は、そうそういないはずです。ニケーアで二ヶ月紛糾したことが、一晩で語れるわけがない。
 
しかし、そもそも宗教とは、そういう裾野の広さから成り立っているので、その宗教の奥義のような教義を真に理解しなくても、いや、理解していないならなおさら、それを理解していない自分を視つめて、そういう、いたらない自分を戒めるのが正しい信徒の在り方でしょう。まだキリスト教について自分は判ったとは言えない。自分はクリスチャンとしてはまだまだ未熟なのだ、と思って、多くのクリスチャンは、そういう裾野の部分で生きている。それが普通の信徒の在り方だろう、と思います。それは信徒として、別に恥じることでもないし、責められる筋合いもありません。ある宗教を「信じる」、ということは、教義を理解する、という以上の世俗的ないかなる権力やその他の力学をこえた「絶対的な力」があります。それがまた、宗教という文化の高度で、理解が難しいところです。
 
半可通の知識をもって、お前には自分に三位一体を説明することが出来ないじゃないか。それでクリスチャンと言えるのか。などと問い詰めても、だからムダなのです。宗教というもの、信仰というものは、そこに在るのではない。一つの文化の総体として、社会の中に存在しているのです。だから、いかに無教養で教義に無知であっても、信徒の力は強い。それが宗教の強さであり、信仰の強さになっている。それを理解しないと、宗教について何か判ったとは、絶対に言えないのです。
 
 
さて、その後も、何度かの会議をへて、正統と異端の決定がなされましたが、最初の公会議としてのニケーア会議の特徴としては、新約聖書のどこにも、そんなことは書いてない「三位一体」という神学の説を、いわば聖書外で、生み出し、それを「正統」としたことでしょう。皮肉をこめて言うと、これは画期的な事跡でした。
 
新約は、初期キリスト教会(以前のナザレ派)とユダヤ教を決裂させ、ニケーア会議は、教会と新約とを断裂させた、とも言えるでしょう。
すなわち、初めて新約聖書やパウロ文書から離れてキリスト教会が自立したのです。同時にそれは、同じ一神教であるユダヤ教との永訣でもあり、また聖書とは独立してキリスト教独自の教義を決めてもよい、という思潮をまねきます。
これが、まあ、後の世のプロテスタントの発生の初源ともなりました。プロテスタントは、あくまでも聖書に拠る、という姿勢ですので、一部のプロテスタントでは、当初、三位一体説を認めない。という宗派さえあったのです。
かくのごとく、神学論争は面倒くさいものであります。

 
 
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