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「日本人とユダヤ人」講読


             野阿梓


   第十五講  ハジ・アミン・アル・フセイニ
 

 
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文庫版では、
 
「民族の争いなどというが、英委任統治時代には、ナチス党員(だったといわれる)エルサレムの首長ハジ・アミン・アルフッセイニとその私兵団のテロに対して、また英委任統治当局の弾圧に対してユダヤ人とアラブ人が共同して戦ったのは事実である」(二〇六頁)
 
――とあります。
 
さて、ハジ・アミン・アル・フセイニとは、一体どういう人だったのか。
当時の私には、それを知らず、また知る術もなかったし、また、さほどの関心もなかったのですが、その後、戦間期(第一次大戦と第二次大戦の間)の世界情勢を調べる必要があって、いささか認識をあらためました。

伯林星列01


〇八年に、私は、かねてから構想中だった「ナチスやおい」作品の、前日談として「伯林星列(べるりん・せいれつ:ベルリン・コンステラツィオーン)」を上梓しました。前日談というのは、先に構想した話「琥珀美童」より、この物語が時系列的に前になるからです。その作中で、私は次のように描いています。
 
「一九三六年四月二五日
……
この日、エルサレムでパレスティナのアラブ五大政党がアラブ高等委員会を設立した。独逸を追われたユダヤ人がパレスティナに入植することを、狂信的なアラブ過激派は認めず、ユダヤ人とアラブ人との暴動が激化していた。これに対応するための処置であった。
だが、パレスティナのアラブ社会は、その最も先鋭で暴力的な部分を、ナチ秘密党員たるハジ・アミン・アル・フセイニが掌握している。高等委員会も彼を制御することは不可能だ。
世間での誤解は多いが、パレスティナにおいてユダヤ人とアラブ人は全面的に対立などしていない。そのごく一部が武装闘争を行なっているので、ハジ・アミンやアーロンベルクの組織の方が実は少数派なのである。
パレスティナでの英国委任統治の圧政に対しても、またハジ・アミンのテロに対しても、ユダヤ人とイスラム教ドルーズ派などアラブ人穏健派はともに闘って抵抗運動を続けている。その共闘をぶち壊しているのが、ハジ・アミンの私兵団であり、また、アーロンベルクの組織でもあるのだ。シオニストは、原則的にパレスティナの土地にアラブ人の存在はもとより、ユダヤ人以外のそれを認めていないからである。
だが、いかな狂熱的なシオニストでも、現実を見る目くらいは持っている。アーロンベルクにとって、アラブ高等委員会設立のニューズは明るいものではなかった。ナチであるハジ・アミンの暴虐に対し、彼らは他ならぬナチスを相手に、取り引きを申し出て、独逸国内でのユダヤ人迫害を強化し、その国外流出を促進しようとしている。だが、それによってパレスティナにおける人口比率が左右されることにアラブ社会も神経質になっている。シオニストの謀略はパレスティナのアラブの富裕層には見抜かれていると思っていいだろう。それは、ハジ・アミンにしても同じことだ」
 
ここでアーロンベルクというのは、架空の人物ですが、彼はエルサレムの秘密機関から派遣されてきたセファラディ・ユダヤ人のスパイで、宿敵であるはずのナチス・ドイツに対して、「欧州のユダヤ人への弾圧を強められたし」との上部からの要請をもたらしたのです。これは、欧州でナチスによるユダヤ人迫害が強まれば、恐慌にかられたユダヤ人たちが、当時、英国委任統治領だったパレスチナへの移民をせざるを得なくなり、結果的に、当地でのユダヤ人の比率が増え、アラブ人と対立している状況を好転させる、という目論見から、あえて同胞らの弾圧を敵であるナチスに、恐るべき依頼をするための密使なのです。
実際に、ヒトラーが政権を取った三三年から数年間にアリヤー(ユダヤ人のイスラエル移民)は増加したのですが、その後、数値が低迷したために、ハガナー内の移民担当局が焦りを憶えたから、そういう強硬手段に出た。という構図です。もちろん、私の作品はフィクションですが、当時、そういう動きがエルサレムのユダヤ人の軍事組織ハガナーにあったのは事実だとされています。
そもそもヒトラーが政権を獲った三三年に、ナチスとドイツ・シオニスト連盟間で「ハーヴァラ(移籍)協定」が結ばれ、移民の意思のあるユダヤ人がその資産をドイツ内で売却し、それはドイツ製の必需品としてパレスチナへ出荷され、その代金として支払われることで、ユダヤ人はパレスチナへ出国し、ドイツ経済局は潤う。富裕層に的をしぼったこの協定は、ナチスとシオニストの双方から批判を浴びましたが、これにより六万人のユダヤ人が「アリヤー」可能になったのです。
また、ハガナー内には複数の諜報機関があり、三九年に統合されシャイとなり、これがモサドの前身です。虚構の物語なので、その辺はぼかしていますが、その方面から派遣されてきた、という設定になります。
 
第一次大戦後に英仏列強の、対アラブ政策(というより石油戦略)に翻弄され、変乱が相次ぐパレスチナにおいて、シオニストたちの一部が武装し、ハガナーが生まれました。ヘブライ語で「防衛」という意味で、元々は英国やアラブ過激派から同胞を守るための自衛団だったようですが、たちまち組織化されました。これが後のイスラエル建国後に、国防軍の基礎となります。
英国がパレスチナの委任統治の支配権を放棄し、第二次大戦が終わった後、四八年にイスラエル建国となった前後から、ユダヤ人ほど統一の取れていなかったアラブ人たちは遅れをとります。しかしながら、別段、すべてのユダヤ人とアラブ人が抗争していたわけではない。対立していた事実もない。ただごく一部の過激派が互いにテロリズムに走り、そのスローガンとして民族や宗教を掲げていたに過ぎないのです。
 
ベンダサンが言うよう、一部の人たちが誤解しているかも知れないにせよ、七〇年当時のパレスチナ情勢として、イスラエル(ユダヤ)人が圧倒的に優勢だったとしても、それはパレスチナ全土でユダヤ人だけが対アラブ諸国と戦っていたわけではありません。そもそも、中東戦争とは、ユダヤ人とアラブ人との民族紛争でもなく、またユダヤ教とイスラム教との宗教戦争でもない。文庫版のこの節のタイトルにもあるよう、また前頁に明記されているように、
 
「パレスチナの争いは土地争いでも民族の争いでもない。それはあらゆる争いと同じく体制の争いである」
 
――というのが一番ただしいでしょう。
 
ただ、どのような戦いでも、きれい事ではすみません。背後や水面下での汚い戦闘や策謀はつきまといます。そして例外なく、どの側も、皆それを「大義」の美名で飾ろうとします。そもそも、パレスチナという土地は、エルサレムという三大宗教の聖地があり、歴史的に複雑な経緯があるため、どうしても、みんな、その争いの原因が、宗教や民族や、歴史の桎梏のせいだ、と見なしがちですが、それは誤りです。しかしながら、世界は、穏健派の多数派では動きません。どうしても、過激な少数派に左右されます。そして彼らは、いつだって、その無差別テロの理由を、宗教や民族といった大義に求めるのです。それに瞞着されると、パレスチナの悲劇は見えなくなります。
 
とはいえ、上述のようなことだけ強調すると、まるでハジ・アミン・アル・フセイニが、過激ではあるが、小規模なアラブ人のテロリスト一派のように見えるかも知れませんが、そうではありません。
彼は、エルサレムの名家フセイニ家の出身であり、第一次大戦後は、(アラビアのロレンスと共に沙漠で共闘した)あのファイサル一世王の大シリア構想に共鳴して、ともに戦っています。二〇年にファイサルは大シリア王となりますが、その地位は脆弱でした。仏露のサイクス=ピコ協定は、ロシア革命により政権奪取したソ連によって暴露されます。これを知ったファイサルは密かにオスマントルコと和平交渉して、イラク王国の安定を図りますが、第一次大戦終結後の条約で、オスマントルコが解体され、フランス=シリア戦争により仏軍の侵攻で、ダマスカスが陥落し、ファイサルは英国に亡命し保護されます。二一年に彼は推されてイラク王国の王となります。三二年、イラクは国際連盟の委任統治終了により、名実ともに王国として独立しますが、その政情は不安定で、翌年その心労のため、ファイサル王は死去したと言われています。五十歳。波乱の人生と若すぎる死でした。
 
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他方、戦後のパレスチナは英国の委任統治下におかれます。フセイニは独自に汎アラブ主義による大アラブ構想を打ち樹て、パレスチナをアラブの手に取りもどすべくテロ集団を率い、二〇年、ユダヤ人の過越祭と同日に行われるアラブ人のモーセ祭(ナビ・ムーサ)の日にエルサレム旧市街でテロを起こし、ユダヤ人四人を殺害、指名手配を受けてダマスカスに逃亡します。そしてそこから翌年、十倍の規模のテロを指示するのです。ビン・ラディンの先達のような人物であり、アラブ社会の名門に生まれながら、アラブの大義のために矯激なテロリズムを信奉していました。
 
しかし老獪な英国は(ユダヤ人のそれと同様に)アラブ人の歓心を買うため、二一年、彼に恩赦を出し、彼はエルサレムの大ムフティーに任じられます。大ムフティーとは、スンニ派のイスラム圏で、最高法官への称号であり、政祭一致のイスラムにおいて、事実上、最高指導者の立場になります。前任者は彼の兄、カーミルでしたが、この時の選挙では、ジャララ家のハッサン・アド・ディン・ジャララが推されていました。ジャララはフセイニ家のライバルであり、アラブ社会への影響力はフセイニの方が強い。そう判断した、ユダヤ系英国人のハーバート・サミュエル高等弁務官が、ユダヤ人とアラブ人の仲介役としてジャララを説得して退いてもらうことで実現した措置でした。しかしフセイニは、こうした英国の懐柔策を利用して、その権限を最大限に利用し、シオニストたちと武力で対抗します。
 
ユダヤ人過激派のシオニストたちは、アリヤー・ベト(ユダヤ移民機関)を介して、各国のアリヤー(ユダヤ人のイスラエル移民)を増強し、パレスチナにおけるユダヤ人の人口比率を上げようと画策していたのですが、フセイニは、この動きを封じようとしたのです。
ユダヤ系であるサミュエル高等弁務官は、まずシオニストの支持を取り付けて、英国政府内では、自由党の党首ロイド・ジョージらの信頼を得て、その地位を確立しました。それ以前は英国内相などを歴任する有能な政治家でした。二九年から副党首の任にあたり、ロイド・ジョージ引退後は、自由党党首になっています。
それはともかく、高等弁務官とは、植民地などで統治国が行使する政治的権限を付与され、本国から派遣された司政官の長であり、事実上、その委任統治領のトップですから、「二千年ぶりにパレスチナを統治するユダヤ人」などと言われましたが、その前途は両方の党派の抗争により、多難でした。
 
最高指導者の地位につき懐柔されたかにみえたフセイニは、それにつけこみ、扇動や指示により、ユダヤ人の大量虐殺が連続して起こります。アラブ過激派としては、シオニストのアリヤーに対しては断固として阻止する構えを見せ、妥協は有りえません。人口比でパレスチナのユダヤとアラブ人の勢力が変われば、シオニストの台頭を許すことになるのは必定ですから、譲るわけがない。彼は、ヒトラー政権から逃れて移民してきたユダヤ人の多くを、ファイサルと共闘した時代のよしみで、シリアから武装集団を呼び寄せてまで、テロで多くを殺害、シオニストの動きを阻止しようとします。
 
彼のテロは、敵対するユダヤ人のみならず、自身の思想や行動に批判的な反フセイニ派の同胞アラブ人にも向けられ、多くのアラブ人がテロの犠牲になりました。しかし、このようなフセイニの攻勢にも関わらず、ユダヤ人のアリヤーは三五年にはピークに達し、ヒトラーが政権を獲った三三年から三六年の間に、十六万四千人もの移民がパレスチナに到着し、別な統計では、三一年から三六年の間に、同地のユダヤ人の人口は一七万五千人から三七万人に倍増します。この結果、ユダヤ人の人口比率は一七%から二七%に増加しました。先に、バルフォア宣言では、パレスチナの委任統治下でユダヤ人の人口が四五万人を超えたら「ユダヤ人のナショナルホーム」設立の条件としていましたので、この数値は重要になります。当然ながら、アリヤー政策を推進するユダヤ人とアラブ・パレスチナ人との関係は悪化しました。
 
パレスチナをアラブとユダヤ両方に分配する分割案が提示された三九年三月のロンドン会議の決裂により、英国チェンバレン政権は一方的に「三九年白書」を出します。これは、ユダヤ人の移民を五年間に七万五千人に制限し、それ以上の移民はアラブ人の多数派によって決定されるとしたものですが、どちらからも拒絶されます(アラブ穏健派は受け容れようとしましたが、フセイニは拒否しました)。いずれにせよ三九年九月のドイツ軍のポーランド侵攻によって、和平を前提としたハーヴァラ協定やこの白書は反故同然となります。第二次大戦が始まったのです。英国の戦略構想では、いずれ始まるであろう戦争において、中東地区でのユダヤ人の支援と同時にアラブ人の支援が必要だったので、三九年白書という形を取りましたが、開戦とともに、もはや平和的解決手段はなくなります。
 
だから、拙作「伯林星列」での上記のような記述は、歴史のごく一部を切り取ったものでしかなく、また、なにしろ小説のことですから、多少、勢いで書いている点があるのは否めないところで、フセイニがナチスの秘密党員だった、というのは噂にすぎず、その確証は得られていません。誇り高きイスラムの名家の生まれであるフセイニが、所詮、価値観の異なる西洋人の走狗となる理由はない上に、後に彼はヒトラーと会談をもっているほどですから、ナチの秘密党員云々。はフィクション上の誇張表現として捉えて下さい。フセイニは、決してそれほどの「小物」ではありません。
 
フセイニは三六年から三九年までの間に「パレスチナにおけるアラブ人反乱」と呼ばれる組織的暴動を画策し、実行しますが、さすがに彼の行動が眼に余るとみた英軍による徹底的弾圧で、この「大反乱」は鎮圧されます。この反乱にナチスが資金提供をしていた、との風説もありますが、確証はありません。この結果、フセイニは英当局からレバノンのベイルートに追放されます。
開戦後、イラクは英国の要請に応じてドイツと断交し、在留独人を抑留します。三九年十月、情勢を読んだフセイニは、密かにベイルートを脱出しイラクに入り、アラブ民族主義者の歓呼の声に迎えられます。彼は数年前に死去したイラク創設者ファイサルの後継者と見なされたのです。
四〇年には、彼の暗殺が英国内で論議されますが、チャーチルたちが閣内で決断する前に、イラクで人気のあるフセイニを除くことは外務省からの異議で見送られます。こうした意見の対立は、別段、大反乱でのフセイニの行為の是非を問うものではなく、すべて石油資源のための英国の政策にすぎないのです。
 
四一年にイラクで親枢軸国派のクーデタが起きると、英軍が軍事介入したことで、フセイニはイランに亡命します。しかし英軍はイランにも迫っていました。
この少し前ですが、三四年(昭和九年)には日本のアレクサンドリア総領事とフセイニは会見しており、サウジとイェメン間の国交樹立を仲介したりしたことから、イランに英ソ両軍が軍事侵攻した際には、彼は日本大使館に逃げこみ、その後、枢軸国のよしみで、イタリアに亡命しています。
ありとあらゆる伝手を頼って、彼は一貫してテロを止めようとはしません。彼はそのために、より高度な政治的交渉に乗り出します。
 
四一年十月にはローマに赴き、ムッソリーニと会談し、総統はユダヤ人とシオニズムへの敵意を表明し、彼の目的は達成されます。翌十一月にはドイツに渡り、ヒトラーと会見して、ナチス・ドイツは欧州全土からユダヤ人を殱滅することを約し、フセイニは中東・北アフリカからユダヤ人を一掃して、アラブ人の民族主義運動の支援をヒトラーから取り付けます。第二次大戦中には、ベルリンから反ユダヤ主義的宣伝をラジオで放送し、アウシュビッツの視察まで行なっています。
米以での彼の評価として、「ホロコーストを促進したのはフセイニだ」との批判もありますが、彼の言動はともかく、六百万のユダヤ人およびシンティ・ロマ人、同性愛者、精神疾患者その他を虐殺したのは、あくまでもナチスであり、その責任を他に転嫁するのは間違いでしょう。
 
確かにフセイニは、ある種の狂気にそまった人物ですが、ロシア革命初期のナイーヴなロープシンなどと異なり、宗教的テロリストは正気では務まりません。ユダヤ戦争でエルサレムが陥落した後でもマサダ要塞に立てこもって抵抗を続けたユダヤ人シカリ派にせよ、ペルシャの伝説的な暗殺教団にせよ、また最近ではビン・ラディンにせよ、みな同じです。狂気という内なるダイナモがさらに彼らをして過激なテロを駆り立てるのです。彼らの狂気は、追いこまれた人間のそれであって、個人の資質とは関係ありません。ある立場に立てば、人間は政治的に狂気の領域に入ってしまうのです。
そして、彼をそこまで追いこんだのは、英仏列強の外交の不実が最大の原因であり、フセイニのテロがいかに熾烈かつ残虐であっても、列強の責任が免れるわけではない。それは、しっかりと心に刻んでおく必要があります。イスラエル建国までの時期、そしてその後の中東戦争まで、ユダヤ人もアラブ人も、ともに状況に追いつめられていたのです。
 
四五年に第二次大戦が終結すると、オーストリアにいた彼は英軍に逮捕されますが、すぐに脱獄してカイロへ逃げのびます。中東戦争がイスラエルの勝利に終わると、ガザ地区で全パレスチナ政府を樹立しますが、アラブ連盟の支持にも関わらず数ヶ月で崩壊します。ヨルダンで開かれたジェリコ会議では、後任を名門ハシム家のアブドラ・アル・フセインに託し、内部的には、「全パレスチナの王」の称号はアラブ諸族の民族自決の理念に反するとの批判を受けますが、どうにか取りまとめて、トランスヨルダン(ヨルダンの前身)の安定化を図ります。しかし、アブドラがイスラエルのゴルダ=メイア首相と接触したことを察知したフセイニは彼に刺客を送り、五一年に暗殺されました。敵に味方するものは、誰であっても敵です。イスラエルも彼を暗殺する計画を樹てましたが、ベングリオンは、アラブ世界が大マフティーを殉教者として祭り上げるだけだ、と判断して計画を中止させています。
 
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七〇年頃、私は、埴谷雄高氏の政治思想の本を読んでいて、「「彼は敵だ。敵を殺せ」。それが政治だ」という非常の思想哲学のアフォリズムに接して、なるほど、そういう世界に棲む人々もいるのだ、と思ったものですが、フセイニやビン・ラディンはまさしく、そうした狂気の世界に生きている。当たり前ですが、ユダヤ人の側も、穏健派ばかりがいたわけではなく、フセイニがテロに走ったのは、そうしたユダヤ人側のテロに対抗したから、互いにエスカレートしたのです。
私は別に、どちらを弁護する積もりもありませんが、歴史上の物ごとは公平に見る必要があると思っています。こと、テロに関するかぎり、イスラエルも決して誉められたものではない。フセイニを非難できる立場にはないでしょう。どちらも同程度には、罪を犯し、手を汚しているのです。
 
イスラエル国防軍の基礎となったハガナーの他に、ユダヤ人の軍事組織としてイルグン(エツェル)というものがありました。これは映画「栄光への脱出」でも対照的に描かれていましたが、テロを是とする方針の異なる過激派組織であり、イスラエル国防軍が成立する過程で、粛清されています。しかしアラブ側のテロと同時に、ユダヤ側のテロもあったのです。ユダヤ人過激派のテロがなければ、当然、アラブ側のそれもないことになります。こういう局面では、どっちが善いとか悪いとか、言うことは出来ません。
 
粛清されたユダヤ過激派イルグン(エツェル)は建国から第一次中東戦争までの間にデイル・ヤシン事件(エルサレム郊外にあったその名の村をイルグンが襲い、大量殺戮した)などを起こしたことで知られますが、しかし、この事件の真相は、さらに忌まわしいことが現在では判っており、ハガナーを含め、イルグンら武装集団がパレスチナ在住のアラブ人に恐慌を来してヨルダンへ逃散させるために、当時の首相ベングリオンらが策動したものであり、これはダレット計画と呼ばれていたことも判っています。その中でも、イルグンは非主流派だったので、スケープゴートとして、防衛軍設立の際に粛清された、というものです。むろん、パニックに追われて逃げたアラブ人の土地には、アリヤーで移民してきた異邦からのユダヤ人が入植するのです。汚い手だ、と言う以外ありますまい。
ですが、かつて我が大日本帝国も、対ソ戦略から満州帝国という傀儡国家を作り、そこに満蒙開拓団を送って、満州(中国東北部)の農民から収奪した土地を与えました。似たようなことをしているのです。戦争とは、欲望という燃料を喰らった国家が機関車のように驀進することです。個々のテロリズムは、おおむね、その戦争という巨大なメカニズムの一部にすぎない。それを忘れてはならないでしょう。
 
デイル・ヤシン事件の時のイルグン指導者はメナヘム・ベギンでした。彼は後にイスラエル首相となり、(米カーター大統領の仲介によって)七八年、エジプトのサダト大統領との歴史的握手を交わし、ノーベル平和賞を受賞したのは、なんとも歴史の皮肉としか言いようがありません。この時の平和条約により、シナイ半島のエジプトへの返還が決まりました。しかし、サダト大統領は八一年に暗殺され、以埃間の和平への道は遠のきました。
他方、ハガナーからは、ラビン、シャロンらの首相、また隻眼の将軍で知られるダヤンらが表舞台に出ています。
 
最終的に、フセイニのテロ活動は失敗に終わり、パレスチナ内のアラブ人は団結することが出来ませんでした。最初の分割案では、パレスチナにユダヤ人の居住地とアラブ人の居住地を分けて同時に建国するはずでしたが、イスラエル建国は成っても、アラブ側のそれは、各国の思惑や内部分裂のせいで、成りませんでした。その結果が、今のパレスチナ紛争なのです。フセイニが分断工作をせずに統一を目指していたら、といった想定は意味がないのですが、およそ、テロで傾いた国はあっても、テロで建設された国はありません。
 
私が驚いたのは、今回、調べてみたら、七〇年の時点では、彼がまだ存命だったことです。
当時は、フセイニの影響力は完全に失われ、パレスチナのアラブ側の政治情勢はPLOの支配下におかれるようになっていました。フセインは、隠遁していたベイルートで七四年に死去した由です。七七歳。血と硝煙につつまれた人生でした。

 
 
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