2021年8月29日6時23分

タイトルが親父の命日となった。

個人的な記録のために記す。

告知されていた「持って9月末」という予定を大幅に繰り上げて、親父は逝ってしまった。入院して一週間、数値は少し良くなってきて、30日に退院という話で進んでおり、そして次の転院先とも打ち合わせをした直後の話。容態が急変したらしく、8/28の早朝に「急いで来てくれ」と病院から連絡が入った(正直この時点でもう亡くなったかと思った)。

母を連れて病院に到着すると、いつもはコロナの関係で面談不可のところ、2人とも病院の処置室に通してもらえた。中に入ると呼吸器とたくさんの管をつけた親父が寝ていた。心電図は上は130、下は90あたりをいったりきたり。母が泣きながら声をかけると目を覚ました。目ヤニのせいか開いていたのは右目だけ。僕も声をかけると反応してくれた。

時折「あつい!」と言いながら起き上がろうとするのだけど、それを押さえておでこを触るとむしろ熱は無い。神経からくるものだろうか。看護師さんがその後きてくれて、処置が終わって個室に親父を移してくれた。

そこで看護師長さんの代理の方から「正直どうなるかわからないため、顔を見ておきたい人には連絡をしてほしい」と言われた。母はそんな精神状態ではなかったため、連作先がわかる人たちには僕から連絡を入れた。遠方にいる妹にも連絡を入れた。あらかじめ伝えていたものの、やはり電話越しの妹の涙は胸に来るものがある。

母はもう覚悟をしていて、病院への宿泊を勧められたコトもあり、残るコトになった。僕は家の周りの対応のために帰宅。妹の到着を待って再度車で病院へ。泣きながら病室に入った妹が一生懸命に声をかけると、少しだけ反応してくれた。結局、これが最後の生きている親父との面会になった。

8/28の夜は、泊まっている母から逐一報告が入り続けた。連絡はいいから2人の時間を大事にしてほしかったのだけど、それはそれで胸が詰まりそうだからと僕と妹に連絡を入れていたらしい。

そうやって寝付いた8/29の朝5時前。「母から呼吸が荒くなってきたから来て欲しい」とLINEが入った。妹とその子どもたちを起こし、車で病院へ。それでも間に合わず、病室に入ると母が泣きながら「間に合わなかった」と。

先に僕が親父の前に立ち、手を握り、耳の近くで「今までありがとう!本当にありがとう!あとのことはなんにも心配するな!!」と声をかけた。妹は「早すぎるよ!」と泣き崩れた。

覚悟をしてたコトもあるし、立場もあるから、涙は出なかった。実感がない、というのもウソではない。薄情な息子かもしれないけれど、色々な場面で前に立ち、母を支えねばならないのだ。これはそういう意思の話でもある。それでも泣きそうになったのは霊安室に付いてから。甥と姪は「なんとなく」程度で理解していたのだが、いざ霊安室で対面したとたん、静かに静かに泣き出した。動かなくなったおじいちゃんを見て、理解したのだと思う。

こうして親父は無言で帰宅した。

葬儀場の人が親父を運んでくれて、それからは親戚や親父の友達が入れ替わり立ち替わりでやってきた。小学校の頃からの友達が来た時も泣きそうになった。人生の8割以上を共にした友達だ。卒業アルバムに「永遠の友情」と書き連ねていたコトも知っている。文字通り永遠となってしまったのが、悲しかった。

そんなわけでお寺さん行ったり各所に連絡したりお風呂入ってなかった母をお風呂に入れたりして一段落して現在に至る。

入院の日、意識があるうちに「お父さん」と久しぶりに呼べたコトは、やっぱり良かったと思える。言いたいコトはもう全部「ありがとう」だけだ。

お父さん、育ててくれてありがとう。後は何にも心配するな。

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