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おじさんとバナナ

呑み屋が入ったビルのコンクリートは、雨じみなのか、黒くくすんでいる。新しく出来たコンビニの前にはベンチがあり、学生がおにぎりやラーメンを手に、楽しそうに話をしている。以前は古本屋や喫茶店などが立ち並んでいた場所である。

 南口駅前もだいぶ様変わりしてしまった。駅から玉川上水沿いに通り抜けられる遊歩道ができ、それにともなって、周辺の店や家などが取り壊されてしまった。

 その中のひとつに材木屋さんがあり、敷地内を駐輪場として開放していた。私もそこに自転車を預けて、駅から職場までの道のりを通っていた。

 材木屋さんには「やっちゃん」とよばれる70歳をゆうにこえた番頭さんがいて、自転車の出し入れをしてくれていた。
「明日は何時に来るんだ?」
「えーと、早番だから七時半でお願いします」
「わかった、気をつけてかえれー」
 そんな会話を交わして自転車を預けると、次の日にはすぐに出発できるよう、きちんと指定した時間に自転車を外に出してくれているのである。収容は50台以上。一時受け入れも含めると、もっとあったかもしれない。私のように、定時ではない人もたくさんいた。それをひとつずつ覚えていて、一台一台ていねいに外へ出し、準備してくれているのである。

 朝は6時すぎから夜は22時すぎまで、ずっと自転車の出し入れをしていた。おじさんにとって、激務だったはずだ。時にはイライラして、
「やってられないよ」
と愚痴をこぼしたりしていた。とにかく話好きで、たくさん雑談をしたことを思い出す。なによりも、1日の始めと終わりに、おじさんに会える事がうれしかった。
「自転車の鍵忘れちゃった」
と言えば
「これ乗っていけ」
と、おじさんの自転車をかしてくれた。
 
 駅前の大型工事が決まって、新しい駐輪場を見つけ、材木屋さんに預ける最後の日にお菓子と手紙をおじさんに渡した。
「嫁さんに見つかっていろいろきかれちまったよ」
と後日照れながら頭をかいていた。数日後久しぶりに材木屋さんの前を通った時である。
「おうい」
と呼ばれて振り返ると、おじさんが手招きをしているのがみえた。
「このあいだは、いろいろもらっちまったからよーースーパーで見つけたもんで、〇〇さん(私)にあげようと思ってよ、ちょうど今食べごろだからよ」
と、おいしそうなバナナを差し出した。
「ありがとうございます」
と言う私に
「ちょうど食べごろだから」
と、おじさんは繰り返した。心なしかバナナの入ったスーパーの袋がずっしりと重く感じた。

 それから、おじさんを見かけたのは2回程。後ろ姿があまりにもさびしげで、声をかけられなかった。


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