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”ウルトラマン”が初めて3分以上活動した日

たまには自分の過去の話をしようと思う。

ウルトラマンが地球上で活動できる時間は、3分である

みんなお馴染みこのルールだが、「ウルトラマンなんていないし」「空想のお話でしょ」とあんまり気に留めたことはないだろう。

実は私、ウルトラマンだった時期がある。みんなびっくりすると思うが、これは本当のこと。今まで黙っていてごめんなさい。

という唐突な釣りからスタートしたこの記事(笑)
本当のことを言うと、あだ名が「ウルトラマン」だった。
今日はこのウルトラマンが、掟破りの3分以上活動した日の話をしよう。

○なぜ私はウルトラマンになったのか

私がウルトラマンと呼ばれていたのは中学校のころ、バスケットボール部に所属した時。その時期の私は自律神経失調や副腎機能低下症など中学生にしてはハードな病気を抱えていて、部活なんてとてもできる状態ではなかった。いわば、部活にあまり顔を出せない”幽霊部員”だ。元気な時に体育の授業に参加するのがやっと。年に1回の運動会はだいぶ無理をして出た。

ただ、部活はやめたくなかった。
・バスケしているのは楽しいので、現役のうちに元気になって復帰したい
・チームメイトのみんなが好きだった
・中学校における「部活を辞める」のハードルの高さがえぐい
と思いつけばいくらでも続けたい気持ちがあった。

すると、中学1年生の序盤から続いていた体調不良が2年生の秋頃に本格的に落ち着いてきた。徐々に動けるようになってきて、部活にもちょっとずつ参加できるようになっていった。嬉しい。

とはいえ、1年間ほとんど部活のハードな運動を習慣的にしていないので、そのブランクはとても大きい。もちろんフルにメニューをこなせるのは相当調子がいい時くらいで、練習中に吐き気を催し、戻してしまうことも日常茶飯事。体力が全然なかった。

そんな中でも、顧問の先生が試合で出番を与えてくれることもあった。公式戦ではなく、練習試合や勝敗が決まった試合の最後の方に使ってくれた。自分としてはここで目一杯アピールしなければいけないので頑張っていたが、実際問題体力がないのでそう長くは動けない。

先生は「響くんはウルトラマンだから、3分しかもたないもんね」と口にした。多感な中学生に喰らわせるにしては少々ブラックすぎるジョークだったが、いつの間に部内でこの「ウルトラマン」というあだ名は定着していった。試合に出る時は「ウルトラマン〜」と呼ばれて、ベンチに下がった時は「3分経ったから」と言われる。

なお、本人は幼少期から本家本元のウルトラマンが好きなタイプなので、そんなに悪い気はしなかったらしい。

○「さらばウルトラマン」引退試合の日にその時は訪れた

チームの中での序列は最下位、ベンチでの声出しと馬車馬のように暴れる3分間に定評があったウルトラマンも、いよいよ中学校最後の大会を迎えることとなった。

私の中学校があった地域は学校が4つしかなかったので、
1回戦:前回大会の1位vs4位、2位vs3位が試合
2回戦:勝ち同士が決勝、負け同士が3位決定戦

と言うレギュレーションだった。私の中学校は自分たちの代では1度も勝ったことがない4位だったので、初戦から都大会常連のキングに立ち向かわなくてはいけない。そんなん勝てるわけないやん。

私も最後の大会だったのでちょっと気合が入っていた。もちろん、「応援ちゃんと頑張ろう」と言うベクトルだけど。

先生はその日のスタメン発表を直前にするタイプの人で、ひとりひとり肩をそっと叩いて発表するなんか小粋な感じ。いつも通り靴紐を結び直していると自分の肩に手が乗った。焦った。まさかのスタメン。抜擢なのか労いなのかは置いておいても初の先発出場がシーズン最終戦という、いかにも引退っぽさがあった。「ようやくの初先発か…!」なんて感傷に浸っている間もなく試合が始まってしまう。

プレッシャーというよりも一瞬で気合が入った。とりあえずコートに立つ。まあ、バタバタはしていたと思う。しかもその日は味方が絶好調で、意外にも競り合っている。競り合えている。私はついていくことが精一杯だったが、とりあえずうまいこと守れていた…はず。攻めは笑えないくらい関与できなかったが(笑)

無我夢中で試合にのめり込んでいたが、気づいたら4分くらい経っていた。意外にも3分以上動けた。でもこう、いざ時間を見てしまってからは一気に足取りが重くなったのを覚えている。この時点で一旦お役御免。1クォーター8分で試合をするので「こんなもんか」と思った。

ここからは応援に集中できる!と思っていたら2クォーターも頭から出場。まさかの確変が起きていた。そんなにいいパフォーマンスができていたわけでもないが、とりあえず暴れるだけ暴れようとの気持ちだった。試合も拮抗していたし。すると、今まで集中できていたはずの守備が綻んだ瞬間があった。

自分の頭上を超えるロングパスを通され完全に相手に抜けだされた。ただのワンプレーだけれど、当事者本人ははっきりと覚えている。ぶっこ抜かれた感がすごかった。そこからは完全に相手のペース。区のチャンピオンの独壇場に飲み込まれて試合はワンサイドゲームになってしまったのだ。

私もそこからはベンチに下げられ、そのあとは出番がなかった。試合も負けた。

○ベンチに下がった後に考えたこと

下げられてからはただ試合を見ているしかなかったが、その間に色々と考えてみた。

「自分が出てなければ勝てたんちゃう?」
「準備が足りていなかったんちゃうんか?」
「試合に出るのなんて100万年早かったんじゃないんか?」
「100万年立つ前に引退しとるわ」

みたいな自戒の念がめちゃくちゃ沸き上がってきた。
コートに立てる人数には限りがあるし、いくら交代が簡単にできるバスケットボールでもコートに立つことの尊さは十分理解していた。出られなかった側の人間であるが故に、その重さは人一倍感じていた。

そりゃもう悔しくて仕方がない。多分いきなりワンサイドゲームだったら心持ちも違ったと思う。競り合っていて「ワンチャンあったんじゃね?」という戦況だったから、余計に試合をぶち壊した感があった。

中学3年間うまくできないのが当たり前だった私にとっては、試合に出られること自体が100点満点だったはず。ただ、その中でいい結果が出せなかったこと、何もできなかったこと、試合をぶっ壊した原因になってしまったことは何よりも耐え難い屈辱だった。虚しかった。気付いたらめっちゃ泣いてた。

他のチームメイトは次の日の3位決定戦もあるし、みたいに意外にもケロッとしていた。悔しくて泣きじゃくっていたのは自分だけで、後輩はその姿を見て引いていたらしい。後々冷静になったら自分でも引いた。母親は見てケラケラ笑っていたので今でも許せん。

○ウルトラマンが地球を去ってからもうすぐ10年が経つ

上記の「初スタメン号泣事件」が起こったのは2012年。よく考えれば2010年から2012年の3年間は本当にいろいろあった中学校生活だった。その中でもこの事件は鮮明に記憶しているほど、私にとって大きな出来事だった。

人生で3本指に入るくらい悔しい瞬間だったし、その中でも随一のエピソードだ。

いまだになぜあの試合でスタメンに入れたのかはわからない。コロナ禍が終わったらどうせチームメイトの誰かが結婚するだろうし、その時に集まったら聞いてみることにする。

ただ、あの時の悔しさが今の自分にずっしり効いていることは今でも感じる。だからこそいまこうして書き留められている。

ここからは完全に余談だが、段落に記した「さらばウルトラマン」はウルトラマンの最終回のサブタイトル。ウルトラマンが最強の敵・ゼットンに敗北を喫して宇宙に帰っていくお話だが、私の「ウルトラマン」というあだ名もバスケットボール部引退と同時に去っていった。シュワッチ。

▼そんな元ウルトラマンのTwitter
@Hibiki82441
https://twitter.com/hibiki82441

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