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【鉄板エピソードトーク】一番の青春時代は車椅子で過ごしましたが、成長できました。

「あなたが挫折をした経験を教えてください」

就活生であれば、誰もが経験したことのある質問。準備をする上で、僕も問いに対する答えを探していた。考えだして間も無く、ソッコーでその解は出た。

「高2の頃、足折ったときやん」

高校2年生の時、僕はバレーボール部の合宿中に足の骨を骨折した。ジャンプサーブの練習の際に転がっていたボールに着地してしまい、足首の剥離骨折と靭帯損傷のケガを負った。

とはいっても、選手生命を絶たれるようなケガではない。治ればプレーはできる。「所詮その程度」と言われればそうかもしれない。しかし、自分にはこのタイミングでケガをしてはいけない大きな理由があった。

僕は念願のレギュラー奪取目前だった。

自負するのも胡散臭い話だが、正直それまでのコンディションは絶好調。先輩が引退するまでは公式戦で試合に出れず、ようやく自分たちの代になった。だからレギュラーを獲りたくて、ママさんバレーに通ったり夜ランニングしたりしていた。運動音痴の自分にはこれくらいしないとどうにもならなかったし(笑)

直前にシューズを新調し、直前の練習試合でもなかなか上手くやれてたと思う。負傷前日の山道ランニングでは、それまで部内でビリだった自分が上位に食い込むノリノリモードに入ってた。夏休み後半に控える公式戦に向けて、最高のチャンスがあった。

そんな矢先。3泊4日の合宿、2日目の朝イチでやっちまったわけだ。病院で診察を終えると、お昼頃に宿舎に移送された。みんなが帰ってくる夕方頃まで5時間ほど暇な時間ができた。

「このまま先に帰る?帰らない?」
「この夏休みどう過ごす?」
「無事に復帰できるのかな?」
「部活辞めてえな」

近いところから先のことまで、何から何まで不安になってしまった。とりあえず中学の親友達に電話したけど、何を話したか覚えてない。テレビもワイドショーばかりで、3時頃始まった水戸黄門の再放送が面白く感じるくらいだった。

しばらくして、親と電話で話した。父方の実家がある長野県での合宿だったので、そちらに行く選択肢もあったが、結果的に残ることにした。

じゃあ、あと2日間で何をしようか。

「プレーヤーではない自分ができることを模索しよう」

そう決意を固めた経緯は、今でもよくわからない。単に合宿に残ったからかもしれないし、合同合宿で同じ宿舎に来ていた女子バスケ部の元カノにカッコつけたかったのかもしれない。後者が濃厚だと思う。

でも、残り2日間はめちゃくちゃしんどかった。特に、練習場から宿舎までのバスはとても苦しかった。部員は途中でバスから降ろされて走って宿舎に帰る。自分は宿舎までひとっ飛び。喪失感を感じて、なにより悔しくて泣いた。マネージャーも泣いてくれてた。余計泣けた。他の部活の生徒もたくさん合同合宿に来ていて、哀れみの視線的なものを勝手に感じてしまう。シンプルに恥ずかしいし、悔しい。

その中で、マネージャーと接する機会が多くなったので、普段記録してくれている「ミス表」を書いてみたり、部員への声かけを昔よりやってたと思う。美人マネージャーとイチャつけたのは最高に美味しいポジションだった。今でも仲良し。

そんなことは置いといて、プレーを失った自分がこのチームにできることはなんなんだろう。それを考える合宿に、それを考える夏休みになった。そうでもしてないとやってられんし、動けない以上は考えることばっかりが先行していしまう。

合宿から帰ってきたら、高2の夏休みであることを思い出した。海水浴、山登り、そんなん無理やて。車椅子だもん。映画を観に行くのにもひと苦労。車椅子に乗せられて家の近くでデートした淡い夏だった。懐かしい。

華々しい高校生の夏休みはそこにはなかったけど、自分の本質をそこで見つめる大きなきっかけになった。バレーボール部内でプレーすることを失えば、それ以外の価値で自分を表現するしかなかった。シンプルに目立ちたがり屋だったし、なにより貢献できない寂しさを感じていた。だから頑張ろうと思えた。

①その場所、立場で何が求められているのか
②今自分が置かれている立場を客観視できるか
③困難の先になんかあるんか

すぐに答えが出たのは①と②。プレーができない状況は容易に理解できたので、チームの雰囲気作りや簡単な手伝いをやってみた。③については後ほど。

チームのメンバーの暖かさに、改めて触れることもできた。不器用なキャプテンは車椅子を押してくれて盛大に壁に突っ込んだり、後輩は「響さんの怪我が治るまで合宿は終わらないです」ってちょっと意味わからんけど嬉しいことを言ってくれたりした。

「あ、もう成長だな」と夏休み後半には感じていたので、この辺ではもう美談になりつつあった。驚異的切り替え。

早いもんで9月の中頃にはプレーヤーとして復帰。その後も色々あったけど、レギュラーは獲れなかった。しかし、辞めたくもなった部活をやり切って悔いなく終われたことは大きな成長と捉えられる。

さっきすっ飛ばした③だが、その「なんか」は「やり切る」大切さだったと思う。

あー苦しい、悔しいと思いながらやるのは大変だったけど、やり切ったら楽しかったよって思えちゃった。みんなが「ムードメーカー」って言ってくれるようになったし、それは後世語り継ぎたいくらい誇り。今でもバレー部のみんなとは仲良くやってる。

単なる根性論や言葉だけで見れば軽くなってしまうが、苦しい事でも乗り越えた先には絶対に成長があった。もちろんレギュラーを獲れなくて悔しいし、今でもケガしたところは時々痛い。梅雨時なんてほんと最悪。でも、それでもいい。そこで自分と向き合った事はそれ以降にも繋がってるし、こうして言語化できるいい財産になった。

長ったらしくなったところで、最後に。
「考えるばっかのやつはダメだ」とか「noteやブログで自己顕示欲満たしてるだけ」とか言われたりしますが、こうして胸張って言語化できる財産があるわけです。PV数なんて今はどうでもいいから、なんか書いてみただけ。

とりあえず、
高2の淡い思い出にあざす、と一言。
この時支えてくれた人たちにあざす、ともう一言。

また後日!

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